夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

遺した作品 神功大皇像 不深?筆(詳細不明)

2021-02-06 00:01:00 | 掛け軸
年始は初詣ができなかったので、先週末には散歩がてらに近くの八幡様へ家族で詣でました。



ちょっとした時間で終わるはずの散歩が、道すがらの公園のたびに息子が遊ぶので2時間近くかかりました。



さて年末から正月にかけて、不要と思われる掛け軸や額の作品を処分しました。家内や息子に「多すぎ! 要らないものは処分しなさい!!」と非難轟々に耐え切れず・・。売りに出すのも労力を費やすので処分と相成りますが、一応は再度見直してからとなり、時間と手間のかかる作業となりました。



それでも「これは?」と思う作品があり、再度屋根裏から収納庫へ戻る作品もあります。本日紹介する作品はそのひとつですが、作者不詳ということもあり、お蔵入りの作品の予定の作品でしたが、年初めは神々を奉る時期でもあり、本作品は遺す作品に分類しました。



神功大皇像 不深?筆(詳細不明)
絹本水墨着色軸装 絹装軸 軸先骨 共箱
全体サイズ:横654*縦2148 画サイズ:横502*縦1210

 

描かれているのは「神功皇后」です。伝説の人物とされていることが多いのでしょうが、伝承地の数が多いことなどから実在説もあります。明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていたようで、現在では実在説と非実在説が並存しているとされています。

「神功皇后」についての記述は下記のとおりです。

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神功皇后:(じんぐうこうごう)成務天皇40年 ~ 神功皇后69年4月17日。日本書紀によると170~269年か?

日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされています。(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)



父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は葛城高顙媛。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫がいます。

仲哀天皇2年、1月に立后。天皇の熊襲征伐に随伴しています。なんとも勇ましい女帝です。

仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成しました。
同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させています(三韓征伐)。
同年12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。
翌年、誉田別尊の異母兄である香坂皇子、忍熊皇子を退けて凱旋帰国。

事実上皇太后摂政とし、誉田別尊を太子としています。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれています。

明治時代までは一部史書で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていましたが、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外されています。摂政69年目に崩御しています。

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今話題の女帝(女性天皇?)・・・。「神功皇后」(じんぐうこうごう)は卑弥呼(ひみこ)と並び、古代日本の象徴的なヒロインのひとりであり、古代日本における女将軍の象徴とも言えるのでしょう。 切手や紙幣にも肖像となっています。



軍功については下記の記述があります。

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熊襲征伐​とは

仲哀天皇2年1月11日に立后。2月、天皇と共に角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。
3月、天皇が紀伊国の德勒津宮(ところつのみや)に向かうが皇后は角鹿に留まる。
同月、天皇が熊襲再叛の報を聞き親征開始。穴門で落ち合うよう連絡を受ける。
7月、穴門豊浦宮で天皇と合流。
仲哀天皇8年、天皇と共に筑紫橿日宮へ移動して神託を行い神懸った。託宣の内容は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものだった。天皇はこの神を信じず熊襲を攻めたが空しく敗走。
翌年〔仲哀天皇9年〕2月に天皇が橿日宮(現・香椎宮)にて急死。『日本書紀』内の異伝や『天書紀』では熊襲の矢が当たったという。

仲哀天皇9年3月1日、小山田邑の斎宮で武内宿禰を審神者として再び神託を行い、前年に託宣した神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)、事代主神、住吉三神などであることを確認した。しかしひとまずは目の前の熊襲征伐を続行することとなり吉備鴨別を派遣して熊襲を従わせた。3月17日、皇后自ら松峽宮(福岡県筑前町)に移動し、20日に層増岐野(そそきの)で羽白熊鷲という者を討った。そばの人に「熊鷲を取って心が安らかになった」と言われたので、そこを安(夜須)という。

3月25日には筑後川下流域の山門県に移動して田油津媛という女酋を討ちとり、兄の夏羽は戦わずして逃げ出した。この女酋田油津姫は邪馬台国女王の末裔とする説もある。いずれにせよ最後まで抵抗していた九州北部もヤマト王権の支配下になり、ここにヤマト王権の全国制覇が完了したとされる。

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要は当時の天皇が失敗した九州北部討伐を成し遂げ、全国制覇したということのようです。



次に「海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させた。」という点は下記の記述があります。

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三韓征伐​とは

仲哀天皇9年4月、松浦郡で誓約(うけい)を行った皇后は渡海遠征の成功を確信し、神田を作ったのちに橿日宮へ戻った。そして角髪を結って男装すると渡海遠征の全責任を負うことを宣言した。9月には(筑紫夜須)にて大三輪神を祀り矛と刀を奉し船と兵を集めた。また草という海人を派遣して新羅までの道を確かめさせた。さらに軍規を定めて略奪、婦女暴行、敵前逃亡などを禁じ、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)に航海の無事を祈らせた。

