徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

玉名女子高校吹奏楽部コンサート

2024-08-31 21:04:56 | 音楽芸能
 今日は午後から熊本県立劇場へ「玉名女子高校吹奏楽部コンサート」を見に行った。彼らの演奏をホールで聞くのは随分久しぶりのような気がする。思えば彼らの先輩の演奏を初めて見た時からちょうど50年経ち、今や全国的にトップレベルの吹奏楽部となった。演奏を聞きながら、その圧倒的な音楽性にひたっていた。
 今年も座奏、マーチングともに金賞を目指す季節がやって来た。今日のコンサートで演奏した「勇気の旗を掲げて」が全日本吹奏楽コンクールの課題曲、「カタリナの神秘の結婚」が自由曲になる予定らしい。結果はともあれ玉女らしい演奏をやってほしい。 

【第1部】
 ♪ コンサートの幕開けを演出で飾るPrologue Circus
 ♪ 行進曲「勇気の旗を掲げて」
 ♪ カタリナの神秘の結婚 2023年版
 ♪ UTA-HIME~美空ひばりメドレー~2021年版

【第2部】
 ♪ コンサートの幕開けを演出で飾るPrologue One
 ♪ ALADDIN
 ♪ America the Beautiful(マーチングメドレー)
 ♪ ふるさと
 ♪ かモン!くまモン!
 ♪ カーペンターズ・フォーエバー


   ▼2024年度熊本県高校総文祭パレードより

瀬戸坂とその周辺のはなし。

2024-08-30 17:51:38 | 熊本
 先日放送されたRKK熊本放送「水曜だけど土曜の番組」で「第1回KING OF ドウロ」というちょっとワケのわからない企画をやっていた。熊本県内の個性的な道路をピックアップして№1を決めようというものだが、6つ選ばれたうちの一つになぜか「瀬戸坂」が選ばれていた。坂の街である京町の中でもわが家から最も近く幼い頃から慣れ親しんだ坂である。僕も高校時代はこの坂を通学路としていたが、自転車通学の友人には難所だったという。番組ではこの約300㍍、傾斜角度9.6度の坂をノーギア自転車で一気に登り切れるか番組MCのローカルタレントまさやんがチャレンジし、なんとか成功した。


瀬戸坂

 その話はさておき、「瀬戸坂」、古い文書では「迫門坂」とも書かれているが、その名の由来は、坂を下りきったところに坪井川が流れており、川幅が狭まっていた、つまり「瀬戸(迫門)」があったのでその名が付いたという。昭和初期頃まで坪井川の舟運が盛んで、瀬戸は船着場として物流の要衝だったらしい。
 今日、地域住民の間では常識となっているが、この一帯(旧称 寺原田畑)はかつて海だったという。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々。また、かつて打越では貝塚が発掘されたこともある。ところが、いったいいつ頃まで海だったのかというと、これがよくわからないのだ。有明海が内陸部まで入り込んだ時期というのは6千年も前の「縄文海進」や千年ほど前の「平安海進」などがあるが、6千年も前に、まるで和歌にでも出てきそうな美しい地名がつくとは到底思えない。ということは「平安海進」の時ということになるかというと、この一帯が海ということは今の熊本市は大部分が海に浸かっていたことになる。平安時代の熊本の歴史を調べてもそんな史料は見出せない。推測だが、おそらく、海が退いた後、低地が沼沢として残り、かつて海だった記憶が子々孫々まで伝わり、沼沢を海に見立てて地名をつけたのかもしれない。ちなみに寺原(てらばる)とはこの地に浄国寺(静国寺)があったことからこの名がついた。現在の浄国寺は北区高平2丁目にあるが、元は瀬戸坂から家鴨丁(あひるちょう)と呼ばれた小路に入ったところにあった。平清盛ゆかりの寺といわれ、寺号は清盛の法名である静海(浄海)に由来するという。浄国寺は近年、松本喜三郎作の生人形「谷汲観音」があることで有名になり、県内外からファンが訪れている。


