当方では古伊万里系統の作品は日常使用するもの以外はあまり食指が動かないのですが、手頃なお値段で良き作品が入手できるようになってきたので、ついつい入手してしまいます。
今回は「金襴手」と称される作品群と思われる作品です。
古伊万里 金襴手小皿七客揃 江戸中期?
高台内銘「大明成化年製」 合古箱
口径135*高台径81*高さ25
古伊万里に金襴手なる作品群が生まれたのは、江戸時代元禄年間とされています。江戸時代元禄年間にて好景気を迎え、経済力を蓄えた町人を中心として元禄文化が発展しますが、贅を好む風潮の中で、色絵を施した豪奢なうつわを求める気運が高まり、そうした需要に応えるように、この頃に伊万里焼に「古伊万里金襴手様式」が成立します。
この色絵と金彩を施したうつわは、高級食器として富裕層の間で大変好まれ、以降、伊万里焼の色絵を代表するものとなります。この頃の食器は実用的ですので、揃いの器が多いものと推定されます。
また、同時期に海外輸出向けにも古伊万里金襴手様式の壺や皿が生産され、西欧の王侯貴族にも食器や室内装飾品として人気を博しました。現在高級美術品としてあるものの多くはこの絵画輸出向けに製作された作品です。
元禄期に作られた古伊万里金襴手様式の中でも最上級品とされるものは、型作りによって形が整っていることや、丁寧な作行きが一定の水準に達しているという意味から「型物」と呼ばれています。
このように18世紀において、国内では高級食器、西欧では食器や室内装飾品として流行した古伊万里金襴手様式ですが、これらは現在では美術品として扱われています。伊万里焼が使用するものから、鑑賞するものへと変化したのは、万国博覧会への参加や既に工芸品を鑑賞していた外国人らの影響を受けた明治時代以降のことでしょう。
*なおこの作品は「なます皿」として売られていましたが、「なます皿」というのは漢字で「膾皿」と書きます。「なます」は生の肉・魚・野菜などをお酢にひたして味付けしたもので日本で最も古い調理法といわれています。お皿の名称になっているほどですから「なます」は古くから食の中心だったのでしょう。
お酢の汁気を受けるために適度の深さをそなえた皿を「なます皿」と称していますが、用途の広い使い勝手のいいお皿の総称です。ちょうどよい大きさと深さであり、一人前のサラダを盛ったり、お刺身を盛ったり、肉じゃがを盛ったり、時には銘々皿として出されたり、取り皿としても使われますが、本作品は一般で使う「なます皿」に対して深さが足りないように思われますので、当方では「小皿」と題しています。
明治時代になると、それまで道具であった様々な工芸品が鑑賞品として評価されるようになります。食器であった伊万里焼にも鑑賞を目的に愛好し蒐集する外国人や日本人があらわれましたが、真っ先にその対象とされたのが古伊万里金襴手様式であり、その手描きによる技法の金襴手の作品は現代まで続いています。ただし明治期や現在の古伊万里金襴手再興の作品群とは一線を画すべきであろうと思います。
*金襴手では一色毎に焼成を繰り返すため最低でも四回以上窯入れを行います。また金を含め、多色を用いるため大変な手間と時間を要します。金襴手様式は陶芸界でも最も困難な様式の一つとされています。
上記の資料は柴田コレクションの図録からのものですが、本作品の高台内の銘「大明成化年製」の書体とその資料の比較から本作品は1800年前後の作ではないかと推定していますが、後世でもこの銘は模倣して描くことも多く定かではありません。
古伊万里の金襴手は大聖寺焼などに伝承されて遺ってきていますが、やはり前述のように当初の元禄期の作品には足元にも及ばないようです。この見極めも難しいかもしれません。李朝も信楽も九谷も古伊万里もそれはそれは奥が深い・・・。
今回は「金襴手」と称される作品群と思われる作品です。
古伊万里 金襴手小皿七客揃 江戸中期?
高台内銘「大明成化年製」 合古箱
口径135*高台径81*高さ25
古伊万里に金襴手なる作品群が生まれたのは、江戸時代元禄年間とされています。江戸時代元禄年間にて好景気を迎え、経済力を蓄えた町人を中心として元禄文化が発展しますが、贅を好む風潮の中で、色絵を施した豪奢なうつわを求める気運が高まり、そうした需要に応えるように、この頃に伊万里焼に「古伊万里金襴手様式」が成立します。
この色絵と金彩を施したうつわは、高級食器として富裕層の間で大変好まれ、以降、伊万里焼の色絵を代表するものとなります。この頃の食器は実用的ですので、揃いの器が多いものと推定されます。
また、同時期に海外輸出向けにも古伊万里金襴手様式の壺や皿が生産され、西欧の王侯貴族にも食器や室内装飾品として人気を博しました。現在高級美術品としてあるものの多くはこの絵画輸出向けに製作された作品です。
元禄期に作られた古伊万里金襴手様式の中でも最上級品とされるものは、型作りによって形が整っていることや、丁寧な作行きが一定の水準に達しているという意味から「型物」と呼ばれています。
このように18世紀において、国内では高級食器、西欧では食器や室内装飾品として流行した古伊万里金襴手様式ですが、これらは現在では美術品として扱われています。伊万里焼が使用するものから、鑑賞するものへと変化したのは、万国博覧会への参加や既に工芸品を鑑賞していた外国人らの影響を受けた明治時代以降のことでしょう。
*なおこの作品は「なます皿」として売られていましたが、「なます皿」というのは漢字で「膾皿」と書きます。「なます」は生の肉・魚・野菜などをお酢にひたして味付けしたもので日本で最も古い調理法といわれています。お皿の名称になっているほどですから「なます」は古くから食の中心だったのでしょう。
お酢の汁気を受けるために適度の深さをそなえた皿を「なます皿」と称していますが、用途の広い使い勝手のいいお皿の総称です。ちょうどよい大きさと深さであり、一人前のサラダを盛ったり、お刺身を盛ったり、肉じゃがを盛ったり、時には銘々皿として出されたり、取り皿としても使われますが、本作品は一般で使う「なます皿」に対して深さが足りないように思われますので、当方では「小皿」と題しています。
明治時代になると、それまで道具であった様々な工芸品が鑑賞品として評価されるようになります。食器であった伊万里焼にも鑑賞を目的に愛好し蒐集する外国人や日本人があらわれましたが、真っ先にその対象とされたのが古伊万里金襴手様式であり、その手描きによる技法の金襴手の作品は現代まで続いています。ただし明治期や現在の古伊万里金襴手再興の作品群とは一線を画すべきであろうと思います。
*金襴手では一色毎に焼成を繰り返すため最低でも四回以上窯入れを行います。また金を含め、多色を用いるため大変な手間と時間を要します。金襴手様式は陶芸界でも最も困難な様式の一つとされています。
上記の資料は柴田コレクションの図録からのものですが、本作品の高台内の銘「大明成化年製」の書体とその資料の比較から本作品は1800年前後の作ではないかと推定していますが、後世でもこの銘は模倣して描くことも多く定かではありません。
古伊万里の金襴手は大聖寺焼などに伝承されて遺ってきていますが、やはり前述のように当初の元禄期の作品には足元にも及ばないようです。この見極めも難しいかもしれません。李朝も信楽も九谷も古伊万里もそれはそれは奥が深い・・・。