先月末には帰宅途中に東京ステーションギャラリーへ立ち寄りました。河鍋暁斎の下絵をメインとした作品の展覧会が開催されているので来館することにしていました。
家内の友人から頂いたチケット・・・。2枚あったのですが家内は出かけられずに小生のみの来館です。
玄人好みの展覧会と思いきや意外に若い人の来館者が多いようです。聞いてみると漫画感覚で若い人に人気のようです。当方では河鍋暁斎の風貌から偏執狂のように描く姿を想像しており、玄人好みの展示かと感じましたが、そうではないようです。
さて本日の作品の紹介です。当方のコレクションには虎なら「大橋翠石」、葡萄なら「天龍道人」、そして鯉なら「黒田稲皐」という嗜好性がどうもありそうです。その「黒田稲皐」の作品を新たに紹介します。本ブログではすでに大幅の作品らが紹介されていますが、今回の作品は手頃な大きさの作品です。
お気に入りの画家 鯉図 黒田稲皐筆 その6
絹本水墨軸装 軸先骨 昭和30年 佐々木邦鑑定箱
全体サイズ:縦2158*横680 画サイズ:縦1200*横480
今まで紹介してきたような大きな作品(他のブログ記事を参照してください)ではありませんが、いい出来の作品だと思います。
本作品には当方の所蔵作品「群鯉図 その3」と同じ印章の香炉印が押印されています。どちらも真印と断定しています。
箱にある鑑定書付はたしかではありませんが、作家であり、英文学者の「佐々木邦」のよるものと思われます。「佐々木邦」の来歴は下記のとおりです。
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佐々木 邦:(ささき くに)1883年(明治16年)5月4日~1964年(昭和39年)9月22日) 。日本の作家、英文学者。弟・順三は立教大学総長。
静岡県駿東郡清水村(現清水町)生。 6歳のとき父(佐々木林蔵)の仕事(明治政府建築技師)で上京、青山学院中等部卒業後、慶應義塾大学予科より明治学院に進み卒業。卒業後、釜山の商業学校教諭、第六高等学校(岡山)教授、慶應義塾大学教授、明治学院高等学部講師(一時離職後、戦後明治学院大学教授として復職)を歴任、英語と英文学を教えた。
1936年、辰野九紫らとともにユーモア作家倶楽部を結成、
1937年11月より機関誌「ユーモアクラブ」を創刊しユーモア文学の発展に尽力する。国際マーク・トウェイン協会名誉会員。
1961年児童文化功労者。
1962年紫綬褒章。81歳で心筋梗塞のために死去。
日本のユーモア小説の先駆けにして第一人者。学生時代より、夏目漱石、マーク・トウェイン、ジェローム・K・ジェローム等の欧米のユーモア作家に影響され、多数執筆。
その作風は、良識に裏打ちされたユーモアに富み、昭和初期のサラリーマン階級を舞台に、家庭的な笑いに焦点を当てている。そのうち18作品は映画化されている。1974年に講談社から15巻の佐々木邦全集が出版された。
會田雄次は彼を評して、「佐々木邦氏は、もし日本語という言葉の障壁がなかったら、世界でもっとも知られたユーモア作家の一人になっていただろう。」と書いています。
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黒田稲皐の描く鯉の作品は意外に贋作が多く、その真贋の判定の根拠に鯉の鱗の描き方があります。真作の鯉に鱗はジグソーパズルをはめこんだような描き方をするのが特徴だそうですが、贋作では鱗は重なり合って描かれていたり、また鱗の一枚一枚については、贋作の多くが鱗の根本が黒く先端が白く描かれている作品が多く、その対比がはっきりしすぎている傾向にあるようです。本来の黒田稲皐の鱗はもっと微妙な変化をしています。
すべての作品ではありませんが、主題の一匹の鯉のみ詳細に描かれ、他の鯉の鱗は簡略化されて描かれています。
群鯉などの作品は面白い表情をした鯉が一匹隠れたように描かれていることもあります。これは群鯉を描いた大作に多いようです。また鯉一匹一匹に生き生きとしたユーモアある表情が読み取れます。
日本のユーモア小説の先駆けにして第一人者である佐々木 邦氏が所蔵していたとしたら、さもありなんということでしょうか?
