来年の最大の楽しみは、先般、「春のくまもとお城まつり」の目玉として行われる予定であることが発表された「熊本城歌舞伎(仮称)」だ。これは、慶長15年(1610)に、加藤清正が「阿国歌舞伎」を城下で上演させた故事に倣うという趣旨もあるという。今日の歌舞伎の起源といわれる「阿国歌舞伎」だが、いったいどんな舞台が繰り広げられたのかよくわからない。
今から10年前、歌舞伎発祥の年と伝えられる慶長8年(1603)からちょうど400年を記念し、関西楽劇フェスティバル協議会が主体となって「阿国歌舞伎」の復元上演が京都で行われた。そのプロジェクトの中心メンバーとして活躍された歴史学者で国際日本文化研究センターの専任教授・笠谷和比古氏が、その年6月26日の日経新聞に寄稿された「阿国再臨 京の夜彩る」と題する文章に「阿国歌舞伎とは何ぞや」について実に分かりやすくまとめてある。その一部を掲載してみた。
今から10年前、歌舞伎発祥の年と伝えられる慶長8年(1603)からちょうど400年を記念し、関西楽劇フェスティバル協議会が主体となって「阿国歌舞伎」の復元上演が京都で行われた。そのプロジェクトの中心メンバーとして活躍された歴史学者で国際日本文化研究センターの専任教授・笠谷和比古氏が、その年6月26日の日経新聞に寄稿された「阿国再臨 京の夜彩る」と題する文章に「阿国歌舞伎とは何ぞや」について実に分かりやすくまとめてある。その一部を掲載してみた。

今朝の熊日新聞に、熊本市春日の女性グループ「春日人おてもやん」が、おてもやんのふる里・春日をPRしようと、おてもやんが生きた明治時代の風景を描いたポスターを作製したという話題が載っていた。ちょうど今日、熊本駅に土産物を買いに行ったついでにそのポスターを撮影してきた。

※このポスターの原画を作製されたのはイラストレーターの野川ふきこさんです。
野川ふきこさんのブログ
「AtelierTomuneko イラスト工房トムネコの絵師、野川ふきこのブログへようこそ!」
このポスターは、最近、熊本駅新幹線口の近くに出来た「春日3丁目おてもやん公園」に掲示されていた。絵柄の背景には春日駅(現熊本駅)の駅舎が描かれている。この春日駅が開業したのは明治24年(1891)7月1日のこと。その4ヵ月後の11月19日には、第五高等中学校に赴任したラフカディオ・ハーン夫妻と使用人の一行が降り立っている。駅頭には嘉納治五郎校長ほかが出迎えたという。
永田イネによって「おてもやん」が作られるのは、それから7、8年後の明治33年頃。イネは米屋町の味噌醤油製造業の家に生まれ、4歳の頃から筝、三味線、太鼓、小唄、舞踊など芸道全般を習ったという。そのイネの稽古場に来ていたのが、北岡村(現春日1丁目)の小作農家の娘・チモ。この二人の出逢いから「おてもやん」が生まれた。
僕がYouTubeにアップした動画の中でも「おてもやん」が圧倒的な人気を得ているのは、決してわらべの可愛らしさだけではない。熊本弁丸出しの歌詞で、他府県民には意味がよく分からなくてもユーモラスな雰囲気が伝わるし、何といってもあの軽快な曲調が受けるのだろう。個人的な意見を言わせていただければ、毎夏行われる「火の国まつり」の総踊りで踊られる「サンバ おてもやん」は、僕はどうも好きになれない。
▼民謡「おてもやん」を巧みに織り込んだ「長唄 おてもやん」