秋の色種(あきのいろくさ)に言寄せて

2024-08-29 20:23:47 | 季節
 史上最強といわれ、各地で猛威をふるっている台風10号ですが、直撃を覚悟していたわが町では一時激しい雨は降ったものの暴風らしいものもなく、やや拍子抜けの感がありました。
 まずは被災された皆様へお見舞い申し上げるとともに、これからの台風進路にお住いの皆様のご安全を心よりお祈りいたします。

 まだ台風もいくつか来襲するとは思いますが、8月も終わりに近づき、いよいよ秋色濃い時季になっていくものと思われます。猛暑続きだった今年の夏。「夏バテ」の症状が出てくる頃かもしれません。皆さまどうかご自愛くださいますようお祈り申し上げます。



ここ見て! ~新町シャッターアート~

2024-08-28 11:11:12 | 熊本
 熊本中央郵便局(熊本市中央区新町2丁目)の前を通られる方はご覧になったことがあるかもしれない。道路を挟んで向かい側の博栄堂印房さんのシャッターには舞台の上の女性らしき絵と「清正舞わせり 出雲阿国」という文字が書かれている。しかし、シャッターが降りているのは営業終了後か休業日なので意外と見たことがないという方が多いようだ。これは新町のシャッターアート・プロジェクトの一つとして描かれたもので、江戸時代前期に書かれた加藤清正の伝記である「続撰清正記」の中に記された「塩屋町三丁目の武者溜りで八幡の国という女歌舞伎が興行をした」という故事に基づいたものである。この「八幡の国」なる女歌舞伎は後世の人々に「出雲阿国」と呼ばれたその人なのである。そして「続撰清正記」に書かれた「塩屋町三丁目の武者溜り」があった場所がまさにこの辺りなのである。


博栄堂印房さんとシャッターアート


シャッターの左側に描かれた「出雲阿国」


シャッターアートのもとになったと思われる「阿国歌舞伎図(一部)」


「続撰清正記」にはこう書かれている。
--八幡の國と云歌舞妓女肥後國へ下たる事
其頃八幡の國と云ややこを下し熊本の鹽屋町三町めの武者溜りにて勧進能をいたし其能の跡に歌舞妓をして家来の諸侍は銀子一枚宛出し桟敷を打て見物し地下町人は八木(米)を持来て鼠戸の前に市をなし押合々々見物したり・・・--

 この辺りは「船場柳御門」があった場所で、熊本城下の南東、船場橋から山崎町方面を監視する関所門で番所が置かれ、門の前には勢屯(せいだまり)があった。この勢屯に小屋掛けしてまず勧進能が行われ、その後に阿国歌舞伎が行われたという。

舞踊「与一の段」余談

2024-08-25 21:31:33 | 古典芸能
 昨夜のEテレ「古典芸能への招待」は「古典芸能を未来へ」と題して、講談をメインに華やかな日本舞踊が繰り広げられた。
 中でも平家物語「扇の的」をモチーフとした舞踊「与一の段」はいろんな意味で興味深く、楽しんだ20分だった。出演は尾上菊之丞、市川染五郎、藤間紫、長須与佳(琵琶)ほかの皆さん。
 まず僕の興味の1点目は、かつて那須に在勤していた頃、度々訪れた那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)は、那須与一ゆかりの神社であり、与一と源義経が初めて出会った場所でもあること。屋島の戦いにおいて勇名を馳せた弓の名手与一は、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た源義経に出会い、父の資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説が残されている。また与一が扇の的を射る際唱えた「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ」という祈念詞は舞踊の中でも歌われた。舞踊では那須与一を尾上菊之丞さん、源義経を市川染五郎さんが演じた。


那須与一ゆかりの那須温泉神社(栃木県那須郡那須町大字湯本)※写真は那須町観光協会様のご提供

 2点目は、与一が屋島の合戦で射落とした扇を掲げた平家の官女が玉虫御前(たまむしごぜん)。玉虫御前の故郷は肥後国は御船の玉虫といわれ、玉虫御前が源平合戦後、故郷に帰って寺を建て、平家の菩提を弔った玉虫寺の跡が残っていること。僕は若い頃、仕事でこの付近をよく車で通っていた。
 この玉虫御前を演じたのが朝ドラ「ブギウギ」にも出演した人気舞踊家・藤間紫さんというのも親しみを感じた。