黒田稲皐の鯉の顔は一匹ずつに違いがあり、人の表情を観ているようで実に見ごたえのあるものです。
ただ黒田稲皐の作品は、鯉以外を描いた作品には秀作があまりないように思われます。これは画家としてある意味で致命的ですね。
あらためて黒田稲皐の画歴は下記に記述したとおりです。
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黒田 稲皐:(くろだ とうこう、天明7年(1787年) - 弘化3年11月6日(1846年12月23日))。江戸時代後期の絵師、鳥取藩士。本姓は林。名は文祥。通称は六之丞。字は叔奎か。号ははじめ稲葉、のち稲皐。
鳥取藩士・林源三郎の弟として生まれる。文化4年(1807年)から9年(1812年)の間に鳥取新田藩(東館藩)池田家の家臣・黒田家に養子に入る。藩主池田仲雅の近習となり、しばしば江戸へ赴き公務を勤めた。
幼少の頃から画を好み、藩絵師土方稲嶺に写生画法を学んだ。稲嶺は病の床で稲皐を枕元に呼び寄せ、「我が門流中、相当の技量ある者のみ、画号に稲字を冠せしめよ」とかたったとされ(『鳥取藩史』)、師の信頼が厚かったのを見て取れる。
また、弓馬、刀槍、水練などの武芸にも長じ、落款には「弓馬余興」の印をしばしば用いた。更に「因州臣」「因藩臣」と入った作もあり、これらは、自分はあくまで武士であり絵は余興にすぎないという稲皐の矜持を表している。
当主仲雅の没後は役務を退いて画業に専念した。家には鷹を飼い、池には鯉を放って、その飛翔遊泳を観察して写生した。人物、花卉、禽獣いずれも巧みであったが、特に鯉の絵にすぐれ、「鯉の稲皐」と呼ばれた。
弘化3年(1846年)11月6日死去。60歳。墓は鳥取市玄忠寺にある。跡は甥の黒田稲観が継ぎ山水画を得意としたが、稲観は33歳で亡くなった。他の弟子に小畑稲升がおり、稲皐の墓前には稲升が寄進した水盤石が置かれている。
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「当主仲雅の没後は役務を退いて画業に専念した。家には鷹を飼い、池には鯉を放って、その飛翔遊泳を観察して写生した。」とあるように、本作品は晩年の佳作か?
虎なら「大橋翠石」、葡萄なら「天龍道人」、そして鯉なら「黒田稲皐」という当方の嗜好性もだんだん市場に出る秀作の数が少なくなり、蒐集が難しくなっています。ほとんどの作品が市場に新たに出てくる作品ですので、情報のアンテナと真贋への嗅覚を持ち合わせていないと入手できないようです。
本作品は展示室への渡り廊下の階段正面に飾っているので、展示室へ行く際には否応なしに目に入ります。実にいい出来・・。
家内の友人から頂いたチケット・・・。2枚あったのですが家内は出かけられずに小生のみの来館です。
玄人好みの展覧会と思いきや意外に若い人の来館者が多いようです。聞いてみると漫画感覚で若い人に人気のようです。当方では河鍋暁斎の風貌から偏執狂のように描く姿を想像しており、玄人好みの展示かと感じましたが、そうではないようです。
さて本日の作品の紹介です。当方のコレクションには虎なら「大橋翠石」、葡萄なら「天龍道人」、そして鯉なら「黒田稲皐」という嗜好性がどうもありそうです。その「黒田稲皐」の作品を新たに紹介します。本ブログではすでに大幅の作品らが紹介されていますが、今回の作品は手頃な大きさの作品です。
お気に入りの画家 鯉図 黒田稲皐筆 その6
絹本水墨軸装 軸先骨 昭和30年 佐々木邦鑑定箱
全体サイズ:縦2158*横680 画サイズ:縦1200*横480
今まで紹介してきたような大きな作品(他のブログ記事を参照してください)ではありませんが、いい出来の作品だと思います。
本作品には当方の所蔵作品「群鯉図 その3」と同じ印章の香炉印が押印されています。どちらも真印と断定しています。
箱にある鑑定書付はたしかではありませんが、作家であり、英文学者の「佐々木邦」のよるものと思われます。「佐々木邦」の来歴は下記のとおりです。
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佐々木 邦:(ささき くに)1883年(明治16年)5月4日~1964年(昭和39年)9月22日) 。日本の作家、英文学者。弟・順三は立教大学総長。
静岡県駿東郡清水村(現清水町)生。 6歳のとき父(佐々木林蔵)の仕事(明治政府建築技師)で上京、青山学院中等部卒業後、慶應義塾大学予科より明治学院に進み卒業。卒業後、釜山の商業学校教諭、第六高等学校(岡山)教授、慶應義塾大学教授、明治学院高等学部講師(一時離職後、戦後明治学院大学教授として復職)を歴任、英語と英文学を教えた。