※このポスターの原画を作製されたのはイラストレーターの野川ふきこさんです。
野川ふきこさんのブログ
「AtelierTomuneko イラスト工房トムネコの絵師、野川ふきこのブログへようこそ!」
このポスターは、最近、熊本駅新幹線口の近くに出来た「春日3丁目おてもやん公園」に掲示されていた。絵柄の背景には春日駅(現熊本駅)の駅舎が描かれている。この春日駅が開業したのは明治24年(1891)7月1日のこと。その4ヵ月後の11月19日には、第五高等中学校に赴任したラフカディオ・ハーン夫妻と使用人の一行が降り立っている。駅頭には嘉納治五郎校長ほかが出迎えたという。
永田イネによって「おてもやん」が作られるのは、それから7、8年後の明治33年頃。イネは米屋町の味噌醤油製造業の家に生まれ、4歳の頃から筝、三味線、太鼓、小唄、舞踊など芸道全般を習ったという。そのイネの稽古場に来ていたのが、北岡村(現春日1丁目)の小作農家の娘・チモ。この二人の出逢いから「おてもやん」が生まれた。
僕がYouTubeにアップした動画の中でも「おてもやん」が圧倒的な人気を得ているのは、決してわらべの可愛らしさだけではない。熊本弁丸出しの歌詞で、他府県民には意味がよく分からなくてもユーモラスな雰囲気が伝わるし、何といってもあの軽快な曲調が受けるのだろう。個人的な意見を言わせていただければ、毎夏行われる「火の国まつり」の総踊りで踊られる「サンバ おてもやん」は、僕はどうも好きになれない。
▼民謡「おてもやん」を巧みに織り込んだ「長唄 おてもやん」
僕が物ごころついてから、最初に読んだ長編小説は吉川英治の「宮本武蔵」だった。父の蔵書の中から、なぜこれを選んだのかは憶えていない。とにかく面白くて一気に読み切った。そして武蔵よりもお通さんに心を奪われた。初めて抱いた理想の女性像だったかもしれない。その後、映画やドラマで何本もの「宮本武蔵」を見たが、僕にとってはやはり、稲垣浩監督の「宮本武蔵」(1954)における八千草薫さんのお通が一番イメージにピッタリで忘れられない。
吉川英治が創造したお通というキャラクターのモデルは、戦国時代から江戸時代初期にかけて才女の誉れ高かった「小野お通」だったらしい。柳田國男の「妹の力」によれば、「5歳で歌を詠み、7歳で機を織り、技芸典籍何一つとして暗からぬ才媛であった・・・」とある。しかし、柳田國男も述べているように、この人の出自や経歴には謎が多く、今日でも確定していないようだ。 また、「小野お通」は永い間、今日、歌舞伎や文楽には欠かせない「浄瑠璃」の開祖と信じられてきたが、「浄瑠璃」の語源となった浄瑠璃姫と牛若丸の恋物語である「十二段草子」が書かれたのは「小野お通」の時代よりずっと前の室町時代であることなどから、開祖説は今日では否定されている。しかし、才能豊かな「小野お通」が浄瑠璃の発展に何らかの形で関わっていた可能性はあるという。
「小野お通」の出自についての諸説の中に、美作国津山の地士、岸本彦兵衛の娘という説があると「妹の力」の中に書かれている。僕が防府に勤務していた頃の工場長が岸本さんという方で津山の名家の出身だということを聞いていた。ひょっとして遠祖は、なんて思ったりしたのだが、津山には岸本姓はゴマンといるのだそうな。

映画「宮本武蔵」(1954)でお通を演じる八千草薫さん
吉川英治が創造したお通というキャラクターのモデルは、戦国時代から江戸時代初期にかけて才女の誉れ高かった「小野お通」だったらしい。柳田國男の「妹の力」によれば、「5歳で歌を詠み、7歳で機を織り、技芸典籍何一つとして暗からぬ才媛であった・・・」とある。しかし、柳田國男も述べているように、この人の出自や経歴には謎が多く、今日でも確定していないようだ。 また、「小野お通」は永い間、今日、歌舞伎や文楽には欠かせない「浄瑠璃」の開祖と信じられてきたが、「浄瑠璃」の語源となった浄瑠璃姫と牛若丸の恋物語である「十二段草子」が書かれたのは「小野お通」の時代よりずっと前の室町時代であることなどから、開祖説は今日では否定されている。しかし、才能豊かな「小野お通」が浄瑠璃の発展に何らかの形で関わっていた可能性はあるという。
「小野お通」の出自についての諸説の中に、美作国津山の地士、岸本彦兵衛の娘という説があると「妹の力」の中に書かれている。僕が防府に勤務していた頃の工場長が岸本さんという方で津山の名家の出身だということを聞いていた。ひょっとして遠祖は、なんて思ったりしたのだが、津山には岸本姓はゴマンといるのだそうな。