楊洲周延 作「那須与一」(船上の女性が玉虫御前)


玉虫御前を演じた藤間紫さんの舞


玉虫御前の故郷・玉虫寺の跡(熊本県上益城郡御船町滝尾玉虫)

 そして最後に、この舞踊を盛り上げたのは叙情性ゆたかな長須与佳(ながすともか)さんの琵琶と歌。
 彼女は平成15年度の第9回くまもと全国邦楽コンクールで最優秀に選ばれており、令和元年に行われた「邦楽新鋭展Vol.5」で初めて彼女の演奏を観た。この時も彼女が演奏した「扇の的」に感動した思い出がある。そして昨夜その感動が甦った。
 彼女は薩摩琵琶奏者であるとともに琴古流尺八の奏者でもある。


「おわら風の盆」に見る祭と民謡の関係

2024-08-24 21:22:24 | 祭(まつり)
 今夕、NHK-BSで「決定版!おわら風の盆 スペシャルライブ」が2時間にわたって放送された。今年の「風の盆」は9月1日からなので、昨年の中継映像を編集したものらしい。
 僕がこの「おわら風の盆」という祭の存在を初めて知ったのは48年前、1976年9月27日に放送されたNHK「新日本紀行」の「おわら風の盆」。哀調を帯びた音曲と目深な編笠スタイルの妖艶で優雅な踊りはミステリアスでさえあった。その不思議な魅力に強く惹きつけられた。この放送後、全国的に有名になっていったようである。


 この「おわら風の盆」の重要な要素が「越中おわら節」。これが実は「牛深ハイヤ節」をルーツとする、全国に40以上存在するといわれるハイヤ系民謡の一つなのである。海運が盛んだった江戸時代、北前船などの廻船によって、牛深の港から全国各地の港へと伝わっていったハイヤ系民謡の中でも異色の存在が「越中おわら節」だ。何が異色かと言うと、まずその曲調。「牛深ハイヤ節」の南国的な明るいアップテンポとはおよそ雰囲気を異にする哀愁漂う音色は、ルーツが「牛深ハイヤ節」だとはとても思えない。今では「越中おわら節」は全国的に有名となった「おわら風の盆」の歌のように思われているが、昔はそうではなかったらしい。ちょうど熊本で言うと「山鹿灯籠まつり」と「よへほ節」が合体したのは昭和に入ってからであるのと同じだ。八尾という町はかなり内陸だが、昔は井田川や神通川などの舟運が発達していたのでハイヤ節は富山湾から川を遡って来たらしい。そんなことも曲調が変わって行った背景にあるのかもしれない。民謡の歴史を辿ってみると実に興味深い。



農兵節(ノーエ節)

2024-08-23 19:50:42 | 音楽芸能
 先月24日に他界された民謡歌手の水野詩都子さんは、日々の出来事や思いなどを「詩暦(うたごよみ)」というタイトルのブログで語っておられました。
 そのブログの最後の記事が静岡県の民謡「農兵節」についてでした。YouTubeの東海風流チャンネルvol.68にアップされている「農兵節」を聞きながら、民謡歌手としての心構えを述べておられるブログを読み直しました。水野さんの表現者としての姿勢や人となりがしみじみと伝わってきます。
 あらためて、民謡を通じて私たちに音楽の愉しみを届けていただいたことに心から感謝を申し上げます。


