温泉クンの旅日記

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名護屋城跡 佐賀・唐津

2011-05-08 | ぶらり・フォト・エッセイ
  <野望の跡>


 呼子から約五キロ離れたところに名護屋城跡はある。車で十分ほどの所要時間だから近い。

(ここに、秀吉は全国から武将を呼び寄せたのか・・・・・・)



 名護屋城は波戸岬の丘陵を中心に築かれた平山城だ。
 ここにはもともと松浦党の一族である名護屋氏の居城である垣添城があったが、小田原の北条を落とした翌年(1591年)、秀吉は大陸進攻の前線基地として九州の大名に建設を命じた。



 文禄元年(1592年)から慶長三年(1598年)までの約六年間、明と朝鮮の征服を目指す豊臣秀吉の遠征軍は朝鮮半島を戦場と化した。
 秀吉が死去した慶長三年に日本軍が撤収するまで、この地を出発して壱岐、対馬を経て朝鮮に渡っていったのである。
 第一次出兵を「文禄の役」、第二次出兵を「慶長の役」といい、併せて「文禄・慶長の役」と呼ばれる。



 この途方もない侵略は、秀吉の大殿であった織田信長の構想を引き継いだとも言われる。
 秀吉は戦いのたび功労者に、報償として所領を増やしたり、国変えなどで気前よく家禄を増やすことで政権運営を行っていた。ところがなんといっても日本は領土が狭い。そのため領土を一気に増やすために大陸侵攻せざるを得なくなった。こちらの理由のほうがわたしなどには腑に落ちる。



 いまはただの起伏のある丘としか思えない。
 この日、あまり観光客はいなかった。戦国時代好きの人間か歴女でないと訪れないかもしれない。
 城の規模は当時大坂城に次いで広壮なものだったそうで本丸、二の丸、三の丸、山里曲輪などが配されていた。



 本丸北西隅には、五重七階の天守が築かれた。
 そんな立派な名護屋城だが、秀吉の死で大陸進攻は中止されると廃城となってしまう。



 建物は寺沢広高によって唐津城に移築され、石垣も島原の乱の後に立て篭もりを防ぐために意図的に壊されてしまい、今では部分のみが残っている。



 東映映画ではその昔、登場する誰もが主役を張れる、オールスター勢揃いの映画を年に一本はつくっていた。「忠臣蔵」とか、たいていは正月封切りの映画だったように記憶している。
 この名護屋城にも、ときの戦国武将がキラ星のごとくに勢揃いしたのである。
 豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、前田利家、島津義弘、上杉景勝、石田三成などなど。
 徳川家康で東京から約千二百キロ、伊達政宗は仙台からだから約千五百キロの長旅をしてきたのであるからさぞかし大変だったろう。



 城郭の周囲には、前述の諸将のほかに実行部隊の小西行長(一番隊)、加藤清正(二番隊)、黒田長政(三番隊)、毛利吉成(四番隊)、福島正則(五番隊)、小早川隆景(六番隊)、毛利輝元(七番隊)、宇喜多秀家(八番隊)、豊臣秀勝(九番隊)など、百二十ヶ所ほどの陣屋がおかれた。

 朝鮮派兵を余儀なくさせられた諸大名は、一様にその兵役のために財政悪化で疲弊してしまう。
 そのなか徳川家康だけは、所領を当時僻地といわれた関東に移された直後であったため、新領地整備のために九州に出陣はしたものの派兵も財政悪化も免れた。これが後に家康が天下を取る要因となるというのだから、誠に皮肉というほかない。



 因みに、この名護屋城跡だが、黒澤明監督の「乱」のロケ地のひとつとして撮影が行われたそうである。



  →「唐津城」の記事はこちら
  →「呼子(1)」の記事はこちら
  →「呼子(2)」の記事はこちら

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