夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

群鯉 菊池容齋筆

2019-05-03 00:01:00 | 掛け軸
テレビ局から本ブログの画像を使用したいと申し込みがありました。以前は本に記載されたり、美術館に展示されたりと作品が見ていただける機会が増えるのは大歓迎です。予定の画像は鯉の作品・・・。

*連休中はまた5月の節句が近く、また令和の新時代に向けて「鯉」の作品を書き溜めていた原稿からいくつか投稿します。
(現在は休暇中・・・)

本日紹介する作品はかれこれ20年以上前に入手した菊池容齋の作品です。本ブログでは渡辺省亭の師として取りあげていましたが、この画家の作品そのものの紹介は初めてとなります。

群鯉 菊池容齋筆
絹本淡彩絹装軸 合箱 
全体サイズ:横1937*縦493 画サイズ:横367*縦1008

 

本作品は晩年の88歳の作品。この年、明治8年(1875年)2月に明治天皇より「日本畫士」の称号を受け、本作品にもその印章を使用しています。これ以降の作品にはこの印章を押印しており、91歳で他界するまでの作品の特徴であり作品数は少ない作品です。



本作品は淡彩で描かれた品格のある作品・・・。翌年の明治10年にフィラデルフィア万博に「躍鯉ノ図」(1875年作)を出品して褒状を受けています。「菊池容斎遺作展覧会図録」掲載と同作時期と思われ、図録は1937年に出版されていますが、その図録には鯉を題材にした「鯉之図」が掲載されています。



もちろん出来、落款、印章から判断して真作と判断されます。表具の状態が少し痛んでいるがこの程度はうぶなままが良いと考えています。



*容斎の作品は以前には席画程度のものを所蔵していましたが、痛みがひどかったこともあり手放しています。菊池容齋の作品は数多くの作品を描いているためか市場にたくさんあります。大和絵復古の趣向が強く、その線の繊細さ故か当方の趣向に合わず今まで紹介していませんでしたし、新たな入手には食指が動きませんでした。

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菊池容齋:(きくち ようさい) 天明8年11月1日(1788年11月28日) ~明治11年(1878年)6月16日)。享年91歳。幕末から明治時代初期にかけての絵師。旧姓は河原。本名は量平または武保、別号に雲水无尽庵など。『前賢故実』の作者として広く知られている。徳川幕府の与力の家に生まれ、狩野派を学んで画家になり、さらに有識故実と大和絵を研究して歴史画に新画風を創め、時代性描写にも特色を持ち込み、多くの遺作がある。広義の復古大和絵派に入る。



補足

幕府西丸の御徒・河原専蔵武吉の次男として、江戸下谷長者町で生まれた。父は菊池家から養子に来た人であったが、系図によると南朝遺臣の菊池武時の後裔であるという。15歳の時に早世した兄に代わって河原家を嗣でいたが、28歳の時に父の生家が断絶し、量平はこの名家が廃されるのを惜しみ、妹に婿養子を迎えて河原家を嗣がせたのち38歳で致仕し、菊池武長の後を継いで菊池家を再興した。菊池武保と名乗るのはそれからである。「容斎」という号は、厳格さのあまり他人を容赦しない自分の性質を戒めるためにつけたという。

幼いときから絵を描くのが好きだったが、画を学ぶことを父から許されなかった。16歳の時に描いた両親の肖像画を見て初めてその伎倆を認められ、許しが出たという。文化2年(1805年)から高田円乗に師事し、狩野派や南蘋風の絵を学ぶ。円乗の死後は師につかず、その教えを守り流派にこだわらずにその長所をとることに努めた。生活は楽ではなかったが、画を認めてくれた旗本・久貝正典の財政援助を得て「阿房宮兵燹の図」「呂后斬戚夫人図」などの大作を描いた。学問上の知己として羽倉簡堂がいる。


 
文政8年(1825年)西丸御徒勤めを辞して作画が本格化したとみられる。文政10年(1827年)から京や大和に5年ほど滞在して円山四条派や土佐派、浮世絵を学び、有職故実や古器物の研究を行う。この成果が職を辞した年から取り掛かり、天保7年(1836年)に完成させた『前賢故実』である。これは10巻より成り、神武天皇の時代から、後亀山朝にいたる日本史を代表する500人を選び、画の上にそれぞれ小伝を加えるか、または詩歌を掲げたものである。この著は容斎の歴史趣味と尊皇愛国の精神を遺憾なく伝えた代表作である。明治元年(1868年)9月に刊行。明治天皇が東京に遷るときにあたって推薦する人があり、右大臣・三条実美と左中将・東久世通禧の働きによって天皇の目に留まり、容斎は天皇より「日本画師」の号を賜られた。一説によると刊行前に孝明天皇に献上され、天皇を動かして和気清麻呂に神号を追贈させるきっかけとなったという。明治7年(1874年)「土佐日記絵巻」2巻を描く。明治10年(1877年)の内国勧業博覧会に出品し、最高の竜紋褒賞を授与された。翌明治11年(1878年)、神田お玉が池の自宅において逝去。

『前賢故実』は明治36年(1903年)、孫の菊池武九によって、有職故実の考証1巻を加えて『考証前賢故実』全11巻として東陽堂から刊行された。『前賢故実』は国家意識の高まりの中で歴史画が盛んに描かれ出すと、そのバイブルとしての役割を果たした。日本画家のみならず、洋画家や生人形師、写真家、果ては講釈師まで参考にしており、その影響力の大きさが伺える。
容斎の門人として、松本楓湖、渡辺省亭、鈴木華邨、三島蕉窓、中島亨斎、小磯崎雪窓などがいる。とりわけ松本楓湖の門からは、速水御舟、今村紫紅、小茂田青樹など、次代を担う画家が輩出された。容斎に私淑していた画家としては、尾形月耕が風俗画で名を成し、梶田半古は弟子に『前賢故実』を書写させ、その中から小林古径や前田青邨といった歴史画家が育っていった。なお、心理学者多湖輝は容斎の子孫にあたる。

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「容斎の門人として、松本楓湖、渡辺省亭、鈴木華邨、三島蕉窓、中島亨斎、小磯崎雪窓などがいます。とりわけ松本楓湖の門からは、速水御舟、今村紫紅、小茂田青樹など、次代を担う画家が輩出されています。容斎に私淑していた画家としては、尾形月耕が風俗画で名を成し、梶田半古は弟子に『前賢故実』を書写させ、その中から小林古径や前田青邨といった歴史画家が育っていきました。」と経歴に記述があるように、近代画家の系譜を育てた指導者的な画家と言えます。

本ブログにて投稿されている「松本楓湖、渡辺省亭、今村紫紅、小茂田青樹」らの画家も名を連ねていますね。


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