映画「宮本武蔵」(1954)でお通を演じる八千草薫さん
◆野林祐実さんの3年
野林祐実さん(九州学院)の高校3年間の競技生活が終わった。中学3年だった3年前の千葉国体・少年女子Bの100mで優勝し、一躍全国にその名を知られる選手となった。陸上の名門、九州学院に進学し、さらにその才能を伸ばすだろうと期待された。しかし、彼女のこの3年間は山あり谷ありの連続だった。彼女が高校入学してすぐに水前寺競技場で行われた市内高校陸上を見に行った。しかし、彼女はリレーだけに出場、個人種目への出場は回避した。その後の大会も、出場回避や出場しても不完全燃焼のような走りが続いた。実はその頃、足の甲の故障に苦しんでいたらしい。彼女らしい走りが戻ったのはその年秋の九州高校新人陸上県大会だった。相当ストレスがたまっていたのだろう。彼女は喜びを爆発させた。2年生になると故障も完全に癒えたのか、走りに1年の時のような不安感が無くなった。それでもまだ、中学3年の時の記録、11秒73をクリアできないでいた。でも何かこの年はやってくれそうな気がしていた。そしてそれがこの年のインターハイで現実となった。100・200の2冠を達成したのである。さらに秋の国体では優勝こそ宿敵の土井杏南(埼玉栄)に譲ったものの、遂に11秒70と自己ベストを更新した。そして今年、けっして調子は悪くなかったと見えたが、昨年のインターハイ2冠のプレッシャーがあったのか、インターハイでは100の2位が精一杯だった。しかも、高校生活の集大成と臨んだ国体では準決勝で敗退という残念な高校の幕切れとなった。しかし、彼女の競技生活はまだまだこれからだ。どういう進路を選ぶのかはわからないが、新しいステージで、リオや東京のオリンピックを目指してくれるに違いない。
この3年間、本当によく頑張ったと思うし、楽しませてくれた。ひとまず、ねぎらいと感謝の言葉を捧げたい。

この3年間、本当によく頑張ったと思うし、楽しませてくれた。ひとまず、ねぎらいと感謝の言葉を捧げたい。
▼2011年9月17日の九州高校新人陸上熊本県大会
▼左から中学3年、高校2年、高校3年の野林さん。

▼間違いなく彼女はスターだった。

▼左から中学3年、高校2年、高校3年の野林さん。



▼間違いなく彼女はスターだった。

◆新しいステージに入った“わらべ”の芸
少女舞踊団ザ・わらべの舞踊にハマってから4年が過ぎた。中学生と小学生だったザ・わらべの二人も高校生になった。成長に伴い舞踊もお囃子も芸の上達ぶりは目ざましいものがある。そんな彼女らが今年、新しいステージに入ったことを実感させられたのが、5月3日に水前寺成趣園・能楽殿で初披露した「天神さん」だった。
この演目は落語の「狸賽(たぬさい)」をモチーフに横笛の名手、二世藤舎名生(とうしゃめいしょう)さんが創作した長唄。ザ・わらべの師匠・中村花誠さんは、この「天神さん」や「花の猩々」など大曲の経験を積ませ、いずれは本格的な歌舞伎舞踊という高みを見据えておられる明確な意図を感じた。
また、今年は次世代を担う彼女らの妹分こわらべの子たちの進境が著しかった。新年は大きな舞台も予定されているようなので、ザ・わらべ&こわらべ の活躍が益々期待できる1年になりそうである。
▼画像をクリックすると「天神さん」を再生します
少女舞踊団ザ・わらべの舞踊にハマってから4年が過ぎた。中学生と小学生だったザ・わらべの二人も高校生になった。成長に伴い舞踊もお囃子も芸の上達ぶりは目ざましいものがある。そんな彼女らが今年、新しいステージに入ったことを実感させられたのが、5月3日に水前寺成趣園・能楽殿で初披露した「天神さん」だった。
この演目は落語の「狸賽(たぬさい)」をモチーフに横笛の名手、二世藤舎名生(とうしゃめいしょう)さんが創作した長唄。ザ・わらべの師匠・中村花誠さんは、この「天神さん」や「花の猩々」など大曲の経験を積ませ、いずれは本格的な歌舞伎舞踊という高みを見据えておられる明確な意図を感じた。
また、今年は次世代を担う彼女らの妹分こわらべの子たちの進境が著しかった。新年は大きな舞台も予定されているようなので、ザ・わらべ&こわらべ の活躍が益々期待できる1年になりそうである。
▼画像をクリックすると「天神さん」を再生します
◆36年ぶりにナマ音で聴いた「ブリヂストン吹奏楽団久留米」
5月31日、玉名市民会館で行われた「ブリヂストン吹奏楽団久留米 玉名チャリティコンサート2013」を観に行った。この楽団の演奏をナマで聴くのは実に36年ぶり。僕が最後に聴いたナマの演奏は1977年の防府市公会堂でのコンサート。しかも、この防府でのコンサートは僕自身が企画運営の責任者として開いたコンサートだっただけに懐かしさもひとしおだった。また、今回は玉名女子高校吹奏楽部とのジョイントという、全日本吹奏楽コンクールにおいて金賞を受賞した二つの楽団の共演も観ることが出来、僕にとって忘れられない吹奏楽の夜となるだろう。
5月31日、玉名市民会館で行われた「ブリヂストン吹奏楽団久留米 玉名チャリティコンサート2013」を観に行った。この楽団の演奏をナマで聴くのは実に36年ぶり。僕が最後に聴いたナマの演奏は1977年の防府市公会堂でのコンサート。しかも、この防府でのコンサートは僕自身が企画運営の責任者として開いたコンサートだっただけに懐かしさもひとしおだった。また、今回は玉名女子高校吹奏楽部とのジョイントという、全日本吹奏楽コンクールにおいて金賞を受賞した二つの楽団の共演も観ることが出来、僕にとって忘れられない吹奏楽の夜となるだろう。
◆どんどん消えてゆく歴史的景観
今年も僕の身近なところで、いくつかの歴史的景観が消えて行った。基本的には土地や建物の所有者それぞれの事情によって埋められたり撤去されたりするわけで、われわれ一般市民が口をはさむ余地はないのかもしれない。しかし、こうした歴史的・文化的価値があるものを残していく方法はないのだろうかと残念でならない。
▼旧藩時代、京町の北側に掘られていた空堀の名残りが今年マンション建設のため埋められた。

