熊本城本丸御殿で4・5月の毎週末の夕べ行われている「春の宴」がゴールデンウィーク中は国内外から大勢訪れる観光客のために「春の宴スペシャル」として日中に行われている。今日は少女舞踊団「ザ・わらべ」と子ども舞踊団「こわらべ」の出演だったので久しぶりに母に生で見せようと連れて行った。11時、12時、13時、14時と4回の公演をこなしたザ・わらべとこわらべの体力と前に見た時からさらに上達した踊りに母は感心しきりだった。また入れ代わり立ち代わりやって来る観光客もザ・わらべの踊りのレベルの高さに驚くとともにこわらべの可愛らしさにさかんな歓声があがった。
城彩苑で今日から始まった「熊本城坪井川園遊会」の中で花魁道中をやるというので見に行った。大型連休中とあって場内は溢れんばかりの人人人。花魁道中が始まる頃になるとカメラを構えた人が少しでも良いポジションを取ろうとひしめき合う。花魁道中は先月の「城下町くまもと時代絵巻」でも行われたが、最近は日本各地のお祭りで行われているようだ。華やかなムードを盛り上げるのには格好のイベントなのだろう。それはそれでいいのだが、見ていてどうも「なんちゃって花魁道中」の印象が抜けない。せっかくやるなら徹底的にホンモノに近づけてほしい。と言っても僕もホンモノを見たわけではないのだが、少なくとも付き従う振袖新造たちの現代風のケバい化粧や赤く染めた髪などはなかったはずだし、せっかくなら禿たちも往時の髪形にしてあげればよかったのに。また花魁も照れずにキチンと八の字歩きをしてほしかった。さらに言うならイベント広場で福島竹峰社中の素晴らしい演奏が行われていたが、何人かでも道行きで道中を盛り上げてほしかった。まぁしかし、これは僕の贅沢な注文かな。




昨夜のEテレ「にっぽんの芸能-芸能百花繚乱」では、歌舞伎の創始者といわれる出雲阿国(いずものおくに)と恋人・名古屋山三(なごやさんざ)の亡霊との束の間の逢瀬を描いたファンタジックな舞踊「阿国歌舞伎夢華(おくにかぶきゆめのはなやぎ)」が放送された。昨年5月、同番組で放送された「尾上紫・尾上京 おんな二人あで姿」以来、久しぶりに見る尾上紫のしなやかな踊りに魅了された。放送を見た後、録画を2回も見てしまった。振付をした花柳壽輔さんがインタビューを受けていたが、そのユニークな振付法や「振付は人の観察から始まる」という話などもとても興味深かった。



昨年、ローカルな邦楽演奏会くらいの気持でフラッと見に行ったら、とんでもないハイレベルの全国大会であることを知ってビックリした「~長谷検校記念~ くまもと全国邦楽コンクール」が、今年も5月20日、熊本市民会館大ホールで行われる。
そもそも「長谷検校って何?」と思われるだろうが、これは「ながたにけんぎょう」と読む。熊本市鍛冶屋町に生まれ、幕末から明治・大正時代に九州系「地歌」を全国に普及させた邦楽界では伝説的な人物、長谷幸輝(ながたにゆきてる)のことだ。「検校」というのは室町時代以降、盲目の方に与えられる官位で、安土桃山時代以降になると主に音楽に携わる盲目の文化人に与えられたと言われている。しかし、明治維新後「検校」という官位も廃止されたが、彼の業績は「検校」にふさわしいと高く評価され、敬意を込めて長谷検校と呼ばれているという。この長谷検校の偉業を記念して熊本市や熊本県文化協会などが主催する「くまもと全国邦楽コンクール」は今年18回目を迎えるが、今年も「箏曲の部」「尺八・笛音楽の部」「三味線音楽の部」「琵琶楽の部」「三曲等合奏の部」の五つの部門が行われ、全国の才能ある邦楽演奏家たちがナンバー1の座を競う。なお、地歌とは上方で生まれた座敷音楽で、三味線を伴奏とする歌曲のことをいう。
興味のある方はぜひ会場を覗いていただきたい。
そもそも「長谷検校って何?」と思われるだろうが、これは「ながたにけんぎょう」と読む。熊本市鍛冶屋町に生まれ、幕末から明治・大正時代に九州系「地歌」を全国に普及させた邦楽界では伝説的な人物、長谷幸輝(ながたにゆきてる)のことだ。「検校」というのは室町時代以降、盲目の方に与えられる官位で、安土桃山時代以降になると主に音楽に携わる盲目の文化人に与えられたと言われている。しかし、明治維新後「検校」という官位も廃止されたが、彼の業績は「検校」にふさわしいと高く評価され、敬意を込めて長谷検校と呼ばれているという。この長谷検校の偉業を記念して熊本市や熊本県文化協会などが主催する「くまもと全国邦楽コンクール」は今年18回目を迎えるが、今年も「箏曲の部」「尺八・笛音楽の部」「三味線音楽の部」「琵琶楽の部」「三曲等合奏の部」の五つの部門が行われ、全国の才能ある邦楽演奏家たちがナンバー1の座を競う。なお、地歌とは上方で生まれた座敷音楽で、三味線を伴奏とする歌曲のことをいう。
興味のある方はぜひ会場を覗いていただきたい。