琴平神社と善光寺

2024-08-22 17:46:02 | 歴史
 今日、所用で琴平通りを通ったので、琴平神社に初めて参拝した。この通りは若い頃勤めていた会社が白山町にあって琴平神社の前をよく通ったのだが参拝したことは一度もない。赤鳥居の扁額には「別所琴平神社」とある。「別所」というからには「本所」があったはずで、これが何かというと「善光寺」なのである。鎌倉時代には信州長野の善光寺が勧請され「瑞応山善光寺」としてここに創建されたという。明治政府による「廃仏毀釈」で「善光寺」は廃寺となり、琴平神社だけが残った。
 参拝した後、境内を見て回っていると参集殿の前で何やら作業をしているカジュアルな装いの男性が目に入った。神社の関係者かと思って聞いてみた。実はこの方は熊本大神宮の権禰宜さんで時々手伝いに来られていることが後でわかるのだが。
 「何か善光寺の痕跡は残っていますか?」
 「石仁王像など善光寺時代からのものもありますが、ハッキリわかるものへご案内しましょう」
と、本殿裏の人目に付かない片隅に僕を連れて行った。そこには「善光寺歴代住職供養塔」がひっそりと佇んでいた。永い神仏習合の歴史を否定する為政者の狭量を感じずにはいられなかった。


鳥居に掲げられた「別所琴平神社」の扁額


本殿には善光寺の鎮守「金比羅大権現」の眷属とされる天狗の面(緑・赤)が掲げられている


本殿裏に「善光寺歴代住職供養塔」がひっそりと

 熊本民謡「ポンポコニャ」には、今はない善光寺が唄い込まれており、この唄が旧藩時代から唄われていたことがわかる。


ジーナ・ローランズさんを悼む

2024-08-21 21:18:14 | 映画
 ブログ「ミューズの声聞こゆ」さんの昨日の記事で、アメリカの女優ジーナ・ローランズさんの訃報を知った。もう94歳になっておられたそうだ。訃報を知ってまず思い出したのは、カーク・ダグラスさんと共演した「脱獄(Lonely Are the Brave)」(1962)という映画だった。ダグラスさんが演じる脱獄した男は時代遅れの孤高のカウボーイ。その元恋人の役がジーナ・ローランズさん。今は男の親友の妻となっている彼女はかつて愛した男との再会にも嬉しさを抑えている。昔を懐かしむかのように遠くに視線をやる彼女の表情が胸を打つ。
 この映画を最初に観たのが高校生の頃だからもう60年も前だが、この映画を観たという人に出会ったことがない。ところが20数年前、この作品がアメリカでは高い評価を受けているということを知って驚いた。60年代に一世を風靡したアメリカン・ニューシネマの先鞭をつけたと言われているらしい。デヴィッド・ミラー監督、渾身の一作である。
 ジーナ・ローランズさんの代表作と言えばおおかた「グロリア」(1980)があげられる。しかし、僕は「脱獄」の彼女の方が好きだ。実生活ではジョン・カサベテス監督の奥さんであり、ニック・カサベテス監督の母親でもある。心からご冥福を祈る。


玄宅寺舞踊会の復活を!

2024-08-20 20:56:20 | 音楽芸能
 毎月一度の愉しみだった舞踊団花童の玄宅寺舞踊会は、新型コロナが熊本でも感染拡大し始めた2020年春に中止されてもう4年が過ぎた。この舞踊会は花童の子たちにとっておさらいでもあり観客の前で腕だめしの場でもあった。われわれ花童ファンにとっては舞台ではあまり見ることができない演目を間近で見られる貴重な機会だった。先日、玄宅寺の永野さんにお電話でお聞きしてみたが、まだ再開の計画はないようだが、玄宅寺は舞踊団の稽古場の一つでもあり、来るべき日への準備は怠りないようである。舞踊会の復活を願ってやまない。
 2013年から7年間続いた玄宅寺舞踊会は、様々な思い出が残っているが、中でも2013年9月20日のことは忘れられない。この日は観月会と花童舞踊会とが重なり、加えて新曲「水前寺成趣園」の初披露も行われたため、通常の観客の10倍、約500名のお客様で本堂や境内は溢れかえった。