▼明治9年「神風連の乱」の名残りをとどめていた与倉知実中佐の旧居跡も今年マンション建設で消えた。

▼小泉八雲の熊本二番目の、西外坪井町堀端の旧居跡の前にあった地蔵堂は今年撤去された。

▼玉名市の大浜橋たもとの河岸にあった石積み構造物「清正公枠」が護岸工事のため埋められた。
今年も僕の身近なところで、いくつかの歴史的景観が消えて行った。基本的には土地や建物の所有者それぞれの事情によって埋められたり撤去されたりするわけで、われわれ一般市民が口をはさむ余地はないのかもしれない。しかし、こうした歴史的・文化的価値があるものを残していく方法はないのだろうかと残念でならない。
▼旧藩時代、京町の北側に掘られていた空堀の名残りが今年マンション建設のため埋められた。

▼明治9年「神風連の乱」の名残りをとどめていた与倉知実中佐の旧居跡も今年マンション建設で消えた。

▼小泉八雲の熊本二番目の、西外坪井町堀端の旧居跡の前にあった地蔵堂は今年撤去された。

▼玉名市の大浜橋たもとの河岸にあった石積み構造物「清正公枠」が護岸工事のため埋められた。

今年も昨日までで359本の記事をこのブログに書き込んだ。その中で特に忘れられない記事を今日から1本ずつ再度ご紹介したい。
◆玄宅寺が人で溢れた夜
9月20日(金)は、「水前寺活性化プロジェクト」の一環として毎月、玄宅寺で行われている舞踊団花童の公演日だったが、この日は特に、同じくプロジェクトの一環として創作された「水前寺成趣園の歌」のお披露目が行なわれた。また、この日はちょうど中秋の名月「十六夜の月」の観月会も併せて行われ、テレビやラジオで告知が行われたこともあって、普段は50人ほどが集まる公演に、おそらくその10倍くらいの人が集まり、本堂や境内は人人人で溢れかえった。
この勢いが水前寺活性化に繋がってくれればよいが。
▼水前寺成趣園の歌
◆玄宅寺が人で溢れた夜
9月20日(金)は、「水前寺活性化プロジェクト」の一環として毎月、玄宅寺で行われている舞踊団花童の公演日だったが、この日は特に、同じくプロジェクトの一環として創作された「水前寺成趣園の歌」のお披露目が行なわれた。また、この日はちょうど中秋の名月「十六夜の月」の観月会も併せて行われ、テレビやラジオで告知が行われたこともあって、普段は50人ほどが集まる公演に、おそらくその10倍くらいの人が集まり、本堂や境内は人人人で溢れかえった。
この勢いが水前寺活性化に繋がってくれればよいが。
▼水前寺成趣園の歌