今週末、4月28・29の両日「第46回織田記念国際陸上」が広島ビッグアーチで行なわれる。今年は3ヶ月後に迫ったロンドン・オリンピックの代表選手選考を兼ねており参加選手たちの意気込みも例年に増して強いと思われる。そして熊本期待の2選手も参加する。男子100mの江里口匡史(大阪ガス)は既に参加標準記録10秒18はクリアしているものの、代表の座を勝ちとるには6月の日本選手権で優勝しなければならない。今回の大会には有力な選手たちが出場するので、日本選手権を占う面白いレースになるだろう。
一方、女子100mには野林祐実(九州学院)が出場する。熊本では敵なしの野林も今大会の100m出場選手24名の中では18番目の選手に過ぎない。日本女子短距離のトップクラスの選手たちの中で何かをつかんできてほしい。きっと将来の飛躍へのステップになるだろう。

▼今大会の女子100mに出場予定選手
一方、女子100mには野林祐実(九州学院)が出場する。熊本では敵なしの野林も今大会の100m出場選手24名の中では18番目の選手に過ぎない。日本女子短距離のトップクラスの選手たちの中で何かをつかんできてほしい。きっと将来の飛躍へのステップになるだろう。


▼今大会の女子100mに出場予定選手

先日、いつも湧水を汲みに行く花園町の「鳴岩の湧水」が落石の恐れで立ち入り禁止となっていたので、今日は思い切って鹿北町の岳間水源まで行くことにした。母と家内を連れてまずは山鹿の日輪寺へつつじを見に立ち寄った。開花が遅れているのか、どうも今一つという感じだった。つつじ見物もそこそこに車を岳間渓谷へと走らせた。岩野川沿いの道を登って行くと川向こうに大きな杉の木と神社が見えた。ちょうど昼時だったのでどこか適当な場所で弁当を食べようと橋を渡って対岸の神社側へ出た。登って行くと「四ノ宮神社」と書かれていた。神社を通り過ぎ、集落を抜けると丘の上に公園らしきものが見えた。車がやっと通れるくらいの細い道を思い切って登って行った。登り切ったところに広場があり慰霊碑が数本建っていた。車も4、5台は置ける駐車場があった。見るからに手入れは行き届いていないが東屋やトイレも備わった立派な公園だった。その東屋で弁当を開いた。やっぱり山の空気を吸い景色を見ながら食べる飯はうまい。目の前に茶畑があった。ここ岳間はお茶の名産地。先日、このブログで紹介した「鹿北茶山唄」のご当地だ。茶の樹に白いカバーが掛けられていた。これは「かぶせ茶」といってとてもまろやかな味になるそうだ。弁当を食べた後、岳間水源の湧水地へ向かった。「湯の水水源」というところに着いた。初めて来たので様子がわからなかったが、ドライブスルー形式になっていた。先に3台の車が並んでいた。休日はずらっと車が並ぶらしい。どの人も汲む量がハンパじゃない。5、6本のペットボトルしか持って行かなかった僕らが恥ずかしくなった。帰りは菊鹿町の方を通って帰ったら意外と近く感じた。またいずれ、そう遠くない日に来ることになりそうだ。

つつじの見頃はゴールデンウィークか?

白いカバーがかけられた岳間の「かぶせ茶」

岳間渓谷に流れ込む滝

つつじの見頃はゴールデンウィークか?

