徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

清正公はなぜ“神”となったのか? ~ 生誕450年記念展 加藤清正 ~

2012-08-31 19:04:45 | 歴史
 7月20日から熊本県立美術館で開催されている「生誕450年記念展 加藤清正」もいよいよ今週末の9月2日(日)までとなったのでやっと見に行った。平日とは思えないほど観覧者が多いのには驚いた。相変わらずの清正公の人気ぶりだが、会期が迫っているということもあるのだろう。展示物はどれも興味深いものばかりだが、今回の展覧会における僕の視点は「清正公はなぜこれほどまでに神格化されたのだろうか?」ということ。展示された史料の中にもいくつかそれを示唆するものがあった。清正公の優れた治政が領民に後世まで評価されていることがベースにあるのはもちろんだが、「清正信仰」が始まるのは18世紀以降のようであり、「勇猛」や「忠義」といった清正公のイメージをさらに高めるような話が後世に創作され、歌舞伎などで演じられたり、明治に入ると西南戦争で熊本城の難攻不落が証明されたり、日清・日露戦争の中、かつて大陸で勇名を馳せた清正公が「軍神」として崇められたりしたことが大きいようだ。
 しかし、「清正信仰」の端緒を開いたのはやはり、加藤家改易後、最初に入部してきた細川忠利公の、清正公に礼を尽くした態度・行動にあったのではないだろうか。忠利公が仮に前任者を否定するような態度をとっていたら・・・。いや賢い忠利公は事前にリサーチしていたはずで、それは細川家にとってけっして得策ではないことを十分認識していたのだろう。今日でも僕らは何かを評価する時、権威ある人がそれをどう評価しているかに左右されるものだ。肥後国の領民にとって後任のお殿様が清正公を高く評価したことは絶大な影響を与えたに違いない。


《賤ケ岳合戦図屏風》部分 17 世紀、大阪城天守閣所蔵

古代ロマン薫る鞠智城と米原長者伝説

2012-08-30 19:13:54 | 歴史
 今朝の熊日新聞に、山鹿市の鞠智城(きくちじょう)近くの水田で赤米(古代米)の稲穂が赤く色づき始めたというニュースが載っていた。昨年見逃したので、さっそく今日の午後、母を連れて見に出かけた。七城町を通って菊鹿町へ入ったが、車窓に青々と広がる田圃とその脇を流れる豊かな水量を眺めながら、母は「さすがは米の名産地」と感心しきり。昨年の米の食味ランキングで最高評価の特Aにランクされたのが、菊鹿町の「森のくまさん」と七城町の「ヒノヒカリ」だったことを思い出し、納得。
 7世紀後半(約1300年前)に大和朝廷が、現在の山鹿市菊鹿町に築いた山城・鞠智城。現在はそのシンボルともいえる「八角形鼓楼」や「米倉」、武器や武具の倉庫「板倉」、防人(さきもり)たちの住まい「兵舎」などが復元されている。そしてその鞠智城が築かれた頃から鞠智城がある米原(よなばる)地区に語り継がれているのが「米原長者伝説」。暮れる太陽を呼び戻し、一晩で三千町歩の田植えをしたという長者伝説は、その時代からこの一帯に豊かな田園が広がっていたからこそ生まれたのだろう。


復元された「八角形鼓楼」を中心とする建物群


赤く色づき始めた赤米(古代米)の稲穂


新橋二丁目七番地 あさみちゆき

2012-08-29 17:22:50 | 音楽芸能
 今、静かにヒットしている歌がある。東京新橋で靴磨き40年、5人の子供を育てあげ、80歳となった今もなお、新橋駅前のSL広場で路上靴磨きを続ける女性を歌った「新橋二丁目七番地」がそれだ。
「井の頭公園の歌姫」としてコアなファン層を持つあさみちゆきさんは今年がデビュー10周年。路上ライブをメインに活動してきた彼女にふさわしい、しみじみと情感あふれるいい曲だ。

※画像をクリックすると動画が別ウィンドウに開きます。

唄:あさみちゆき 作詞:田久保真見 作曲:杉本眞人

「熊本城・本丸御殿 秋夜の宴」へ おいでまっせ!