10月、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。その勢いは船が山に登らんばかりだったという。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服し朝貢することを誓った。皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、また王宮の門に矛を突き立てて宗主権を誇示した。新羅王の波沙寐錦(はさ むきん)は微叱己知(みしこち)という王族を人質に差し出し、さらに金・銀・絹を献上した。これを見た高句麗・百済も朝貢を約束した。

帰国した後の12月14日、皇后は筑紫で誉田別尊を出産した。出産した土地を「生み」から転じて「宇美」という。そして穴門の山田邑で住吉三神を祀った。

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妊娠中にも関わらず、朝鮮半島に出兵し、和議をとりつけたということらしい。

住吉三神とともに住吉大神の1柱として、また応神天皇とともに八幡三神の1柱(祭神)として信仰されています。武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、数多くの武人が神功皇后を崇拝していたそうです。有名なのが八幡太郎こと源義家でしょう。

また八幡神と同じく、その言い伝えは九州はもとより関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社、瀬戸内海を挟んで広島や岡山、四国と、日本中に数多く存在しています。今でも全国各地で神功皇后の三韓征伐を祝うための山車が存在しており、その業績をたたえる祭りが多い。

大分県の宇佐神宮、大阪府大阪市の住吉大社をはじめ、福岡県福津市の宮地嶽神社、福岡県大川市の風浪宮、京都市伏見区の御香宮神社など、いくつかの神社の祭神となっている。所縁ある福岡市の香椎宮や筥崎宮、福岡県宇美町の宇美八幡宮、壱岐市の聖母宮でも祀られています。



武功としてはさらには下記の戦いがあったようです。

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忍熊王との戦い​とは

新羅を討った翌年〔仲哀天皇10年〕2月、皇后は群臣を引き連れて穴門豊浦宮に移り天皇の殯を行った。そして畿内への帰途についた。しかし都には天皇の長男、次男である麛坂王、忍熊王がいた。彼らは誉田別尊の誕生を知り、皇后たちがこの赤子を君主(天皇、あるいは太子)に推し立ててくることを察した。そこで播磨の赤石に父の山陵を作ると称して挙兵、五十狹茅宿禰(いさちのすくね)に命じて東国から兵を集めさせた。そして菟餓野というところで「戦いに勝てるならば良い猪が捕れる」と誓約(うけい)の狩りを行った。ところが突然現れた獰猛な赤い猪に麛坂王は食い殺されてしまった。凶兆と理解した忍熊王は住吉まで撤退した。

忍熊王たちが待ち受けていることを知った皇后は、一旦紀伊に寄って誉田別尊を預けて北上。しかし紀淡海峡を突破できなかったため明石海峡を回って務古水門に到着。道中で天照大神、稚日女尊、事代主神、住吉三神を祀った後に進撃。忍熊王はまた撤退して山背の菟道に陣を敷き、ここが決戦の場となった。

皇后軍を率いる武内宿禰や武振熊命は一計を案じて偽りの和睦を申し出た。兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせると武内宿禰は再び号令し、兵に替えの弦と剣を取り出させた。予備の兵器など用意していなかった忍熊王は敗走した。武内宿禰は逢坂山を超えて狹々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追撃した。

忍熊王と五十狹茅宿禰は共に瀬田川へ入水し、遺体は後日になって引き上げられた。同年10月、皇后は群臣に皇太后と認められた。この年が摂政元年(若井敏明によると西暦368年に比定)である。摂政2年11月8日、天皇を河内国長野陵に葬った。摂政3年1月3日、誉田別尊を太子とし、磐余若桜宮に遷都。摂政13年、2月に太子が武内宿禰に連れられて角鹿の笥飯大神に参拝。笥飯宮出発から始まった皇太后の遠征事業はここに終わり、酒宴が催された。

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なお「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝しています。



さらには新羅への再征というのもあります。

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ついでに新羅再征​とは

摂政5年3月7日、本国に一時帰国したいという微叱己知(新羅からの人質)の願いを聞き入れて葛城襲津彦を監視に付けるも逃がしてしまう。摂政46年3月、斯摩宿禰を朝鮮半島の卓淳国(大邱)に派遣。斯摩宿禰はさらに百済へ使者を送り、百済から日本への道を繋いだ。翌年4月、新羅と百済が朝貢してきた。百済の貢物が酷くみすぼらしいので使者の久氐を問い詰めたところ、新羅に貢物を奪われたと訴えた。

摂政49年、新羅を再征伐することになった。将軍として派遣された荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)は百済の木羅斤資(もくらこんし)・沙々奴跪(ささなこ)と共に七つの国を平定した。以後、摂政52年まで久氐が日本と百済を往復し、百済から宝物をもたらした。摂政62年、新羅が朝貢してこないので葛城襲津彦に征伐させる。摂政69年、4月に崩御。

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戦いに明け暮れた人生??



本作品は下記の写真にある共箱に収められていますが、「不深?」という作者については残念ながら不明です。

  

神は自然に近いほうがお似合いのようなので、この作品は男の隠れ家にお似合いかな? 






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