白いカバーがかけられた岳間の「かぶせ茶」

岳間渓谷に流れ込む滝
日本舞踊を見ていて一番惹かれる動きが「三つ振り」という首の振りだ。右を向いたら次は左に傾いで次に右に傾ぐ、というお馴染みのアレだ。もともと歌舞伎の見得のような一種のきめポーズだったのかもしれないが、「三つ振り」によって女性の艶っぽさや女児の可愛らしさをも表現している。もし、日本舞踊に「三つ振り」がなかったら何としまりのない味気ないものになっただろう。子どもは大きくハッキリと首を振るが、年齢が上がるにしたがって徐々に軽く小さくゆっくりとした首の振りに変わって行くという。日舞の世界では「首振り三年」という言葉があるそうだ。首の振り一つでもマスターするのには3年はかかるので、毎日コツコツと稽古を積み重ねなさいという意味らしい。ザ・わらべの3人はいずれも10年を超える踊りの経歴を持っているが、僕が彼女らの踊りを初めて見たのがちょうど3年前くらいだった。その頃と比べると「三つ振り」の仕方も随分大人っぽくなったものだと思う。
冨重写真所が所蔵する熊本城の古写真の中でも有名な1枚が下の白黒写真。冨重利平が熊本に写真所を開いたのが明治3年(1870)といわれているから、おそらくその頃に撮影されたものだろう。鎮台ができて取り壊される前の飯田丸と周囲の櫓群、そして十年戦争で焼け落ちる前の大天守が見えている。角度から見て桜の馬場あたりから撮ったと思われるが、今とはだいぶ地形が異なるようだ。おそらく明治35年に明治天皇を奉迎するため行幸坂が造られた時に現在のような地形になったものと思われる。同じ撮影ポイントを探してみたが、現在は行幸坂に沿って植えられた桜の木々の葉が繁り遮蔽されて確認できない。多分、今の城彩苑入口の右側、行幸坂沿いあたりだと思われる。そこから行幸坂を挟んで反対側の備前堀の淵まで行くと飯田丸と大天守が望めるポイントがある。明治時代の写真と比べると、やはりまだ櫓群が復元されていない分若干の寂しさを感じる。

車夫たちは撮影のために集められたのだろうか。

桜の木々に遮蔽されて位置関係がよくわからない。

櫓群の復元はいつになるのだろう。

車夫たちは撮影のために集められたのだろうか。

桜の木々に遮蔽されて位置関係がよくわからない。

櫓群の復元はいつになるのだろう。
上の記事「熊本の風景今昔」の写真を撮るため行幸坂から城彩苑に入った。入り口付近から黒いスーツの男たちが一定間隔で立ち、なにやら異様な雰囲気。明らかにSPとわかるその男たちの視線を感じながら城彩苑に入っていくと、とある店に黒山の人だかり。テレビの撮影クルーも数社来ている。誰かVIPが来ているなと思いながら歩いていくと、その店からやはり黒いスーツの女性がスタッフと思しき人を引き連れて出てきた。そしてどこからかあがった歓声にふり向きポーズをとった。テレビで見たことのある顔。誰だったっけ?と思いながら外に停めてあった車を見ると「THAI」の文字の張り紙。そこでやっとタイのインラック首相であることを確認した。新幹線などを視察するため熊本を訪れたらしい。凛としていてなかなか綺麗な方だ。

今夜の熊本城本丸御殿「春の宴」は「人吉をどり」。というわけで目玉の演目はザ・わらべが舞う「菊の舞」。昨年の「春の宴」でも彼女らによって披露されたが、この舞は毎年11月、人吉の国宝・青井阿蘇神社で開かれる菊花展の奉納舞台のために作られたオリジナル。色鮮やかな振袖姿に花笠をかぶり両手に花輪を持った華やかな菊娘の舞に観客はうっとりと見とれていた。
昨年11月、母の卒寿祝いで人吉へ一泊旅行をした時、ちょうど青井阿蘇神社で菊花展が行われていたが、残念ながら「菊の舞」の舞台を見ることはできなかった。

昨年11月、母の卒寿祝いで人吉へ一泊旅行をした時、ちょうど青井阿蘇神社で菊花展が行われていたが、残念ながら「菊の舞」の舞台を見ることはできなかった。

あっけなく桜が散り、晴れた日は若葉の青さが目に染みる季節となった。
熊本城周辺を歩いてみると、燦燦と眩しいくらいに陽が降り注ぎ、その陽光に青さを際立たせた若葉が風にそよいでいる。まさにこの若山牧水の短歌そのままの光景だ。
「初夏」。 この言葉にはいくつになっても心がときめく。




あたりみな鏡のごとき明るさに青葉はいまし揺れそめにけり(若山牧水)
熊本城周辺を歩いてみると、燦燦と眩しいくらいに陽が降り注ぎ、その陽光に青さを際立たせた若葉が風にそよいでいる。まさにこの若山牧水の短歌そのままの光景だ。
「初夏」。 この言葉にはいくつになっても心がときめく。




