温泉クンの旅日記

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京都・京田辺、酬恩庵一休寺(1)

2023-12-17 | 京都点描
  <京都・京田辺、酬恩庵一休寺(1)>

 京都の南、京田辺にある臨済宗大徳寺派の寺院「酬恩庵一休寺」の総門である。

 

「酬恩庵」は、1288年から1293年の間に禅の道場として草創されたのが始まりであるとされているのだが、1330年前半の兵火にあい衰退してしまう。
 1456年に、禅僧として名高い<一休宗純>によって再興され、宗祖の恩に報いるという意味を込めて「酬恩庵」と名づけたと伝えられている。いまでは「一休寺」と呼ばれ広く親しまれている。
 一休は81歳で大徳寺住職となったときも、ここ酬恩庵を居として通われ、88歳で亡くなるまで晩年を過ごした。境内に建てられた廟所(宗純王廟)に埋葬されている。

 

 総門をくぐってすぐ左に、一休禅師墨蹟碑「諸悪莫作、衆善奉行(悪いことはするな、よいことをせよの意)」の石碑があった。一休さんの書体はあまりに達筆すぎて簡単には読めない。

 両脇に楓が植えられた石畳の静かな参道を歩く。傾斜が少なく、とても歩きやすい。

 

 わたしは茶道を齧ったせいか、京都で一番通う寺は大徳寺で、裏にある今宮神社の好物のあぶり餅とセットでよく行く。千利休と一休宗純は、とてもその大徳寺とゆかりが深い。
 1415年(22歳頃)、宗純(そうじゅん)は大徳寺の僧侶「華叟宗曇(かそうそうどん)」の弟子となり、師より「一休」の名前(道号)をもらっている。
 一休といえば“とんち話”で有名だが、そのときのエピソードがこうだ。

『ある日、華叟(かそう)和尚から宗純に公案(謎かけ)が出された。
「禅宗の一派、曹洞宗を開いた中国の『洞山』という僧侶が雲水だったころ、遠き道のりを越え、ある有名な禅師を訪ねると『お前はどこから来た?』ときかれた。
洞山が、山を越えてきた寺への道のりを答えると、『そんなことを聞いているのではない、棒で叩いてやりたい所じゃ』といわれた。
『どういうことでしょうか?』と聞き返すと『愚か者!』と一喝された。
 それを聞いたとき、洞山は悟りを開いた。
 さて何をどう悟ったか」

 

 宗純は答えがわからないまま禅の修行を続けていると、ある日、琵琶法師の平家物語が聞こえてくる。平清盛の寵愛を受けていた『祇王』が、仏御前にとって変わられ、出家した話であった。
 それを聞いていたとき、公案が解けた。
 宗純は華叟和尚のもとへ行き、
「有漏路(うろじ=迷い、煩悩に囚われている姿・世界)より
   無漏路(むろじ=悟りの姿・世界)に帰る一休み
     雨ふらばふれ 風ふかばふけ」
 と詠んだ。
 意は「人は本来仏性を持って生れて来るのだから悟りの世界にいた。しかしこの世に生まれて迷い囚われる。そんな本来ある無漏路へ帰る途中の休憩が今。そんな一瞬の今世、雨風吹いてもそれもまた一瞬の出来事。どんなことがあってもたいしたことはない」。

 それを聞いた華叟和尚は、「なるほど、さすがじゃ」と満足そうにうなずき、「それならこれからは『一休』と名乗るがよい」と、宗純は『一休』の道号をいただいたという。

 

 楓の足もとには鮮やかな苔が敷き詰められている。楓だけでなく、桜や躑躅、皐月などもあるようで、桜のころとか紅葉のときはさぞかし絶景であろう。

 

 石畳を昇りつめると、右手に延びる、趣きのある短い参道があった。この先に方丈、庫裏、庭園があるのだ。

 

 振りかえっても、なかなかの雰囲気がある。

 

 紫野にある「大徳寺」に参道がとても美しい「高桐院」というのがあるが、なんとなくそれを思いだす。


  ― 続く ―


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