<遥かなる家路 (3.11東日本大震災)>
「どうやって帰るんですか」
なんとか歩いて帰れる距離に住んでいる同僚が心配してくれた。
平成23年3月11日午後二時四十六分、それは未曾有の震度7、岩手の三陸沖地震が引き金で始まった。瞬時に「10メートル以上」という途方もない大津波警報が追うように発令された。沿岸各地を大津波が蹂躙し、福島県の相馬では最大波7.3メートルの峻烈な大津波にひと呑みに襲われ、街は壊滅状況となった。
岩手三陸から遥かに離れた東京でも震度5強の地震と、続く同程度の大きな余震で首都圏の鉄道は地下鉄を含めすべて完全にストップしたのだった。運行再開の見通しもたたない。
この地震、わたしが体感した限りでは、あの「岩手・宮城内陸地震」よりよほど大きいものだった。
「このオフィスから住んでいる横浜の戸塚まで、約四十五キロあるからなあ・・・。でも、歩くしか選択肢はないよ」
自宅で待っている猫もきっと心細いはずだ。いや、アイツのことだ、なんで居てくれないのよ、と恨んでいるかもしれない。
「えぇー、それってどのくらい時間掛るんですか」
「うん・・・、ざっと十一時間くらいだね。夕方の五時にここを出れば、休憩時間もちょっと入れて朝方の五時には到着できると思う」
「・・・・・・お気をつけて・・・」
というわけで、午後五時ジャストに清澄を出発した。
“品川あたり、遅くても川崎までには、どこかの私鉄が運転再開するかもしれない”
そういう安易な心づもりもそのときはあったのだ。
銀座くらいから、わたしと同じく横浜方面を目指す帰宅難民が合流しどんどんうじゃうじゃ増えてきて、国道の両側の歩道は、初詣の川崎大師の三が日みたいになってしまう。
ヘルメットを被り、「非常持出袋」と書かれたオレンジのナップザックを背負ったサラリーマンとOLをかなり見かけた。きっと食料と飲みものが入っているのだろう。
逆流して東京を目指して歩く難民も相当いて、ついには車道の両側の端も歩道状態になってしまう。
あまりの歩道混雑に、時速四キロの速度はとても無理で二キロくらいがやっとである。
国道に連なる車の列は延々と伸びて、可哀相にまったく進めない。きっとこの日、新橋あたりから横浜までの超特大渋滞だったのではないだろうか。
ときおりサイレンを響かせる緊急自動車も抱きすくめられて身動きができない。
(オレが運転手だったら発狂間違いなしだな・・・)
品川から、大混雑の国道を離れて旧東海道の道をとった。
先週の東海道ウォークで痛めて、やっと直りかけた両足の肉刺(まめ)がまたぞろ傷みだす。
品川宿あたりの商店街では、なんと炊き出しをしていた。湯気が出ている鍋からトン汁みたいなものを難民たちに配っていた。
陽が落ちて急激に気温が下がってきたので、なによりのご馳走だ。ありがたいことである。地図を配っているボランティアのかたもいた。
国道沿いのコンビニではどこも、トイレを待つ難民が長蛇の列をつくっている。そろそろ腹が減ってきたのか、飲食店前でも入り口に大勢が行儀よく並んでいる。
用意のいいわたしは、歩き始めに軽く食べて、携帯食料も買っていて準備万端だ。
神奈川県にはいったところくらいで、難民の数がだいぶ減って歩きやすくなってくる。
あれほど元気いい足取りだった難民たちも、そろそろ足にきているようで、あちこちの暗がりで靴を脱いで足を揉んでいる。
歩きやすくなったが、足の肉刺が悲鳴をあげ始めた。
既に七時間歩いている。ときおり目が眩むように感じるのは余震のせいに違いない。
現在位置は川崎あたりである。
途中の学校や公共機関、それに車の販売店などで、帰宅難民たちにトイレを使用させてくれていて、なんとも頭がさがった。
そろそろ鶴見あたりだ。午前一時を廻って、さすがにわたしもトイレにいきたくなってきた。
「どうぞ休んでいってください。トイレもどうぞお使いください」
鶴見区役所の前でやさしく声をかけられ、ふらふらと中に入って小用を足した。一階のロビーは開放されていて、休憩できるようになっていた。
職員とボランティアのひとたちが、いろいろと気にかけてくれて誠に嬉しい限りだ。
(一時半か・・・すこし休むとするか)
もう行程の半分以上(ざっと二十五キロくらいか)は来ている。残りの行程には長い坂も控えているからな。
空いているパイプ椅子をみつけて、座って、靴も抜いで楽になる。
疲れているのだろう、あちこちから、軽いだの軽くなくない鼾が聞こえてくる。
京浜急行がどうやら、始発から運行再開の見込みだと教えてもらったので、それまでコマ切れの浅い睡眠を貪った。
鶴見駅午前五時発、ラッシュの京浜急行の始発に乗りこんだ。
横浜駅手前でJRはいまだ運転再開されていないとの車内アナウンスがあったので、上大岡までいくことに。
上大岡駅で地下鉄に乗り換え、ようやく午前六時前に戸塚駅に帰りついた。
今回の東日本大震災の最初の三陸地震のマグニチュード8.8とは、関東大震災の二十倍の大きさだそうだ。地球の自転の速度が変化するほどの大地震らしい。
史上最大震度の地震に誘発されたように、東北と関東甲信越、広範囲で大地震の同時多発が続く。
翌日になった現在でも一向に止まる気配はない。
地上に出ると、きっと二度と忘れられないであろう昨日からのことが、まるで嘘のような爽やかな青空であった。
→「網張温泉」の記事はこちら
「どうやって帰るんですか」
