徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

自力本願・他力本願

2025-01-30 17:02:00 | 日本文化
 毎月、父の月命日にはわが家の檀那寺からご住職にお経をあげに来ていただいています。
 わが家は先祖代々、浄土真宗ですが、ある時、ご住職に前から抱いていた疑問を質したことがあります。それは「浄土真宗ではなぜ、般若心経を唱えられないのか」ということです。それに対しご住職は「大乗仏教」から説明を始められましたが、正直よくわかりませんでした。
 その後、各種文献などで調べたところ、どうやら「自力本願」、「他力本願」がキーワードらしいということが分かりました。一般的に使われる「自力本願」、「他力本願」の意味とは異なり、次のような意味があるようです。

● 自力本願
 自ら修行によって悟りを開くことを求める宗派、真言宗や曹洞宗などでは「般若心経」を唱えます。
これに対し
● 他力本願
 浄土真宗などでは他力すなわち、仏の力、阿弥陀仏の本願によって救済され、極楽往生を得ることを
 求めるという考え方で「南無阿弥陀仏」を唱えます。

 今日はそれぞれの宗教観がベースとなった曲を聞いてみました。

▼琵琶経 ~3.11後の供養曲~
 次の曲は薩摩琵琶奏者・北原香菜子さんが演奏する「琵琶経 ~3.11後の供養曲~」で「般若心経」をモチーフとした曲です。
 なお、北原さんは「第12回くまもと全国邦楽コンクール」(平成18年)において最優秀賞に選ばれた演奏家です。


▼平泉讃歌
 平成29年3月、仙台市で行われた「東日本大震災七回忌追善公演」において舞踊団花童が披露した「平泉讃歌」は、奥州平泉で非業の最期を遂げた源義経の魂が高館の杜を彷徨っていると、どこからか迦陵頻伽の妙なる歌声が聞こえて来て、やがてひとすじの希望の光が差し、阿弥陀如来が来迎、義経の魂はお浄土へと導かれるという、義経の物語に仮託しながら東日本大震災のすべての犠牲者を供養する想いが込められています。作詞者のおのりくさんは平成26年に38歳の若さで夭逝されました。


どんどや

2025-01-13 22:38:30 | 日本文化
 今日は、わが町の正月恒例行事「第52回壺川校区どんどや」が京陵中学校のグラウンドで行われた。消防団の皆さんが伐り取り組み上げた青竹の櫓の前で、加藤神社宮司による神事の後、櫓に火が入れられた。たちまち櫓は燃え上がり、松飾りや注連飾りが燃える炎とともにお迎えした歳神様が天空へと昇って行く。毎年のことながら感動を覚える一瞬だ。


加藤神社宮司により神事がとり行われる。


壺川小学校の生徒による玉串奉奠


組まれた櫓に火入れが始まる


あっという間に櫓が燃え上がる

初詣と松囃子

2025-01-05 19:15:59 | 日本文化
 今日5日は例年どおり、藤崎八旛宮に初詣に行った。毎年5日と決めているのはこの日「松囃子」が行われるから。参拝と「松囃子」を合わせて初詣と自分で決めている。拝殿に詣でた後、武内社を始め摂社・末社すべてをお詣りした。
 「松囃子」では金春流と喜多流によって舞囃子などが演じられたが、喜多流の狩野了一さんによる「東北(とうぼく)」が一番印象深かった。昨年の松囃子でもたしか狩野祐一さんが「東北」を舞われたが、藤崎八旛宮での松囃子では喜多流は「東北」を舞うことになっているのだそうな。「東北」は昨年の大河ドラマ「光る君へ」にも登場した和泉式部の霊が登場する能。


わが家の氏神 藤崎八旛宮への初詣


例年三が日を過ぎると参拝客は少なくなったが、今日は日曜日とあって賑わっていた。


松囃子「舞囃子 東北」喜多流能楽師 狩野了一さん

今年忘れられない話(2) ~農兵節~

2024-12-14 13:47:47 | 日本文化
 7月24日に他界された民謡歌手の水野詩都子さんは、日々の出来事や思いなどを「詩暦(うたごよみ)」というタイトルのブログで語っておられました。
 そのブログの最後の記事が静岡県の民謡「農兵節」についてでした。YouTubeの東海風流チャンネルvol.68にアップされている「農兵節」を聞きながら、民謡歌手としての心構えを述べておられるブログを読み直しました。水野さんの表現者としての姿勢や人となりがしみじみと伝わってきます。
 あらためて民謡を通じて私たちに音楽の愉しみを届けていただいたことに心から感謝を申し上げます。