2012-08-28 20:39:37 | 音楽芸能


 8月もあと3日。異常に暑かった今年の夏も過ぎ去り、熊本は今週末から早くも秋のイベントシーズン。
 その先陣を切って熊本城・本丸御殿で毎週末開催されるのは恒例の「秋夜の宴」。
 出演は少女舞踊団ザ・わらべおよび妹分のこわらべを始めとする中村花誠社中の皆さん。
 また内容に応じたゲストが出演予定という。
 秋の夜長に邦楽と日本舞踊で優雅なひと時を過ごしませんか。
 時間は各日とも午後6時~午後7時30分

 9月 1日 【響と舞】城下町くまもと つれづれ集 杯の巻
 9月 8日 【響と舞】城下町くまもと つれづれ集 屋形船の巻(川尻をどり)
 9月15日 【響と舞】城下町くまもと つれづれ集 萩の巻
 9月22日 【響と舞】城下町くまもと つれづれ集 火と水の巻
10月 6日 【響と舞】城下町くまもと つれづれ集 月の巻(植木をどり)
10月20日 【響と舞】城下町くまもと つれづれ集 桔梗の巻(初午をどり)
10月27日 【響と舞】城下町くまもと つれづれ集 菊の巻

 この他、10月13日は「秋のくまもとお城まつり」期間中のため、「秋夜の宴スペシャル」として開催予定。

伝説のかぶき者 ~ 猿若の舞 初代勘三郎 ~

2012-08-28 00:44:09 | 文芸
 先週金曜夜のNHK「にっぽんの芸能」では2月に東京新橋演舞場で行われた六代目中村勘九郎襲名披露公演の中から「鏡獅子」を放送していた。全部は見れなかったので今週金曜昼の再放送を逃さず見ようと思う。
 ところで中村勘三郎さんは年内は病気療養に専念するらしいが、今僕は初代勘三郎を描いた時代小説「猿若の舞 初代勘三郎」(東郷隆著)を読んでいる最中だ。7年前に新潮社から出版されたらしいが、僕は数ヶ月前に何かの雑誌でこの小説の存在を初めて知った。すぐに購読したかったが既に絶版となっており、もうどこにも在庫はなさそうなのであきらめ、県立図書館から借りてきた。基本的にフィクションでありながら、随所に散りばめられた著者の東郷隆氏の博学多識ぶりが、この物語にリアリティを与えている。読み進むほどにその面白さに引きずり込まれているところだ。おそらく僕にとってここ数年間に読んだ小説のうちで最も面白い小説ということになるだろう。



▼「長唄 鏡獅子」&「舞踊 獅子の精」
 (Click to Movies)
 

そこまでやるぅ!? くまモンのバンジージャンプ

2012-08-27 17:56:17 | 熊本
 標高1,000メートルを超える九州山地の山々と深い峡谷に囲まれた豊かな自然が魅力の熊本県球磨郡五木村。ここの、川辺川に架かる銀杏橋(いちょうばし)から日本最大と言われる高さ77メートルのバンジージャンプができるという。先日ここからなんと、あのくまモンがバンジージャンプにチャレンジしたらしい。


サッカーとバレエと・・・

2012-08-26 23:23:06 | ファミリー
 今日は孫のみわがバレエの発表会、てっぺいがサッカー大会と奇しくも二つのイベントが重なったので朝から家内と久留米へ出かけた。まず午前中が筑後川河川敷のリバーサイドパークでのてっぺいのサッカー大会。ここに来たのは何十年ぶりか、若い頃、駅伝大会に出場して以来で懐かしかった。てっぺいのチームは決勝まで進んだが、決勝戦で何を思ったかてっぺいはゴールキーパーを志願。運が悪いことに試合は決着がつかずPK戦となりチームは負けてしまった。てっぺいは何が何だかよくわけがわからないうちに終ったようだが、どうも自分に責任の一端があるらしいと感受していたようだ。いい経験になっただろう。
 午後からは久留米市民会館でのみわのバレエスタジオの発表会。撮影が厳禁なのが残念だったが、幼稚園の時のお遊戯会のバレエとは全く違うレベルの中でみわはよく踊っていたように思う。まぁ親バカならぬ爺バカかもしれないが。モダンバレエなどふだんはほとんど見ないのだが、最近はザ・わらべなどの日本舞踊をよく見るせいか、だいぶ見るポイントがわかってきたような気がした。洋舞も日舞も、頭のてっぺんから足のつま先まで意識が行き届いて表現できているかという基本は全く同じだと思う。みわもしばらくはバレエを続けるらしいので今後の上達が楽しみになった。