なんとか歩いて帰れる距離に住んでいる同僚が心配してくれた。
平成23年3月11日午後二時四十六分、それは未曾有の震度7、岩手の三陸沖地震が引き金で始まった。瞬時に「10メートル以上」という途方もない大津波警報が追うように発令された。沿岸各地を大津波が蹂躙し、福島県の相馬では最大波7.3メートルの峻烈な大津波にひと呑みに襲われ、街は壊滅状況となった。
岩手三陸から遥かに離れた東京でも震度5強の地震と、続く同程度の大きな余震で首都圏の鉄道は地下鉄を含めすべて完全にストップしたのだった。運行再開の見通しもたたない。
この地震、わたしが体感した限りでは、あの「岩手・宮城内陸地震」よりよほど大きいものだった。
「このオフィスから住んでいる横浜の戸塚まで、約四十五キロあるからなあ・・・。でも、歩くしか選択肢はないよ」
自宅で待っている猫もきっと心細いはずだ。いや、アイツのことだ、なんで居てくれないのよ、と恨んでいるかもしれない。
「えぇー、それってどのくらい時間掛るんですか」
「うん・・・、ざっと十一時間くらいだね。夕方の五時にここを出れば、休憩時間もちょっと入れて朝方の五時には到着できると思う」
「・・・・・・お気をつけて・・・」
というわけで、午後五時ジャストに清澄を出発した。
“品川あたり、遅くても川崎までには、どこかの私鉄が運転再開するかもしれない”
そういう安易な心づもりもそのときはあったのだ。
銀座くらいから、わたしと同じく横浜方面を目指す帰宅難民が合流しどんどんうじゃうじゃ増えてきて、国道の両側の歩道は、初詣の川崎大師の三が日みたいになってしまう。
ヘルメットを被り、「非常持出袋」と書かれたオレンジのナップザックを背負ったサラリーマンとOLをかなり見かけた。きっと食料と飲みものが入っているのだろう。
逆流して東京を目指して歩く難民も相当いて、ついには車道の両側の端も歩道状態になってしまう。
あまりの歩道混雑に、時速四キロの速度はとても無理で二キロくらいがやっとである。
国道に連なる車の列は延々と伸びて、可哀相にまったく進めない。きっとこの日、新橋あたりから横浜までの超特大渋滞だったのではないだろうか。
ときおりサイレンを響かせる緊急自動車も抱きすくめられて身動きができない。
(オレが運転手だったら発狂間違いなしだな・・・)
品川から、大混雑の国道を離れて旧東海道の道をとった。
先週の東海道ウォークで痛めて、やっと直りかけた両足の肉刺(まめ)がまたぞろ傷みだす。
品川宿あたりの商店街では、なんと炊き出しをしていた。湯気が出ている鍋からトン汁みたいなものを難民たちに配っていた。
陽が落ちて急激に気温が下がってきたので、なによりのご馳走だ。ありがたいことである。地図を配っているボランティアのかたもいた。
国道沿いのコンビニではどこも、トイレを待つ難民が長蛇の列をつくっている。そろそろ腹が減ってきたのか、飲食店前でも入り口に大勢が行儀よく並んでいる。
用意のいいわたしは、歩き始めに軽く食べて、携帯食料も買っていて準備万端だ。
神奈川県にはいったところくらいで、難民の数がだいぶ減って歩きやすくなってくる。
あれほど元気いい足取りだった難民たちも、そろそろ足にきているようで、あちこちの暗がりで靴を脱いで足を揉んでいる。
歩きやすくなったが、足の肉刺が悲鳴をあげ始めた。
既に七時間歩いている。ときおり目が眩むように感じるのは余震のせいに違いない。
現在位置は川崎あたりである。
途中の学校や公共機関、それに車の販売店などで、帰宅難民たちにトイレを使用させてくれていて、なんとも頭がさがった。
そろそろ鶴見あたりだ。午前一時を廻って、さすがにわたしもトイレにいきたくなってきた。
「どうぞ休んでいってください。トイレもどうぞお使いください」
鶴見区役所の前でやさしく声をかけられ、ふらふらと中に入って小用を足した。一階のロビーは開放されていて、休憩できるようになっていた。
職員とボランティアのひとたちが、いろいろと気にかけてくれて誠に嬉しい限りだ。
(一時半か・・・すこし休むとするか)
もう行程の半分以上(ざっと二十五キロくらいか)は来ている。残りの行程には長い坂も控えているからな。
空いているパイプ椅子をみつけて、座って、靴も抜いで楽になる。
疲れているのだろう、あちこちから、軽いだの軽くなくない鼾が聞こえてくる。
京浜急行がどうやら、始発から運行再開の見込みだと教えてもらったので、それまでコマ切れの浅い睡眠を貪った。
鶴見駅午前五時発、ラッシュの京浜急行の始発に乗りこんだ。
横浜駅手前でJRはいまだ運転再開されていないとの車内アナウンスがあったので、上大岡までいくことに。
上大岡駅で地下鉄に乗り換え、ようやく午前六時前に戸塚駅に帰りついた。
今回の東日本大震災の最初の三陸地震のマグニチュード8.8とは、関東大震災の二十倍の大きさだそうだ。地球の自転の速度が変化するほどの大地震らしい。
史上最大震度の地震に誘発されたように、東北と関東甲信越、広範囲で大地震の同時多発が続く。
翌日になった現在でも一向に止まる気配はない。
地上に出ると、きっと二度と忘れられないであろう昨日からのことが、まるで嘘のような爽やかな青空であった。
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