▼水野詩都子さんのブログ「詩暦(うたごよみ)」(2024.7.11)より
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 今月の「東海風流チャンネル」は静岡県の「農兵節」ですm(__)m
 実演家の私達は曲の成り立ちについてよく考えなくてはなりませんし、それに見合った表現が必要になることが必須ではあります。
 ただ、成り立ちに囚われるあまり、自分の凝り固まった表現やカラーに縛られ、伸びやかな民の唄の魅力を伝えることを忘れてしまうことがあります。何事も頃合いが大切。お勉強ではなく、伝えていくことの楽しさと喜びを忘れずにいたいと思いますm(__)m

 今回の「東海風流チャンネル」は静岡県の民謡「農兵節」をお届け致します。
 一説に、幕末頃、横浜野毛山下で行われた軍事訓練の様子を唄った「野毛山節」の替歌で、明治になってから三島の花柳界で流行り、全国に宣伝した曲と言われています。
 演奏開始は03分25秒頃からとなります。

東海風流チャンネルvol.68「農兵節」編
動画へのリンク:https://www.youtube.com/watch?v=tzOXBKiTh4I
からご覧頂けます。御覧頂けたら幸いです。
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今年忘れられない話(1) ~受け念仏~

2024-12-13 20:13:55 | 日本文化
 今年聞いた話の中で最も印象深かった話はなんだろうと考えたとき、まず頭に浮かんだのは「受け念仏」の話だった。
 今年、父の二十五回忌を迎えた。命日の5月19日にはわが家に近親者のみ集まってささやかな法要を営んだ。最後に菩提寺ご住職から次のような法話があった。

――私の恩師がアメリカのシアトルに招かれて広島県出身の信徒に法話をされたことがあります。その時、今日、日本ではほとんど行われなくなった「受け念仏」が300人以上の信徒によって行われ、感動的だったそうです。「受け念仏」とは、説教者のお話の中で、聴き手が「いいお話をいただいた」と感じた時はその都度手を合わせ「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱えることです。その信徒たちは広島県からアメリカに移民として渡った人たちの三世・四世の人たちで、父母や祖父母などからそうするように教わって育ったそうです。日本では既に廃れてしまった宗教的風習が、遠く離れたアメリカの地に残っていたことに恩師は感銘を受けたそうです。――

 故郷から遠く離れたアメリカの地に渡り、おそらく筆舌に尽くしがたい苦労を重ねて今日を築いて来られた広島県出身の方々に、昔の日本人の風習が脈々と息づいていることに感動を覚える。
 ちなみに、今日、お笑いなどで「受けた」とか「受けない」などという「受け」の語源は「受け念仏」から来ているという。

明日は正月事始め

2024-12-12 20:22:31 | 日本文化
 明日12月13日は早くも正月事始め。毎年正月を迎えるための準備を始める日です。すす払い、松迎え(まつむかえ)、餅つきなどの準備を行い、年神様をお迎えする準備をします。松迎えとは縁起ものである正月用の飾松や門松を切りに行くことをいいます。松は常緑樹で樹齢も長いことから、古くから 「不老長寿」の象徴として縁起の良い木といわれており、また年神様の依代(よりしろ)とも考えられています。正月の門松・松飾りを立てておく期間のことを 「松の内」ともいいます。
 京都ではこの日、芸舞妓が芸事の師匠やなじみの店を回って、この1年のお礼や新年を迎える挨拶をする「事始め」の行事が年末の風物詩となっています。
 さまざまな松を謡い込んだ端唄「松づくし」で舞妓さんの舞はいかが。


サツマイモ & いも焼酎

2024-12-03 19:41:14 | 日本文化
 長嶺でパソコン教室を開いていた頃、習いに来ていたMさんにはいまだにお歳暮として阿蘇西原村産のサツマイモをいただく。ありがたいことだ。今では多くの自治体などで品種改良を重ねたブランドサツマイモが生産されているが、かつてはサツマイモが日本人の命を支えてきた。
 サツマイモとそれを原料とするいも焼酎のエピソードを二つ。