また、熊本城マラソンが真に全国的に認知されるためには、フルマラソンに人気選手が出場することが欠かせないと思っていたので、その意味でも川内選手の出場は嬉しい。

第2回大会フルマラソン男子の入賞者
昨夜のTKU「ドキュメント九州」では、芝居小屋の存続に奮闘する大衆演劇の玄海竜二さんの姿を追っていた。
玄海さんは現在、熊本を本拠地として活躍しているが、生まれは北九州小倉。北九州市で唯一残っていた芝居小屋が、経営難のため28年の歴史に幕を下ろした。かつて九州各地にあった芝居小屋。大衆演劇は身近な娯楽として親しまれていた。僕が子供の頃には坪井立町にも芝居小屋があり、祖母に何度か連れて行ってもらった想い出がある。しかし娯楽の多様化が進んだ今日、芝居小屋は次々と姿を消して行った。今では九州管内にも数えるほどしか残っていないという。
何とか芝居小屋存続に力を貸してほしいと訴える小倉の大衆演劇ファンのために、私財を投げうって芝居小屋建設に奔走する玄海さんの心意気と、めでたくこけら落としを迎えた日の地元ファンたちの感動ぶりを見ていると胸が熱くなるものを感じた。
玄海さんは現在、熊本を本拠地として活躍しているが、生まれは北九州小倉。北九州市で唯一残っていた芝居小屋が、経営難のため28年の歴史に幕を下ろした。かつて九州各地にあった芝居小屋。大衆演劇は身近な娯楽として親しまれていた。僕が子供の頃には坪井立町にも芝居小屋があり、祖母に何度か連れて行ってもらった想い出がある。しかし娯楽の多様化が進んだ今日、芝居小屋は次々と姿を消して行った。今では九州管内にも数えるほどしか残っていないという。
何とか芝居小屋存続に力を貸してほしいと訴える小倉の大衆演劇ファンのために、私財を投げうって芝居小屋建設に奔走する玄海さんの心意気と、めでたくこけら落としを迎えた日の地元ファンたちの感動ぶりを見ていると胸が熱くなるものを感じた。
今夜のNHK-Eテレ「にっぽんの芸能」は、生誕650年を迎えた能の大成者・世阿弥と生誕680年を迎えたその父・観阿弥にスポットを当てた。世阿弥の最大の特徴である「複式夢幻能」について解説し、その代表作である「井筒」が、観世流26世宗家・観世清和ほかの出演によって演じられた。


世阿弥と聞くと、熊本人としては、やはり熊本ゆかりの「檜垣」を思い出さずにはいられない。しかし、「関寺小町」「姨捨」とともに三老女と呼ばれる「檜垣」は、能の世界では最も位の高い奥義中の奥義と言われ、なかなか観る機会はない。僕もこれまで能「檜垣」を観たことはなく、もっぱら解説書や謡本を読むしかないのである。いつか能舞台を観る機会が来ることを願っている。
▼能「檜垣」のあらすじ
肥後国岩戸山の観音様に毎日閼伽の水を供えにくる老女がいた。修業僧が尋ねると、「後撰集の『年ふればわが黒髪も白川のみづはくむまで老いにけるかな』は私が詠んだ歌。若い頃は太宰府で白拍子をしていたが、老いては白川の辺に庵を結んだ。ある日、藤原興範公が通りかかり、水を所望された時詠んだのがこの歌」と告げて消える。僧が白川の庵を訪ねると老女の幽霊が現れる。美貌ゆえに多くの男性を惑わせてきた罪業を償うため、熱鉄の釣瓶を永遠に汲み続けなければならないと、その苦しみを訴え、藤原興範公に求められて舞った舞を懐かしんで舞い、成仏させてほしいと願って姿を消す。僧はねんごろに供養する。

謡(うたい)に登場する白川(蓮台寺裏)

謡に登場する岩戸観音にほど近い山下庵跡

山下庵のすぐ近くにある「檜垣の泉」(枯れそう?)