先日、オーストラリアの名スイマー、マレー・ローズさんが他界した。1950年代の半ばから1960年代の初め頃まで、自由形の中長距離で世界のトップスイマーだったローズさんは、日本人にとって、特に僕らのように同じ年代に水泳に関わった人間にとって忘れることのできない人だ。何ともしゃくにさわる存在だった。同じ時代、常に日本の自由形のトップスイマーだった山中毅さんの壁となった。しかし、伝え聞くローズさんの人間性はとても好感のもてる紳士だった。もともとスコットランドの貴族の出だというその顔はどこかノーブルな雰囲気を漂わせていた。ベジタリアンだったとも聞いた。山中さんとは終生、親友であり続けたという。
ローズ、山中がデッドヒートを繰り返していた時代、水泳の世界は今とは随分異なる様相を呈していた。夏になると毎年のように日米対抗や日豪対抗が神宮プールや大阪扇町プールで行われた。必ずテレビ中継があり、僕らは二人の熱戦に手に汗を握った。一度だけ神宮プールで生で見たことがある。夜の神宮プールのスタンドは立錐の余地もないほどの観客で埋め尽くされ、メインレースともなると会場は異様な興奮に包まれた。いったん照明が落とされ、スポットライトの中に主役たちが登場した。まるでハリウッドのスターを思わせた。そして二人のマッチレースはドラマそのものだった。
それから50年が過ぎた。今年はロンドン・オリンピックが行われる。北島を始めとする日本水泳陣の活躍にも期待がかかる。しかし、僕はもうあの時代のように興奮してレースを見ることはない。
※右上の写真はかつて日本水泳のメッカとなっていた神宮プール

1961年の全米選手権400m自由形でデッドヒートを繰り広げるローズと山中

それから50年が過ぎた。今年はロンドン・オリンピックが行われる。北島を始めとする日本水泳陣の活躍にも期待がかかる。しかし、僕はもうあの時代のように興奮してレースを見ることはない。
※右上の写真はかつて日本水泳のメッカとなっていた神宮プール

1961年の全米選手権400m自由形でデッドヒートを繰り広げるローズと山中
熊本の最北に位置し、福岡県八女市に隣接する鹿北町(現在は山鹿市鹿北町)は古くから茶どころとして知られる。寛永年間(1624-1645)というから肥後熊本藩初代・細川忠利公の時代から細川藩御用達茶として献上されていたという。旧藩時代から茶摘みの時期になると県内外から大勢の茶摘み娘が働きに来ていたようで、そんな茶摘み娘たちが仕事の中で歌い始めたのが「鹿北茶山唄」、つまり労働歌である。この「鹿北茶山唄」は仕事の場面にそって「上り唄」、「摘み唄」、「もみ唄」、「仕上げ唄」からなる組曲として構成されている。今日では毎年秋に「鹿北茶山唄全国大会」も開かれている。
先日、熊本城本丸御殿で行われた「春の宴」初日の「山鹿をどり」の演目の中で目玉は俚奏楽「山鹿湯籠踊り」。民謡・端唄三味線の第一人者で本條流の家元、本條秀太郎さんが提唱する「俚奏楽」として、山鹿の古い民謡に新たな命が吹き込まれた。そもそも俚奏楽(りそうがく)とは何かと言うと、邦楽の中の一つのジャンルで、「俚」は「さとび」とも読み、「雅(みやび)」の対義語でもある。「雅」が優雅とか都会風な意味合いを持つのに対し、「俚」は世俗的とか田舎風と言った意味合いを持つ。つまり「俚奏楽」というのは古来、一般庶民の間で伝承されてきた民謡・俗謡などを見直し、あるいは掘り起し、新しい解釈で甦らせていこうというムーブメントの一つと理解している。
この「山鹿湯籠踊り」には山鹿に伝わる五つの古い民謡が組曲として構成されている。出端(プロローグ)に始まり、「いらんせ」、「古調よへほ節」、「山鹿ねんねこ節」、「山鹿盆踊り」、「よへほ節」、そして入端(エピローグ)。また出端にも「でたげなたん」という山鹿の古謡が引用されているという。中でも僕が興味深かったのは「古調よへほ節」。現在歌われている「よへほ節」は昭和8年に野口雨情によって改作されたものだが、このオールドスタイルの「よへほ節」はより端唄っぽくて粋な感じがする。いずれにせよ、まさに「温故知新」。古い文化が新しい解釈で甦るのはとても意義深いことだと思う。
この「山鹿湯籠踊り」には山鹿に伝わる五つの古い民謡が組曲として構成されている。出端(プロローグ)に始まり、「いらんせ」、「古調よへほ節」、「山鹿ねんねこ節」、「山鹿盆踊り」、「よへほ節」、そして入端(エピローグ)。また出端にも「でたげなたん」という山鹿の古謡が引用されているという。中でも僕が興味深かったのは「古調よへほ節」。現在歌われている「よへほ節」は昭和8年に野口雨情によって改作されたものだが、このオールドスタイルの「よへほ節」はより端唄っぽくて粋な感じがする。いずれにせよ、まさに「温故知新」。古い文化が新しい解釈で甦るのはとても意義深いことだと思う。