 父が天草の大矢野島(現在の上天草市)の上村小学校に赴任した昭和10年頃の様子を記した備忘録によれば、父が受け持ったクラスには40名ほどの生徒がいたが、その4分の3が、弁当に「かんちょ(上天草の言葉でさつま芋のこと)」を持ってきていたと記されている。当時の天草は貧しい地域で、「口減らし」として子守奉公に出されたり、「からゆきさん」として売られていく少女たちもいたという。「かんちょ」は貧しく哀しい当時の人々の生活の象徴だったのである。

 今でもサツマイモの生産量は鹿児島県が1位だそうである。その生産量の30%ほどが焼酎の原料になっているという。
 今から56年ほども前のこと、僕は仕事で南九州を車で巡る旅をした。水俣・出水を経て霧島の方へ進むと、大口を過ぎたあたりで日が暮れた。川内川沿いに菱刈温泉という小さな温泉場があったので、一軒の古い旅館に泊まることにした。夕食も終わり、温泉で疲れを癒した後、さて就寝しようとしたのだが、別の部屋で行われている宴会の歌声や手拍子、そして小さな旅館内に、燗したいも焼酎の匂いが充満してとても眠れる状態ではなかった。当時は僕は焼酎は一切口にしたことがなく、いも焼酎の匂いがキツかった。やがて「鹿児島おはら節」を唄い始め、宴会はますます盛り上がった。そのうち酔っぱらった人が僕の部屋に転がり込んできたりして、とても寝ていられる状態ではなくなった。やむなく何度も風呂に退避するしかなかった。とんだ菱刈温泉の夜の思い出である。


十月朔日詣り

2024-10-01 20:40:52 | 日本文化
 今日は十月の朔日詣りで藤崎八旛宮へ。旧暦では10月を「神無月(かんなづき)」とも呼ぶが、新暦では10月下旬から12月上旬に相当する。「神無月」の由来については諸説あるが、かの柳田國男は「2月に山から里へ降りてきた山の神が、田の神となって稲の生育を守護し、十月の稲の収穫が終わると再び山に帰って山の神となるので、神無月というたのである」という説を提唱している。
 つまり、旧暦の「神無月」は稲刈りが終って収穫祭が行われ、農作物の実りを神に感謝する月であったため「神の月」という呼び名になった。「神無月」の「無」は「ない」ではなく、連体助詞「の」にあたるという。
 能の儀礼的演目である「翁」で三番目に登場する「三番叟」は老翁の姿をした神が天下泰平・五穀豊穣を祝って舞う芸能の一種といわれている。


藤崎八旛宮

三番叟・野村萬斎

百人一首の絵札

2024-07-14 16:45:53 | 日本文化
 大河ドラマ「光る君へ」を見ながら、ふと梅林天満宮(玉名市津留)のことを思い出した。梅林天満宮は承平6年(936)太宰府天満宮より、没後33年目の菅原道真公の御分霊社をいただいたことがその起源とされている。紫式部や清少納言が登場する「光る君へ」は今、11世紀に入る前後、つまり梅林天満宮の創建から60~70年が経過した頃の物語だと思われる。
 毎年秋、11月25日に行われる梅林天満宮例大祭はほぼ毎年見に行っているが、参拝した後に必ず見るのが拝殿の長押に貼られた百人一首の絵札である。そしていつも一番注目するのが紫式部と清少納言の歌(下図)。百人一首に選ばれるという事は二人の代表作なのだろう。これらの歌が選ばれた理由などを調べてみたい。


梅林天満宮例大祭において太宰府天満宮より派遣の巫女舞。向こうの拝殿の長押に百人一首の絵札が見える。



廻り逢ひて見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし夜半の月かな
【解説】
 「久しぶりに会って、昔の友だちかどうかわからないうちに、雲に隠れる夜更けの月のようにあわただしく帰ってしまいましたね」という意味。幼なじみとのつかの間の再会を、月になぞらえて詠んだ歌です。紫式部の代表作は、『源氏物語』と『紫式部日記』。若くから和漢の学に秀でていました。



夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
【解説】
 「夜の明けないうちに、(中国のことわざのように)鶏の鳴き声をまねしてだまそうとしても、逢坂の関は通しませんよ」という歌。男性の言い訳に対し、相手の言葉を使って一矢報いるべく「私は関所を通さない=会いません」と伝えたのです。作者は『枕草子』の著者でもあります。

※解説は学校向けコンテンツ「NHK for School」から引用

暑中お見舞い申し上げます!