世阿弥と聞くと、熊本人としては、やはり熊本ゆかりの「檜垣」を思い出さずにはいられない。しかし、「関寺小町」「姨捨」とともに三老女と呼ばれる「檜垣」は、能の世界では最も位の高い奥義中の奥義と言われ、なかなか観る機会はない。僕もこれまで能「檜垣」を観たことはなく、もっぱら解説書や謡本を読むしかないのである。いつか能舞台を観る機会が来ることを願っている。
▼能「檜垣」のあらすじ
肥後国岩戸山の観音様に毎日閼伽の水を供えにくる老女がいた。修業僧が尋ねると、「後撰集の『年ふればわが黒髪も白川のみづはくむまで老いにけるかな』は私が詠んだ歌。若い頃は太宰府で白拍子をしていたが、老いては白川の辺に庵を結んだ。ある日、藤原興範公が通りかかり、水を所望された時詠んだのがこの歌」と告げて消える。僧が白川の庵を訪ねると老女の幽霊が現れる。美貌ゆえに多くの男性を惑わせてきた罪業を償うため、熱鉄の釣瓶を永遠に汲み続けなければならないと、その苦しみを訴え、藤原興範公に求められて舞った舞を懐かしんで舞い、成仏させてほしいと願って姿を消す。僧はねんごろに供養する。

謡(うたい)に登場する白川(蓮台寺裏)

謡に登場する岩戸観音にほど近い山下庵跡

山下庵のすぐ近くにある「檜垣の泉」(枯れそう?)
今朝の熊日新聞にJR高架化工事のため、現在仮駅舎で営業している上熊本駅の新駅舎が再来年の3月に完成予定という記事が掲載されていた。仮駅舎になってからもう何年経ったろうか。駅前を通る度に、いったいいつになったら駅らしい姿になるんだろうと思っていた。上熊本駅はわが家から最寄りの駅で子供の頃からなじみ深く、これまでこのブログにも上熊本駅関連の記事を何度も載せて来た。その中からいくつかを編集して再掲してみた。
▼新・上熊本駅のデザイン(2011.7.1)

九州新幹線全線開業に伴う在来線(熊本~上熊本間)の高架化のために解体され、現在、仮駅舎となっているJR鹿児島本線・上熊本駅駅舎の新しいデザイン素案が県から発表された。また県では、この案に対する県民の意見を反映するため、パブリックコメントを行うという。

解体される前の旧駅舎
▼文豪ゆかりの駅(2013.4.20)
上熊本駅は、明治29年(1896)、第五高等中学校に赴任した夏目漱石が降り立った駅として知られており、駅前には漱石の像も建てられている。また、その5年前に赴任した漱石の前任者ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、上熊本駅を舞台にした短編小説「停車場にて」を物している。さらに、明治40年(1907)には、漱石に倣ったのか、与謝野寛が、まだ学生だった太田正雄、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を引き連れて降り立っている。
明治41年(1908)2月、漱石は、九州日日新聞(現在の熊本日日新聞)のインタビューに答えて熊本の印象を語っているが、その中で上熊本駅に降り立った日のことを次のように語っている。
私は7、8年前松山の中学から熊本の五高に転任する際に汽車で上熊本の停車場に着いて下りて見ると、まず第一に驚いたのは停車場前の道幅の広いことでした。そうしてあの広い坂を腕車(人力車)で登り尽くして京町を突き抜けて坪井に下りようという新坂にさしかかると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下ろしてまた驚いた。そしていい所に来たと思った。あれから眺めると、家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向うの蒼暗き中に封じ込まれている。それに薄紫色の山が遠く見えて、その山々を阿蘇の煙が遠慮なく這い回っているという絶景、実に美観だと思った。それから阿蘇街道(豊後街道)の黒髪村の友人の宅に着いて、そこでしばらく厄介になって熊本を見物した。

夏目漱石内坪井旧居パンフレットより
▼俳諧の巨人、西山宗因ゆかりの寺跡(2010.7.30)
明治24年(1891)に九州鉄道が熊本まで開通した時、上熊本駅から坪井方面へ馬車を通すために新坂と呼ばれる道路が新設された。上熊本駅から新坂を登り始めると、寄り添うように古い小さな坂道がある。この坂は釈将寺坂と呼ばれ、その昔、この坂の上に釈将寺という天台宗のお寺があったことからこの名が付けられたという。この釈将寺は、俳人・松尾芭蕉をして「俳諧の中興開山」と言わしめた談林派俳諧の祖、西山宗因が幼い頃、初めて和歌や連歌に触れ、俳人連歌師への道を歩き始めたお寺である。この附近は武家屋敷が守りを固めた所でもあった。

釈将寺坂
▼進駐軍の引き揚げ(2008.7.4)
昭和30年7月某日、上熊本駅ホームで別れを惜しむ米兵とオンリーさんたちの様子だ。進駐米軍の撤収が始まり、熊本からも米兵たちが帰国して行った。僕の家の近くにオンリーさんと住んでいたGIも帰って行った。暑い夏の夕方、上熊本駅の線路脇の有刺鉄線を張り巡らした立て杭越しに僕はそれを眺めていた。幼いながらも何かが変わっていくのを感じていた。53年前の出来事だ。