2013年9月20日、約500名のお客様で本堂や境内は溢れかえった


手が届くような距離感で


古典、民謡、端唄俗曲、歌謡曲などバラエティにとんだ演目


10数曲が披露される

2013年9月20日、新曲「水前寺成趣園」の披露

「京町台から見た金峰山」と晩夏

2024-08-19 20:22:11 | 熊本
 今日、日が暮れかかってから、先日の「夏目漱石『草枕』の風景」の記事で話題にした甲斐青萍が描いた「京町台から見た金峰山」の絵を検証すべく、京町台のかつて金峰山町と呼ばれた辺りからの眺めを確かめに行った。青萍が描いてから既に100年以上が経ち、ビルが立ち並ぶ風景には青萍が見た田園風景はどこにもない。しかし、金峰山を始めとする西山の山並みはおおまかには青萍の絵と一致する。写真の左端に見える鉄塔の右側辺りが件の石神山と思われる。
 薄暮が迫る西の空と山々をじっと眺めているとさすがに「晩夏」を感じる。


今日の「京町台から見た金峰山」


甲斐青萍が描いた「京町台から見た金峰山」

 早く過ぎ去ってほしいと願った猛暑が衰え夏の終わりが近づく。一年のうちで最もメランコリックな季節である「晩夏」。四季に恵まれ、その移ろいの中で育まれた日本人特有の無常観がそこにある。
 ユーミンが荒井由実の時代、1976年にリリースした名曲「晩夏」。2005年には平原綾香がカバーしている。カバー盤をリリースする時、ユーミンのラジオ番組「Sweet Discovery」にゲスト出演した平原綾香に、「なんでこの歌をカバーする気になったの?」とユーミンが不思議がっていたのが印象に残っているが、とにかく詩が素晴らしい。今日は平原綾香バージョンで聴いてみた。


長崎浜節とキリスト教音楽

2024-08-17 21:07:39 | 音楽芸能
 昨日は所用のついでに立田山のわが家の墓に寄ってお参りした。7月に盆参りは済ませていたのだが、帰省者のお墓参りの映像がテレビでさかんに流されるので気になっていた。香華は持って行かなかったがお彼岸もすぐにやって来るしその時でいいかと…。
 せっかくなので近くの立田自然公園の四つ御廟にもお参りしに行った。特にガラシャ廟は新暦での命日(8月25日)も近いのと、先月亡くなられた民謡歌手の水野詩都子さんのご冥福も合せて祈った。
すると水野さんの相方である﨑秀五郎さんがYouTubeにアップされている曲「長崎浜節(切支丹風)」が頭に浮かんだ。
 秀五郎さんはおそらく長崎民謡「長崎浜節」と長崎のキリシタンの歴史が関連しあうイメージが湧いたのだろう。聴いていると中世ヨーロッパ風のキリスト教音楽を背景に秀五郎さんの端唄が不思議に融合し、荘厳な世界が広がる。


ガラシャ廟

﨑秀五郎さんの「長崎浜節 NAGASAKI HAMA-BUSHI(切支丹風)」

 そもそも「長崎浜節」は明治41年、長崎の舞鶴座に来演した初代中村雁治郎が、舞台で住吉踊りを舞った際の唄をルーツとするという。

  〽浜じゃ エー 浜じゃ網ひく 綱をひく
   陸(おか)じゃ 小娘の 袖をひく

 この歌詞をもとにして郷土史家である古賀十二郎が歌詞を作り、節付けを芸者愛八に依頼し、「長崎浜節」が完成したとされる。


千人灯籠おどり ~山鹿灯籠まつり~

2024-08-16 19:28:06 | イベント
 今夜は「山鹿灯籠まつり」のクライマックス「千人灯籠おどり」が行われる。見に行きたかったのだが、白内障術後の経過観察期間ということで断念した。幸い「ライブ配信」が行われるのでそれでガマンすることにしよう。
 ところで「山鹿灯籠まつり」と聞くと、今日では頭上に金灯籠を戴く女性たちが踊る「山鹿灯籠踊り」をイメージする方が多いと思うが、実はそうなったのは昭和29年に「山鹿灯籠踊り」が生まれて以降のこと。それまでは、山鹿の町の衆が作った「寺社仏閣」「城郭」「屋敷」その他さまざまな物を模した紙細工の灯籠を「ハーイ、トウロウ」の掛け声とともに運び、大宮神社に奉納する「上がり灯籠」が目玉の行事だった。現在はすべて灯籠師と呼ばれる職人たちによって作られているが、昔は奉納する町の衆自らの手で作っていたという。灯籠を奉納する「山鹿灯籠まつり」とは別に、お盆には「盆踊り」も行われていたが、「山鹿灯籠踊り」として再構成され、当初は「山鹿盆踊り」という名称で行われていたという。