2024-07-12 19:28:55 | 日本文化
 暑中お見舞い申しあげます。
 各地で続く猛暑の一方、豪雨災害のニュースもありますが皆さまいかがお過ごしでしょうか。
 激しい気候の変化に既に夏バテ気味の方もいらっしゃるかと思いますがどうぞご自愛くださいます
 よう願いあげます。
筆者 敬白

 今日はお盆の墓参りを済ませてきました。わが家の墓地は三方を放置された無縁墓に囲まれ、笹や葛が侵食してきて除去に大変な手間がかかってしまいました。無縁墓の増加は社会問題になりつつあると聞きますが今のところ手の出しようがありません。
 それはさておき、「暑中お見舞い申しあげます」と聞きますと、われわれの世代はすぐにキャンディーズ のヒット曲を思い出します。今から16年前、妻とともに薄命の少女詩人・海達公子のルーツを探して徳島県美波町を訪ねた時、温かく迎えていただいた郷土史家の真南先生のお話で、公子の父親は美波町阿部地区の名家・喜多條家の出であり、有名な作詞家喜多條忠氏(2021年没)も同じ一族であることを知りました。
 喜多條忠氏が作詞したのは「暑中お見舞い申し上げます」の他、かぐや姫の「神田川」、「妹よ」、「赤ちょうちん」。キャンディーズの「やさしい悪魔」、柏原よしえの「ハローグッバイ」、梓みちよの「メランコリー」などがあります。公子のルーツを訪ねた旅先で不思議な縁を感じたものです。


古歌・古謡の道

2024-07-09 19:42:28 | 日本文化
 今日は玉名市大浜町の母の生家へ行った帰り、河内川沿いの道(県道101号)を通って山越えした。途中の天ヶ庄には鮎帰の滝があり、鮎帰橋のそばに「だいら水車」と呼ばれる水車がポツンと1基。昔は河内川沿いに80基ほどの水車があり、米や雑穀をつく動力としていたらしい。このあたりの地区を平(だいら)地区と呼ぶ。南北朝時代にはこの辺りを菊池氏の家来、天乃氏が治めていたので「天ヶ庄」と呼んでいたという。この地区には古くから子守歌が歌い継がれていて「天ヶ庄の子守歌」と呼んでいた。天乃氏が菊池家の幼君を預かっていた頃の名残りだという。今日では歌う人もなく、歌詞の一部が残るのみでメロディは失われている。歌詞の内容を読むと、昔はこの辺りまで船がのぼって来ていたようだ。「天ヶ庄の子守歌」と同じく、天ヶ庄で歌われていたという古謡が、檜垣媼と関連性があるという。それが下の「あの山に」と「山寺に」の二曲。「新熊本市史」の「民俗・文化財」編に紹介されており、明治から昭和にかけて活躍した熊本出身の文学者・狩野直喜博士によると「庵の燈の光り」の部分は庵主である歌人檜垣のことであるという。なお、この「あの山に」と「山寺に」は「エントコ節」として今日も歌われている。
 県道を熊本へ向かってもう少し進むと、歌枕として知られる「鼓ヶ滝」がある。その先を右折して橋を渡ると檜垣嫗や宮本武蔵の伝説が残る岩戸観音の霊厳洞へと登る山道である。鼓ヶ滝を見降ろしてひと休みしながら、平安時代の女流歌人、檜垣が詠んだとも伝えられる歌を思い出した。
   音にきくつゝみか瀧をうちみれは たゝ山川のなるにそ有ける
「檜垣嫗集」に載せられたこの歌は、実は肥後國司でもあった清原元輔がこの地を訪れた時、一人の法師がこの滝を見て詠んだとして「拾遺和歌集」にも掲載されているが真相はわからない。能に「鼓の滝」を主題とした「鼓滝」という作品があり、世阿弥作とも言われるが、摂津国有馬が舞台となっている。その中に古歌として「津の国の鼓の滝をうちみればただ山川のなるにぞありける」という歌が登場し、和歌にも詠まれた名所だという設定になっているが、この歌の元となったのは、「拾遺和歌集」などにも収録されている肥後国の鼓ヶ滝を詠んだ前述の歌と言われている。つまり平安時代に肥後の名所だった鼓ヶ滝を詠んだ歌を借りて、中世に有名な温泉場だった有馬に舞台を置き換えたものだそうだ。
 今日は時間も遅かったので岩戸観音の方へは登らず、直進して「峠の茶屋」近くの「大将陣の棚田」を眺めてから帰路についた。


