樓臺朝陽図 野田九浦筆
絹本着色軸装共箱
古くから私の家にある作品です。秋田出身の寺崎廣業の弟子であるため、秋田にも所縁が深い画家であることから、秋田で所蔵されている御仁も多いとか・・・
峡谷上帆 野田九浦筆
紙本淡彩 軸装 共箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横
「峡谷上帆」は最近、手に入れた作品で1万円しなかったと思います。河を帆をあげて滝を見ながら、上りゆく雄大さがお気に入りです
野田九甫について御存知の方は少なくなりました。
先日、野田九甫の作品がテレビ番組のなんでも鑑定団に出品され、鑑定を受けていました。
お~そういえばあったな~と思い、野田九甫を取り上げてみました。
上村松園展のあった近代美術館の上階に「辻説法」が展示され提案したね
「なんでも鑑定団」に出品されて作品は、破れていたこともあり、7万円の評価でした。破れていなければ10万円だそうです。あくまでも売値です・・彼らも商売ですからね。
所蔵品を売るとなると二束三文ですよ
しかも共箱(共箱はなにかは覚えましたか)・・であることがこの評価の前提とのことです。
「明治以降の日本画の流れには二つの大きな流れがあり、ひとつは文部省の文展、いまひとつは横山大観らが興した日本美術院です。
野田九甫は文展でしっかりとした絵を出品した画家ですが、その後日本美術院が日本画の主流となり、文展系統の画家は今では非常に評価が低いとのことです。それに、野田九甫は非常の作品の数が多いため、評価金額は低くならざるえない」との解説でした。
有名な作品である「辻説法」にも見られますように、しっかりとした画力がありますが、多作ゆえそれほどとも思えない作品も多々あり、評価を落としているようです。
安い値段でいい作品が手に入れることもできる画家の一人とも言えますね
野田九甫:明治12年12月22日、東京下谷生れ。本名道三。
父の転勤で幼少期を函館で過ごす。28年寺崎広業に伴われ上京、その画塾に学び、29年東京美術学校日本画家選科に入学するが、31年美術学校騒動により師とともに退学、創立された日本美術院の研究生となる。
また町田曲江と白馬会研究所で黒田清輝に洋画を学び、渡欧をめざしてフランス語を習い、正岡子規について俳句を学ぶ。40年大阪朝日新聞社に入社(大正6年退社)、夏目漱石の小説「坑夫」の挿絵を制作する。
文展・帝展などで受賞多数。煌土社創設、日本画院同人、帝国芸術院会員、日展運営会常務理事、(社)日展顧問、金沢市立美術工芸学校教授(のち名誉教授)。歴史人物画に秀作を残す。昭和46年11月2日、東京武蔵野で没。享年91。
絹本着色軸装共箱
古くから私の家にある作品です。秋田出身の寺崎廣業の弟子であるため、秋田にも所縁が深い画家であることから、秋田で所蔵されている御仁も多いとか・・・
峡谷上帆 野田九浦筆
紙本淡彩 軸装 共箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横
「峡谷上帆」は最近、手に入れた作品で1万円しなかったと思います。河を帆をあげて滝を見ながら、上りゆく雄大さがお気に入りです
野田九甫について御存知の方は少なくなりました。
先日、野田九甫の作品がテレビ番組のなんでも鑑定団に出品され、鑑定を受けていました。
お~そういえばあったな~と思い、野田九甫を取り上げてみました。
上村松園展のあった近代美術館の上階に「辻説法」が展示され提案したね
「なんでも鑑定団」に出品されて作品は、破れていたこともあり、7万円の評価でした。破れていなければ10万円だそうです。あくまでも売値です・・彼らも商売ですからね。
所蔵品を売るとなると二束三文ですよ
しかも共箱(共箱はなにかは覚えましたか)・・であることがこの評価の前提とのことです。
「明治以降の日本画の流れには二つの大きな流れがあり、ひとつは文部省の文展、いまひとつは横山大観らが興した日本美術院です。
野田九甫は文展でしっかりとした絵を出品した画家ですが、その後日本美術院が日本画の主流となり、文展系統の画家は今では非常に評価が低いとのことです。それに、野田九甫は非常の作品の数が多いため、評価金額は低くならざるえない」との解説でした。
有名な作品である「辻説法」にも見られますように、しっかりとした画力がありますが、多作ゆえそれほどとも思えない作品も多々あり、評価を落としているようです。
安い値段でいい作品が手に入れることもできる画家の一人とも言えますね
野田九甫:明治12年12月22日、東京下谷生れ。本名道三。
父の転勤で幼少期を函館で過ごす。28年寺崎広業に伴われ上京、その画塾に学び、29年東京美術学校日本画家選科に入学するが、31年美術学校騒動により師とともに退学、創立された日本美術院の研究生となる。
また町田曲江と白馬会研究所で黒田清輝に洋画を学び、渡欧をめざしてフランス語を習い、正岡子規について俳句を学ぶ。40年大阪朝日新聞社に入社(大正6年退社)、夏目漱石の小説「坑夫」の挿絵を制作する。
文展・帝展などで受賞多数。煌土社創設、日本画院同人、帝国芸術院会員、日展運営会常務理事、(社)日展顧問、金沢市立美術工芸学校教授(のち名誉教授)。歴史人物画に秀作を残す。昭和46年11月2日、東京武蔵野で没。享年91。
滝の乙女号?に乗り、滝壺でずぶ濡れになりながら壮大さを経験しました。
しかしながら、日本の滝には荘厳さがあるなあ!とあらためて日本のワビサビを再認識したのを覚えています。