映画「あなたへ」 ~ 健さん映画を懐かしむ ~

2012-08-25 19:43:50 | 映画
 これはかつて高倉健さんの映画を観て青年期・壮年期を過ごした世代が「健さん映画」を懐かしむ映画だ。僕も健さんが大好きだし、降旗康男監督は、僕は昔、監督の弟さんと同じ職場にいたこともあってずっと注目し続けている監督さん。だからこの二人が組んだ映画はたしか全部観ているはずだ。この「あなたへ」という映画は、今まで二人の作品を観たことのない世代と僕らとでは受けとめ方が随分違うかもしれない。ただ、この映画そのものはどちらかというと「幸福の黄色いハンカチ」などの山田洋次監督風な物語だ。多くの映画ファンが好むロードムービー仕立てもいいし、キャストも豪華で楽しめるのだが、僕は観ながらなぜか、涙が流れて仕方がなかった。それはこの映画の物語を感受したからというより、自分の人生も重ね合わせながら、過ぎゆく時代を再確認しているような複雑な涙だった。また、この物語は種田山頭火の俳句がモチーフとなっているようだが、僕にはどうしても健さんと山頭火のイメージが合わなかった。しかも劇中で健さんに山頭火の句を教えるのがビートたけしというのも違和感を感じた原因かもしれない。


ザ・わらべ with 玉うさぎの会 ~ 松 ~

2012-08-24 23:08:13 | 音楽芸能
 今夜の「夕涼み子ども舞台」では普段はお目にかかれない趣向を見せていただいた。今夜のプログラムは基本的に子どもたちが主役。ジャズ・バンドやコーラス、キッズ・ダンスや太鼓演奏などで子どもたちが元気いっぱいのパフォーマンスを見せてくれた。そして最後のザ・わらべの舞台もまた、地方(じかた)を子どもたちが務めたのである。日本舞踊では舞い踊る人のことを立方(たちかた)、唄や三味線、お囃子などを地方と呼ぶ。いつもはザ・わらべの舞台でも地方の主体は大人たち。今夜のように子どもたちが主体となって地方を務めた舞台は今まで見たことがない。今夜、地方を務めてくれたのは本條秀美社中・玉うさぎの会の小学生5人のメンバーだ。何だかまた新しい展開が見られそうで楽しみになってきた。


夕涼み子ども舞台 ~ 熊本いのちの電話チャリティ公演 ~

2012-08-23 14:07:52 | 音楽芸能
 明日午後6時半より、熊本市民会館崇城大学ホールにおいて下記のとおり行われます。
 少女舞踊団ザ・わらべを始め、熊本の元気な子どもたちが日頃のたゆまぬ修練の成果を見ていただきたいと精一杯のパフォーマンスを発揮してくれます。
 週末のひと時を夕涼みがてら、元気をもらいにいらっしゃいませんか。
 お誘いあわせの上のご来場をお待ちしています。