鮎帰の滝


だいら水車




鼓ヶ滝


大将陣の棚田

あらためて地図を見ると天ヶ庄と岩戸観音の直線距離は驚くほど近い

茶室仰松軒

2024-07-08 21:26:17 | 日本文化
 「仰松軒(こうしょうけん)」は細川家菩提寺の泰勝寺跡である立田自然公園内にある茶室。もと京都の天龍寺塔頭真乗院に建てられていた細川三斎(忠興)設計の茶室を大正12年(1923)に復元したもの。内部を見られる機会は滅多にないが、茶事などが行われている日にあたると内部をじっくり見ることが出来る。
 わが家の本籍地となっている父の生家が泰勝寺境内に隣接していたこともあって、泰勝寺跡には度々訪れるが、仰松軒の内部を見ることができたのはまだ4、5回ほどしかない。
 ちょうど5年前にこんなことがあった。お盆前の墓参りを済ませて泰勝寺跡に立ち寄り、いつものように仰松軒をしばらく眺めていると、一匹のハクビシンが姿を現わした。こちらに気付いても驚く様子もなくじっと見ている。しばらく見合っていたがやがて竹林の方へと歩き去った。四つ御廟へお参りして帰るかと引き返そうとした時だった。不意にご婦人が現れた。園内には他には誰もいないと思っていたので一瞬ドキッとした。近づくと、僕より高齢に見えるが凛とした佇まいだった。婦人の方から声をかけられた。
 「タヌキみたいな動物ご覧になりました?」
 「ハクビシンですね」と答えた。
 「管理が全然なってませんね。あんな動物がわがもの顔に歩き回るなんて」
 「そうですね。地震の後始末も手付かず状態ですからね」と水を向けると
 「よく名所を回るんですが、どこも手付かずですからね」さらに僕が
 「熊本城ばっかり力を入れていますが、他の観光名所も早く復旧してほしいですね」と言うと、わが意を得たりとばかりに話が盛り上がった。10分ばかり立ち話をした後、挨拶を交わして婦人と別れたが、白いシャツに黒っぽいスラックス姿を見送りながら、ふと明後日は「ガラシャ忌」であることを思い出した。


現在の茶室仰松軒


5年前(改修前)の茶室仰松軒

創作舞踊「細川ガラシャ」

六月朔日詣り

2024-06-01 19:42:29 | 日本文化
 今日は藤崎八旛宮へ六月の朔日詣りに行った。いつもの朔日より駐車や参詣者が多いなと思ったら、六月一日恒例の「開運長寿祭」だった。熊本では「6.1」にちなんで、この日に今年還暦を迎える人を祝う風習がある。
 今日も拝殿でお参りした後、境内の各末社もお詣りして回った。そして清原元輔の歌碑
 「藤崎の軒の巌に生ふる松 今幾千代か 子(ね)の日過ぐさむ」
をあらためて読んだ。この歌は、藤崎宮が今の藤崎台にあった頃、元輔が「子の日の松」の行事を行ったときに詠んだものと伝えられる。古より不老長寿の象徴とされてきた「松」のめでたさを詠んだ歌。今日という日にはピッタリだなと思う。
 一方、娘の清少納言は「枕草子」の「めでたきもの」の條には
 「色あひふかく花房ながく咲きたる藤の花の松にかかりたる」
という一節がある。「藤の花」はたおやかな女性のイメージ。そして「藤の花」がよりかかる「松」はたくましい男性のイメージ。「めでたきもの」とは素晴しいもの、見事なもの、りっぱなものを表す言葉。「めでたきもの」としての「松」のイメージは、元輔も清少納言も同じだな、などと思いながら藤崎宮を後にした。


今日の藤崎八旛宮


清原元輔の歌碑「藤崎の軒の巌に生ふる松 今幾千代か子の日過ぐさむ」


   「枕草子」の「めでたきもの」の一節をモチーフにした(?)「藤音頭」

まぼろしの銘菓「さおしか」(その後)

