半日村/斎藤隆介・作 滝平二郎・絵/岩崎書店/1980年初版
日が半日しかあたらないところから半日村と呼ばれている村。村のうしろに高い山があって、お日さまが顔をだせない。そしてお米もほかの村の半分しか取れなかった。
「おらたちの村は、なんという村かのう。あの山さえなかったらのう」「だめさ、山は山さ。うごかせやしねえ。悪い村にうまれたと思って、あきらめるよし、しかたがねえさ。」というとうちゃんとかあちゃんが話をきいていた一平は、つぎの朝、ふくろをかついで、山にのぼっって、山のてっぺんの土をふくろにつめて おりてくる。そして、そいつをまえのみずうみにざっとあけた。
あけおわると、また山へ。こどもたちは一平がへんなことをしているので、どうしたどうした、なにしてるかと聞いてみた。
「おらは、あの山を、うめちまおうと、思ってるんだ 」一平がこたえると、こどもたちは、気が違ったんだじゃなかろうかと大笑い。しかし、毎日、毎日、一平がやすまずそうするもんだから、こどもたちも、なんだか、面白そうな気がしてひとり、ふたり、まねするやつがでてきた 三人四人とまねするやつも でてきた。
そうなると、なかまはずれに なりたくないから村じゅうの、こどもたちが、一列になって、ふくろをかついで、山にのぼりはじめる。
これをみて おとなたちははじめはわらっていたが、そのうち「ばっかだなあ、ふくろなんかじゃ、はかがいかねえ、そういう時は、もっこを つかうもんだ」というおとなもでてきた。
山は、ちっとも、ひくくならなかったけれど、ひとり、ふたりが 手伝い出すと、三人四人。五人六人。やらないとなんだか、つきあいが、わるいような気がして、しごとのあいまに村中の おとなたちが もっこをかついで 山に登り始める
こうして 何日も何日も、おとなとこどもが山をのぼったり、おりたりしているうちに、なんだか日のあたるのが はやくなったような気がしてきた。そうなると、みんな元気になって 歌を歌いながら、せっせせっせと、山をのぼったり、おりたりした。
こうして 何年も何年もたつ。おとなたちは、死んじまい、一平やこどもたちは、おとなになっちまった。
一平のこどもたちや、その仲間のこどもたちは、ひまだから 遊ぶ代わりに、もっこをかついで山にのぼった
ある朝、とりがなくと、それといっしょに村のたんぼに、ぱっと朝日がさす。
花はわらいだし、たんぼのイネは、葉をそよがせて元気に水をすいあげはじめる。
山は はんぶんになって 山の土でうめられたみずうみも半分位なってそこにはたんぼができて、イネが風にそよいでいた。
それから、半日村は 一日村とよばれるようになった。
一平が山の土をふくろにつめて、なんどもなんども往復したのはとうちゃんとかあちゃんを楽にしてあげたというやむにやまれぬ行為だったんですね。その熱意が子どもをうごかし、大人もうごかすことになる。継続は力になるが、多分はじめから結果が見えていなかったはず。
世代をこえ、たどりつくところが感動的である。
普通に考えれば、お日さまをさえぎるほど高い山だから、往復するのもたいへんなはずであるが、そうした違和感を感じさせないのが絵本の世界。
森が燃えていて、森の生きものたちは われ先にと逃げていくが、クリキンディという名のハチドリだけは口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは いったりきたり、火の上に落としていく。動物たちがそれを見て「そんなことをして いったい何になるんだ」といって笑うが、クリキンディはこう答える。
「私は、私にできることをしているだけ」という“ハチドリのひとしずく”を思いだす。
また、一平は、宮沢賢治の「虔十公園林」の虔十と重なる。杉を植えても育たないというやせ地に杉苗を植える。手入れをしながら、杉の世話をする虔十。虔十はやがて亡くなるが、杉林は美しく育ち、「公園林」となずけられてながく人々から愛されるようになる。
虔十もまた、はじめから結果はみえていなかったのでは。