▼映画「霧の旗」の舞台(2010.1.19)
松本清張のサスペンス小説「霧の旗」を「男はつらいよ」シリーズなどで知られる山田洋次監督が昭和40年(1965)に映画化した。珍しくサスペンスに取り組んだ山田監督は、いつもの作品のようなコミカルな要素は一切なく、ヒロイン役の倍賞千恵子も、あの“さくら”さん的な明るさはカケラも見せずに、この復讐に燃える女を演じた。原作では事件が発生した町は明確には表現されていないが、山田監督は舞台を熊本に設定した。発端となる殺人事件が起きるのは寺原町で、ヒロインが夜行列車で東京へ向かうのは上熊本駅である。
▼新・上熊本駅のデザイン(2011.7.1)

九州新幹線全線開業に伴う在来線(熊本~上熊本間)の高架化のために解体され、現在、仮駅舎となっているJR鹿児島本線・上熊本駅駅舎の新しいデザイン素案が県から発表された。また県では、この案に対する県民の意見を反映するため、パブリックコメントを行うという。

解体される前の旧駅舎
▼文豪ゆかりの駅(2013.4.20)
上熊本駅は、明治29年(1896)、第五高等中学校に赴任した夏目漱石が降り立った駅として知られており、駅前には漱石の像も建てられている。また、その5年前に赴任した漱石の前任者ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、上熊本駅を舞台にした短編小説「停車場にて」を物している。さらに、明治40年(1907)には、漱石に倣ったのか、与謝野寛が、まだ学生だった太田正雄、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を引き連れて降り立っている。
明治41年(1908)2月、漱石は、九州日日新聞(現在の熊本日日新聞)のインタビューに答えて熊本の印象を語っているが、その中で上熊本駅に降り立った日のことを次のように語っている。
私は7、8年前松山の中学から熊本の五高に転任する際に汽車で上熊本の停車場に着いて下りて見ると、まず第一に驚いたのは停車場前の道幅の広いことでした。そうしてあの広い坂を腕車(人力車)で登り尽くして京町を突き抜けて坪井に下りようという新坂にさしかかると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下ろしてまた驚いた。そしていい所に来たと思った。あれから眺めると、家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向うの蒼暗き中に封じ込まれている。それに薄紫色の山が遠く見えて、その山々を阿蘇の煙が遠慮なく這い回っているという絶景、実に美観だと思った。それから阿蘇街道(豊後街道)の黒髪村の友人の宅に着いて、そこでしばらく厄介になって熊本を見物した。

夏目漱石内坪井旧居パンフレットより
▼俳諧の巨人、西山宗因ゆかりの寺跡(2010.7.30)
明治24年(1891)に九州鉄道が熊本まで開通した時、上熊本駅から坪井方面へ馬車を通すために新坂と呼ばれる道路が新設された。上熊本駅から新坂を登り始めると、寄り添うように古い小さな坂道がある。この坂は釈将寺坂と呼ばれ、その昔、この坂の上に釈将寺という天台宗のお寺があったことからこの名が付けられたという。この釈将寺は、俳人・松尾芭蕉をして「俳諧の中興開山」と言わしめた談林派俳諧の祖、西山宗因が幼い頃、初めて和歌や連歌に触れ、俳人連歌師への道を歩き始めたお寺である。この附近は武家屋敷が守りを固めた所でもあった。

釈将寺坂
▼進駐軍の引き揚げ(2008.7.4)
昭和30年7月某日、上熊本駅ホームで別れを惜しむ米兵とオンリーさんたちの様子だ。進駐米軍の撤収が始まり、熊本からも米兵たちが帰国して行った。僕の家の近くにオンリーさんと住んでいたGIも帰って行った。暑い夏の夕方、上熊本駅の線路脇の有刺鉄線を張り巡らした立て杭越しに僕はそれを眺めていた。幼いながらも何かが変わっていくのを感じていた。53年前の出来事だ。

▼映画「霧の旗」の舞台(2010.1.19)
松本清張のサスペンス小説「霧の旗」を「男はつらいよ」シリーズなどで知られる山田洋次監督が昭和40年(1965)に映画化した。珍しくサスペンスに取り組んだ山田監督は、いつもの作品のようなコミカルな要素は一切なく、ヒロイン役の倍賞千恵子も、あの“さくら”さん的な明るさはカケラも見せずに、この復讐に燃える女を演じた。原作では事件が発生した町は明確には表現されていないが、山田監督は舞台を熊本に設定した。発端となる殺人事件が起きるのは寺原町で、ヒロインが夜行列車で東京へ向かうのは上熊本駅である。