2024-05-24 22:24:29 | 日本文化
 先日、25回忌を営んだ亡父が幼い頃(大正時代初期)日参した泰勝寺の長岡家でふるまわれた銘菓「さおしか」。その「さおしか」を製造販売していた老舗菓子舗・福栄堂さんが、味噌天神近くで火曜日だけ営業しているという「肥後ジャーナル」の記事を発見し、直接福栄堂さんに電話をかけて確かめたのが昨年11月のことだった。わが父の思い出の菓子だったことや今でもどこかで作っていないか探していたことなどを女将さんに説明した。その折、今は「さおしか」は作っていないが、復刻を検討していることや合志市須屋の大盛堂さんが同じような作り方で「さおしか」を作っておられることをご紹介いただいた。しかし、ひょっとして25回忌までに福栄堂さんが「さおしか」を復刻されるかもしれないという微かな期待があり、大盛堂さんを訪れることはなかった。
 その後の経過も知りたくて、今日、福栄堂さんのインスタグラムにメッセージを入れてみた。女将さんから懇切丁寧なお返事をいただき、その中に「さおしか」の特長である「皮むき餡」(小豆の芯の部分だけを使った餡)の入手が困難であるが、何とか入手にメドがつきそうなので、近々試作をしてみたい、六間町に店を構えていた頃とは設備も違うので昔と同じようなものができるかどうかわからないが尽力してみます。というようなことが書かれていた。父が幼い頃に味わった「さおしか」が再現されるのかどうか大いに楽しみである。

伊勢へ七度 熊野へ三度(考察)

2024-05-22 19:37:22 | 日本文化
「伊勢へ七度 熊野へ三度」という俚諺がある。
 国語辞書には
「伊勢神宮や熊野三社へたびたび参ること。信心の深いこと、また、信心はどんなに深くしても限りはないことのたとえ。」
とある。
 そして、多くの場合、あとに、「愛宕様(山)へは月参り」と続けていう。
 いったいいつ頃からいわれ始めたのだろうかと調べてみると、コトバンクに「伊勢へ七度 熊野へ三度」の初出の実例として「浮世草子・風流比翼鳥(1707)」が挙げられていた。江戸中期ということになる。
 しかし、それよりさかのぼること100年、江戸初期の阿國歌舞伎歌の中に「茶屋のおかかに末代添はば 伊勢へ七度 熊野へ十三度 愛宕様へは月参り」という詞章が既にある。阿國歌舞伎は中世から近世にかけて流行した小歌などを取り込んでいるそうなので、この詞章も巷で歌われていたと考えられる。
 そこでオヤ?と思うのは「熊野へ十三度」がなぜ「熊野へ三度」に変わったのか。いろんな史料を見て行くと必ずしも「熊野へ三度」だけではなく「熊野へ四度」や「熊野へ八度」などというのも出てきた。そもそも「伊勢へ七度 熊野へ十三度 愛宕様へは月参り」のように段々度数が増えていく展開になっていたのではないか。それがある時点から「熊野へ三度」に収まっていったのは、江戸後期に大成する都々逸のように「七・七・七・五」の音数律が人気を得て主流になったからではないか。つまりこの音数律に従えば「熊野へ三度」が収まりがいいということになる。
 その他もう一点は最後の「七・五」の「愛宕様へは月参り」の部分だが、この俚諺が生まれたのは上方らしいので、この愛宕様は京都の愛宕神社(総本社)を指していたと思われるが、愛宕神社は全国各地にあり、この俚諺が全国に広まるにつれ、人々は月参りしやすい地元の愛宕神社を想定するようになったと思われる。特にお伊勢参りが多かった江戸は「愛宕様へは月参り」の部分を「芝の愛宕は月参り」とも言っていたらしい。
 かつて僕が住んでいた近江地方には多賀大社というイザナギ・イザナミを祭神とした近江随一の大社があり、「伊勢に七度、熊野へ三度、お多賀様へは月参り」と言い換えられていた。そして「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢 お多賀の子でござる」と続く。天照大神はイザナギ・イザナミの子であるというわけ。お国自慢の一つでもあったのだろう。


多賀大社

阿国歌舞伎の歌舞伎踊「茶屋遊び」の詞章(一部)

阿國歌舞伎歌を長唄化、スタイリッシュな創作舞踊となった「阿国歌舞伎夢華」