1936年、辰野九紫らとともにユーモア作家倶楽部を結成、
1937年11月より機関誌「ユーモアクラブ」を創刊しユーモア文学の発展に尽力する。国際マーク・トウェイン協会名誉会員。
1961年児童文化功労者。
1962年紫綬褒章。81歳で心筋梗塞のために死去。
日本のユーモア小説の先駆けにして第一人者。学生時代より、夏目漱石、マーク・トウェイン、ジェローム・K・ジェローム等の欧米のユーモア作家に影響され、多数執筆。
その作風は、良識に裏打ちされたユーモアに富み、昭和初期のサラリーマン階級を舞台に、家庭的な笑いに焦点を当てている。そのうち18作品は映画化されている。1974年に講談社から15巻の佐々木邦全集が出版された。
會田雄次は彼を評して、「佐々木邦氏は、もし日本語という言葉の障壁がなかったら、世界でもっとも知られたユーモア作家の一人になっていただろう。」と書いています。
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黒田稲皐の描く鯉の作品は意外に贋作が多く、その真贋の判定の根拠に鯉の鱗の描き方があります。真作の鯉に鱗はジグソーパズルをはめこんだような描き方をするのが特徴だそうですが、贋作では鱗は重なり合って描かれていたり、また鱗の一枚一枚については、贋作の多くが鱗の根本が黒く先端が白く描かれている作品が多く、その対比がはっきりしすぎている傾向にあるようです。本来の黒田稲皐の鱗はもっと微妙な変化をしています。
すべての作品ではありませんが、主題の一匹の鯉のみ詳細に描かれ、他の鯉の鱗は簡略化されて描かれています。
群鯉などの作品は面白い表情をした鯉が一匹隠れたように描かれていることもあります。これは群鯉を描いた大作に多いようです。また鯉一匹一匹に生き生きとしたユーモアある表情が読み取れます。
日本のユーモア小説の先駆けにして第一人者である佐々木 邦氏が所蔵していたとしたら、さもありなんということでしょうか?
黒田稲皐の鯉の顔は一匹ずつに違いがあり、人の表情を観ているようで実に見ごたえのあるものです。
ただ黒田稲皐の作品は、鯉以外を描いた作品には秀作があまりないように思われます。これは画家としてある意味で致命的ですね。
あらためて黒田稲皐の画歴は下記に記述したとおりです。
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黒田 稲皐:(くろだ とうこう、天明7年(1787年) - 弘化3年11月6日(1846年12月23日))。江戸時代後期の絵師、鳥取藩士。本姓は林。名は文祥。通称は六之丞。字は叔奎か。号ははじめ稲葉、のち稲皐。
鳥取藩士・林源三郎の弟として生まれる。文化4年(1807年)から9年(1812年)の間に鳥取新田藩(東館藩)池田家の家臣・黒田家に養子に入る。藩主池田仲雅の近習となり、しばしば江戸へ赴き公務を勤めた。
幼少の頃から画を好み、藩絵師土方稲嶺に写生画法を学んだ。稲嶺は病の床で稲皐を枕元に呼び寄せ、「我が門流中、相当の技量ある者のみ、画号に稲字を冠せしめよ」とかたったとされ(『鳥取藩史』)、師の信頼が厚かったのを見て取れる。
また、弓馬、刀槍、水練などの武芸にも長じ、落款には「弓馬余興」の印をしばしば用いた。更に「因州臣」「因藩臣」と入った作もあり、これらは、自分はあくまで武士であり絵は余興にすぎないという稲皐の矜持を表している。
当主仲雅の没後は役務を退いて画業に専念した。家には鷹を飼い、池には鯉を放って、その飛翔遊泳を観察して写生した。人物、花卉、禽獣いずれも巧みであったが、特に鯉の絵にすぐれ、「鯉の稲皐」と呼ばれた。
弘化3年(1846年)11月6日死去。60歳。墓は鳥取市玄忠寺にある。跡は甥の黒田稲観が継ぎ山水画を得意としたが、稲観は33歳で亡くなった。他の弟子に小畑稲升がおり、稲皐の墓前には稲升が寄進した水盤石が置かれている。
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「当主仲雅の没後は役務を退いて画業に専念した。家には鷹を飼い、池には鯉を放って、その飛翔遊泳を観察して写生した。」とあるように、本作品は晩年の佳作か?
虎なら「大橋翠石」、葡萄なら「天龍道人」、そして鯉なら「黒田稲皐」という当方の嗜好性もだんだん市場に出る秀作の数が少なくなり、蒐集が難しくなっています。ほとんどの作品が市場に新たに出てくる作品ですので、情報のアンテナと真贋への嗅覚を持ち合わせていないと入手できないようです。
本作品は展示室への渡り廊下の階段正面に飾っているので、展示室へ行く際には否応なしに目に入ります。実にいい出来・・。