来週にはぼちぼちお客様も始まることから、時間に余裕があるのは今週限り。ということで、先日は北に行ったので、今日は南に。以前から何度か計画しては挫折した宮城県にある細倉鉱山跡(マインパーク)に向かいました。(道中は別日にて紹介)
ということで、ついに鉱山跡を利用した細倉マインパーク。一時期はかなり観光に向き合い、家族や子供連れなどを集めるための施設も作ったようですが、一部廃墟、残りも土日限定営業とのこと。マインパーク自体はやっており、隣には新しくなった鉱山資料展示室がありました。
鉱山資料館には、採掘された石や使用していた道具類の展示のほか、鉱山の歴史などをかなり細かく紹介していました。ついつい全部見ていたら30分かかってしまいました。ジオラマ押しのようでしたが、むしろ今と昔の場所を重ねた地図や坑道がどの辺に広がっていたのかなどがわかるようなものがあればよかったと思いました。
マインパークのメイン、観光坑道は入館料500円。全長777mで所要時間40分とのこと。入口すぐからヒヤッとした空気になります。中には坑道技術や採掘技術の紹介や人形のデモンストレーションなども見られます。
一番目を引くところは奥にあるシュリンケージ採掘法で鉱脈に沿って掘った採掘現場。ただこれは尾去沢鉱山でも同様のものがあります。ここの坑道で一番変わっていると思ったところは、中に階段があること。多くの観光鉱山はフラットな作りにとどめているようです。ここでは2階層下まで降りる形で、立体感を味わえます。ただこのため最後にはビル3階分ほどの階段を一気に上がることになります。
観光坑道内には30分ほどいた計算。入口にあった所要時間40分より早かったですが、その間誰とも会うことはありませんでした。また出来れば途中にベンチなど座って休める場所があればよかったです。
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(細倉鉱山)
細倉鉱山の発見は口碑によれば平安初期の大同年間(806-809)と伝わるが、記録が残っているのは桃山時代の天正年間(1573-1592)、山師により採掘がおこなわれたとのこと。当初は銀山だったが、寛文年間になり北隣の大土森鉱山でも鉛の生産が始まった。当初鉛の需要は低かったが、寛文年間(1661-1673)あたりから新しい製錬方法の灰吹法が日本でも本格的に広まり、粗銅から金銀を改修する際に大量の鉛が必要となり、18世紀には仙台藩内で最も有力な鉛鉱山となった。
明治になり個人経営の鉱山として経営され、明治23年(1890)に細倉鉱山会社が設立され、前年には東北本線が一ノ関駅まで延伸され輸送力も増強、同28年には日本一の鉛生産高を記録した。ただ日清戦争後の市況悪化などと大雨による坑道水没などの事故もあり明治31年(1898)に細倉鉱山は解散。
翌年大株節であった高田慎蔵が鉱山を引き取り、高田鉱山と呼ばれるようになった。当初順調だったが明治34年(1901)の市場の暴落で休山。しかしこの頃から亜鉛の需要が拡大し、それまで需要がなかったために鉛鉱石に含まれる亜鉛は捨てられていたが、それが注目されて鉱山は再開。第一次大戦では弾丸の薬きょうに亜鉛が使用されていたため需要が拡大した。
第一次大戦後の不況と経営者の死去、火災の発生で共立鉱業㈱に経営権が映り、名称は細倉鉱山に戻された。回収率改善のための投資を行うも、昭和恐慌による市況悪化で6年で経営権は三菱鉱業㈱(現・三菱マテリアル)に移った。
三菱鉱業は発電所や浮遊選鉱場、精錬工場などの大規模投資を行い、国内有数の鉛・亜鉛鉱山となった。第二次大戦中も稼働したことから昭和20年8月10日には米軍機による空爆を受けた。
戦後、物資・人手不足に加え、組合結成などで稼働が進まず、更に水害、台風被害などで厳しい状況が続いたが、朝鮮戦争の特需で生産力が回復し、栗原鉄道も電化された。多くの鉱山が鉱石枯渇などにより廃業する中、細倉鉱山は昭和45年(1970)に過去最高の粗鉱産出量を記録した。
しかし、翌年のニクソンショックによる円高で経営環境が激変し、1972年には希望退職募集、さらに翌年には第一次オイルショックで市況価格が暴落。この結果足尾、別子、生野といった著名鉱山が閉山となる中、別会社化し三菱金属は経営を継続。1985年以降の円高で国内鉱山が閉山する中、細倉鉱山も1987年(昭和62)に閉山となった。
のち