奉納される灯籠

▼「山鹿灯籠踊り」では次の三曲が踊られる。



夏目漱石「草枕」の風景

2024-08-15 21:21:13 | 文芸
 だいぶ前から見たいと思ってはいたが、何分にも長尺なのでついつい先延ばしにしていた動画を今日やっと見た。それは令和4年度五高記念館文化講座における五高記念館の村田由美客員准教授による講座「夏目漱石『草枕』を読み解く」の録画映像である。
 「山路を登りながら、こう考えた。」この有名な冒頭からはじまる「草枕」は、いつからどのようにして小天温泉(現在の熊本県玉名市)が舞台と言われることになったのか。その漱石の旅の背景や、漱石にとってこの小説がどんな位置付けだったのかなどについて語っておられる。
 「草枕」の題材となった熊本市内から小天温泉までの通称「草枕の道」約16kmを家内と二人で歩いてからもう15年の歳月が流れた。その後も区間を限って歩いたことも何度かある。「草枕の道」を進みながら思うのは、見える風景が小説のどこかに書いてあったかなということだ。しかし、実際には「これだ!」という風景には出会わなかった。
 今回見た映像の中で、村田先生は極めて興味深い話をしておられる。たしかに漱石がこの「草枕の道」を歩いたであろうことを裏付ける絵画があるという。それは甲斐青萍という熊本の画家が描いた「金峰山遠望」という1枚の絵である。描かれたのは漱石が歩いた時期に近いという。


 「京町台から見た金峰山」というこの絵の金峰山の手前に描かれている一本松の山が「石神山」だという。そして「草枕」の第1章にはこんな描写がある。

--立ち上がる時に向うを見ると、路から左の方にバケツを伏せたような峰が聳えている。杉か檜か分からないが根元から頂までことごとく蒼黒い中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引いて、続き目が確と見えぬくらい靄が濃い。少し手前に禿山が一つ、群をぬきんでて眉に逼まる。禿げた側面は巨人の斧で削り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋めている。天辺に一本見えるのは赤松だろう。--

 このことからも漱石がこの絵と同じような風景を見ながら歩いたことはほぼ間違いないという。

 僕はこの絵は初めて見たのだが、甲斐青萍が描いたポイント(金峰山町のどこか)に立って一度確認してみたい。絵が描かれた当時とはすっかり風景が変わっているとは思うが。


雨 3曲

2024-08-14 19:47:37 | 音楽芸能
 今日夕方、久しぶりにまとまった雨が降った。小降りになってから外へ出てみると、地表の熱気がだいぶ下がったように感じた。今夜は少しは寝心地がよくなるかもしれない。
 そこで「雨といえばこの歌」というわけで選んでみたのがこの3曲。映画史上に残る傑作ミュージカル「雨に唄えば」はいまさらいうまでもないが、ジーン・ケリーの雨中の歌とタップダンスは伝説的な名シーン。「雨にぬれても」は実在の銀行強盗ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの逃亡劇「明日に向って撃て!」の主題歌。そしてクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルは60年代終わり頃から70年代前半に活躍したロックバンドで「雨を見たかい」は彼らの代表作の一つ。

「雨に唄えば」(Singin' in the Rain)1952年のミュージカル映画より。(歌/踊:ジーン・ケリー)

「雨にぬれても」(Raindrops Keep Fallin' on My Head)1969年の西部劇映画「明日に向って撃て!」より
(歌:B・J・トーマス)

「雨を見たかい」(Have You Ever Seen the Rain?)クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(1970)