若山牧水と海達公子

2012-08-23 08:34:25 | 文芸
 今日は大正末期から昭和初期にかけて天才少女詩人と謳われた海達公子の生誕96年の日にあたる。これまでも海達公子については何度もブログで紹介してきたが、たまたま昨日、若山牧水の話を書いたので、今日は若山牧水と海達公子のかかわりについて紹介したい。
 公子は8歳だった大正13年「赤い鳥」7月号に「ひし」が推奨作として入選して以来、選者の北原白秋からその才能を注目されるようになる。以後、特別に目をかけてもらうようになるが、昭和3年7月に白秋が郷里柳川に帰省した際、初めて対面してからは白秋も公子のことを「私の弟子」と公言するようになった。この帰省の折、開局したばかりの熊本放送局に出演した白秋はわざわざ公子を同行させ、放送局に紹介している。これによりその2か月後、公子は小学校の同級生たちとともにラジオ出演を果たしている。その後も白秋の支援は続くのだが、実は公子は白秋と対面するよりも前に野口雨情や若山牧水らとも会って直接指導を受けている。特に若山牧水は、童謡誌「金の星」誌上で、幼年詩の選者であった牧水が、公子が尋常小2年生の頃から彼女の詩を見始めてその素質を認め、特別の期待を寄せていた。作品の掲載についてもしばしば破格の待遇をしていたが、その公子に一度会いたいと、大正14年11月25日、九州旅行の途中に妻の喜志子を伴って荒尾の公子の家に立ち寄った。牧水が公子の家を訪問した時、たまたま公子は近くの厳島神社へ松葉掻きの奉仕作業に行っていた。しばらくして帰って来た公子は、手拭いをかぶり、自分の丈より高い松葉掻きを手に、背中には籠を背負っていた。そのすすけた顔の公子を一見し、牧水は驚いて、この子が想像していた公子だろうかと絶句した。才気煥発な子供を予想していた牧水にとって、現実の公子の容貌はあまりにも異なっていた。牧水は「今のその茫っとした性質を大切に大きくなってもなくさぬ様に」と優しく声をかけたという。時に牧水41歳、公子9歳であった。この3年後に牧水は世を去るが、高等女学校に入ってからの公子は、若山貴志子に短歌の指導を受けることになるのである。
 公子の家を訪問した翌日、大牟田の料亭で行われた牧水夫妻を囲む文士の会に、公子と父の松一(貴文)が招待される。下の写真はその時の記念写真で、前列の牧水夫妻の間に主役然と座るのが公子。前列右端が父の松一。



※参考文献 規工川祐輔「評伝 海達公子『赤い鳥』の少女詩人」(熊日出版2004)

水郷めぐり 若山牧水

2012-08-22 19:32:25 | 文芸
 旅を愛し、酒を愛した若山牧水は日本各地に歌碑が残っている。僕は牧水の短歌や俳句もいいけれど彼の紀行文も大好きだ。なかでも茨城県から千葉県に広がる霞ヶ浦辺りを旅した「水郷めぐり」には旅情をそそられる。後半の「あやめ踊り」が出てくるくだりを現代仮名づかいに変えてみた。なお「あやめ踊り」というのは「潮来音頭」や「潮来甚句」を踊るものらしい。


 豊津に帰った頃雨も滋(しげ)く風も加わった。鳥居の下から舟を雇って潮来へ向う、苫(とま)をかけて帆あげた舟は快い速度で広い浦、狭い河を走ってゆくのだ。ずっと狭い所になるとさっさっと真菰(まこも)の中を押分けて進むのである。真みどりなのは真菰、やや黒味を帯びたのは蒲(かば)だそうである。行々子(よしきり)の声がそこからもここからも湧く。船頭の茂作爺は酒好きで話好きである。潮来の今昔を説いて頻りに今の衰微を嘆く。
 川から堀らしい所へ入っていよいよ真菰の茂みの深くなった頃、ある石垣の蔭に舟は停まった。茂作爺の呼ぶ声につれて若い女が傘を持って迎えに来た。そこはM――屋という引手茶屋であった。二階からはそれこそ眼の届く限り青みを帯びた水と草との連りで、その上をほのかに暮近い雨が閉ざしている。薄い靄の漂っておる遠方に一つの丘が見ゆる。そこが今朝詣でて来た香取の宮であるそうな。
 何とも言えぬ静かな心地になって酒をふくむ。軽やかに飛び交しておる燕にまじっておりおり低く黒い鳥が飛ぶ。行々子であるらしい。庭ききの堀をばちょうど田植過ぎの田に用いるらしい水車を積んだ小舟がいくつも通る。我らの部屋の三味の音に暫く棹を留めて行くのもある。どっさりと何か青草を積込んで行くのもある。
 それらも見えず、全く闇になった頃名物のあやめ踊りが始まった。十人ばかりの女が真っ赤な揃いの着物を着て踊るのであるが、これはまたその名にそぐわぬ勇敢無双の踊りであった。一緒になって踊り狂うた茂作爺は、それでも独り舟に寝に行った。
 翌朝、雨いよいよ降る。