江戸っ子と蕎麦に関してこんな話がある。もう30年ほど前のことだが、僕が栃木県の黒磯(現那須塩原)の工場に勤務していた頃、労組の主催で永六輔さんの講演会が行われた。永さんはとてもタイトなスケジュールの中、工場見学や講演会を精力的にこなした。その間、ずっとアテンドを務めたのが僕の直属上司だった。講演会が終り、そのまま東京へとんぼ返りをする永さんに僕の上司が、「せめて地元の蕎麦でも食べて行ってください」と新幹線の駅にほど近い店に案内した。ところが、新幹線の時刻がどんどん迫って来る。とてもゆっくり食べる時間などない状況に僕の上司は焦った。しかし永さん、少しも慌てず、「大丈夫です!1分もあれば食べられますから…」。実際、永さんは出された熱々の汁蕎麦を噛まずにあっという間にたいらげたという。さすがはチャキチャキ江戸っ子の永六輔さん、と皆な感心しきりだった。
▼江戸の粋を表現する江戸端唄。でもその源流は潮来節
日本舞踊の源流の一つである念仏踊り。その歴史を調べていると、柳田國男の「踊の今と昔」という文献の「念仏踊」の項目の最初に「肥後上盆城郡乙女村大字津志田なるヒナイ神の社頭に於ける七月十四十五日の念佛踊(肥後國志)」と書かれていることに気付いた。さっそく「肥後國志」を確認すると、巻十二の上益城・甲佐の頁に下記のように書かれていた。

この文章を、僕の推測も含めながら要約すると、九州にあって暴れまわっていた源為朝(鎮西八郎為朝)が、朝廷より召喚されて帰京する時、為朝に仕えていた早川城主・渡辺氏に内室を託して帰った。内室は為朝の帰りを待ちわびたが、それは叶わぬこととあきらめ、世を儚んで淵川に身を投じた。早川城下の人々はこれを悼み、念仏踊りをし、源氏の白旗を竹に結び付けて笹踊りを踊って弔った。これが毎年恒例となり後々の世まで伝承された。
今もこの念仏踊りが残っているのだろうかと甲佐町役場に尋ねたが、とうの昔に失われたという返事だった。残っていないと聞くと余計、どんな踊りだったのか知りたくなる。他に何か手がかりはないかと調べていたところ、「こじょちゃんの戯言」 というブログに行き当たった。12月12日の記事の中に、このブログの開設者が早川城主・渡辺氏の子孫であるらしいことが書かれていた。さっそくブログにコメントを書き込んだ。先祖からの言い伝えなどが残っていないかどうか知りたかった。すぐに丁寧なリプライが書き込まれた。ご本人も先祖のことについて調べておられる様子だった。今後、新たなことが分ってくるかもしれない。楽しみである。

甲佐町の津志田河川自然公園

この文章を、僕の推測も含めながら要約すると、九州にあって暴れまわっていた源為朝(鎮西八郎為朝)が、朝廷より召喚されて帰京する時、為朝に仕えていた早川城主・渡辺氏に内室を託して帰った。内室は為朝の帰りを待ちわびたが、それは叶わぬこととあきらめ、世を儚んで淵川に身を投じた。早川城下の人々はこれを悼み、念仏踊りをし、源氏の白旗を竹に結び付けて笹踊りを踊って弔った。これが毎年恒例となり後々の世まで伝承された。
今もこの念仏踊りが残っているのだろうかと甲佐町役場に尋ねたが、とうの昔に失われたという返事だった。残っていないと聞くと余計、どんな踊りだったのか知りたくなる。他に何か手がかりはないかと調べていたところ、「こじょちゃんの戯言」 というブログに行き当たった。12月12日の記事の中に、このブログの開設者が早川城主・渡辺氏の子孫であるらしいことが書かれていた。さっそくブログにコメントを書き込んだ。先祖からの言い伝えなどが残っていないかどうか知りたかった。すぐに丁寧なリプライが書き込まれた。ご本人も先祖のことについて調べておられる様子だった。今後、新たなことが分ってくるかもしれない。楽しみである。

甲佐町の津志田河川自然公園