霞が浦即興
わが宿の灯影さしたる沼尻の葭の繁みに風さわぐ見ゆ
沼とざす眞闇ゆ蟲のまひ寄りて集ふ宿屋の灯に遠く居る
をみなたち群れて物洗ふ水際に鹿島の宮の鳥居古りたり
鹿島香取宮の鳥居は湖越しの水にひたりて相向ひたり
苫蔭にひそみつゝ見る雨の日の浪逆(なさか)の浦はかき煙らへり
雨けぶる浦をはるけみひとつゆくこれの小舟に寄る浪聞ゆ



越前よりまかりこしたる追風

2012-08-21 20:32:25 | 歴史
 かつて熊本は相撲の聖地だった。それは相撲の宗家である吉田司家があったからである。僕らの子どもの頃、新横綱が誕生すると藤崎八旛宮の参道沿いにあった吉田司家で免許状の授与が行われていた。吉田司家からほど近い白川公園で毎年行なわれる熊本巡業は県内外から見物に来る人たちで賑わった。吉田司家はもともと越前の国の武家。後鳥羽天皇(平安末期-鎌倉初期)の時代、初代の吉田家次が節会相撲の行司官に任ぜられ、以後、相撲の宗家として代々「追風」の号を名乗った。肥後細川4代の細川綱利公の時、招かれて熊本藩に仕えた。横綱への免許授与は第4代横綱の谷風梶之助(右絵図)から第40代東富士欽壱までの160年間、37人にのぼる。しかし、吉田司家24代追風・長善氏の時の吉田司家の内紛がもとで日本相撲協会とは徐々に疎遠になり、現在では事実上断絶した形となったことは残念だ。
 実はこの24代当主・吉田長善氏は僕の高校の大先輩でもあり、わが済々黌水球部の初代部長でもある。早大の史学科卒業後、母黌済々黌に勤め社会科を担当、公私ともに多忙ななか、水球部の部長としても選手たちを物心両面から支えていただいたという。小堀流踏水術の練達でもあり、後に済々黌水球部を高校水球のトップレベルに押し上げる基礎を築いた功績は大きい。それだけに吉田司家の文字を目にすると複雑な想いが交錯するのである。


かつて藤崎八旛宮の参道沿いに吉田司家があった。


今も跡地には記念のプレートが掲示されている。

本條秀美さんの名調子で「相撲甚句」をひとつ・・・

山鹿温泉「さくら湯」の復活間近!

2012-08-20 21:21:01 | 熊本
 かつて山鹿温泉のシンボルとして親しまれていた「さくら湯」の再建工事がだいぶ進んでいる。江戸時代中期には細川藩の御前湯となった歴史を持つ「さくら湯」は、1974年に老朽化のため解体されたが、今年10月には完成し、38年ぶりに復活することになる。新生「さくら湯」は瓦ぶきの木造2階建てという従来の姿を再現する計画で、細川藩主らが利用したといわれる「龍の湯」も昔の形のまま復元されるという。
 山鹿市は「山鹿灯籠まつり」、「八千代座」に続き三つ目の観光ツールを手にすることになる。


再建工事が進む新しい「さくら湯」


昭和49年に解体された元の「さくら湯」

夏の終わり

2012-08-19 19:49:18 | ファミリー
 息子たちや孫たちのさざめきも消え、静かな日常が戻ってきた。寂しいようなホッとしたような・・・。
 夕立が通り過ぎ、立田山の上に虹がかかっていた。それも束の間、やがて夕闇が迫ってくる。
 毎年こんな時季になると必ず想い出すのがユーミンの「晩夏」。特に好きなのは次の一節だ。

藍色は群青に
薄暮は紫に
ふるさとは
深いしじまに
輝きだす
輝きだす