明治35年頃(29歳頃)に描いた作品 彭祖図 川合玉堂筆 その9
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦1900*横536 画サイズ:縦1080*横408
題材としているのは「彭祖」という仙人のようです。
彭祖:(ホウソ、拼音:Péng Zǔ)は、中国の神話の中で長寿の仙人であり、伝説の中では南極老人の化身とされており、八百歳の寿命を保ったことで有名です。姓は彭で、名は翦であり、籛鏗ともいうそうです。
これ以上の彭祖についての記述は面倒なようですが、彭祖の歴史上の影響は甚だ大きいかったようで、孔子は彼を大変尊敬していたとされます。荘子、荀子、呂不韋などの先秦の思想家にはみな、彭祖に関する記述があります。『史記』などの史書にも、彼に関する記載があります。道家はさらに、彭祖を道家の先駆者の一人として奉っています。
あまたの道家の典籍には彭祖の養生論を保存しているようで、晋代の医学家葛洪が撰述した『神仙伝』の中には、特別に彭祖の伝記を記しています。
そこには、以下のような記述があります。「当時の君主が人を派遣して、彼に道を求めてきた。彼が言うには、「私は、遺腹の子として生まれ、三歳で母を失った。犬戎の乱に遭い、西域を流離すること、百余年であった。少し枯れてきた
が、四十九人の妻を失い、五十四人の子供を失い、しばしば憂患に遭遇し、気を和らげ、傷を折っしてきた。栄衛焦枯、世を渡るのを恐れている。聞いている所は浅薄なので、お教えする程ではありません。」・・・・四十九人の妻を失い、五十四人の子供を失い・・・・????
さて作品中に描かれた童子は何をしているのでしょうか?
この題材は(菊)慈童を描いた作品のようです。慈童については本ブログで幾点かの作品の中で紹介していますが、慈童は古代中国、周の穆王に仕えた童子であり、ある時、皇帝の枕をまたぐ過ちを犯し、死刑は免れたが流罪に処され、酈縣山に捨てられてしまいます。穆王は慈童を憐れみ、密かに法華経の二句の偈を書いた枕を託し、毎朝、偈を唱えて礼拝するように教導しますが、慈童が忘れないように菊の葉に偈を写すと、葉の露が霊薬となり、飲んだ慈童は仙人となって八百余年も不老長寿を保ったとされます。慈童は魏の文帝の時代に「彭祖(ほうそ)」と名を改め、長寿の術を帝に伝え、菊の盃を受け継いだ帝は万年の長寿を祝った。これが今の重陽の宴とされます。
詳細については下記のような記述があります。
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中国、魏の文帝の治世に、酈縣山(れっけんざん/てっけんざん)の麓から霊水が湧き出たため、その源流を探るべく、勅使一行が派遣されました。勅使は山中に一軒の庵を見つけます。周辺を散策して様子を窺っていると、庵から、一人の風変わりな少年が現れました。勅使が怪しみ名を尋ねると、少年は、自分は慈童という者で、周の穆王(ぼくおう)に仕えたと教えます。周の穆王と言えば、七百年もの昔の時代です。勅使がますます怪しんで、化け物だろうと問い詰めると、慈童は、皇帝より直筆の二句(四句)の偈(経典の言葉)が入った枕を賜ったと言い、それを証拠として見せました。勅使もその有難さに感銘を受け、二人でその言葉を唱え味わうのでした。慈童は、自分が二句(四句)の偈を菊の葉に写したところ、そこに結ぶ露が不老不死の霊水となり、それを飲み続けたから七百歳にもなったのだと語り、喜びの楽を舞います。慈童は、その露の滴りが谷に淵を作り、霊水が湧いていると述べ、勅使らとともに霊水を酒として酌み交わします。そして帝に長寿を捧げ、末永い繁栄を祈念して、慈童は山中の仙家に帰っていきました。
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つまりこの作品は慈童(のちの彭祖)が法華経の偈を菊の葉にまさに今写そうとしているところで、そこに結ぶ露が不老不死の霊水となるようです。
箱書の落款や印章は下記の写真のとおりです。
作品中の落款からは明治35年頃(29歳頃)に描いた作品と推察されます。
若い頃の川合玉堂の画歴は下記のとおりです。
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愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町外割田)にて、1873年(明治6年)11月24日、筆墨紙商の長男として生まれる。
1881年(明治14年)、一家は岐阜市に移住する。絵には12歳頃から親しむようになったという。
1886年(明治19年)、京都の画家・青木泉橋が岐阜に来住すると、夫人も翠蘋と号する美人画家で、芳三郎(川合玉堂の本名)少年は青木夫妻の知遇を得て大いに刺激を受けたという。
1887年(明治20年)・14歳を迎える年の9月、青木泉橋の紹介状を持って京都に上り、四条派・望月玉泉の門に入り、「玉舟」の号を得る。
1890年(明治23年)11月になると円山派・幸野楳嶺の画塾「大成義会」に入る。同年、『春渓群猿図』『秋渓群鹿図』の連作を第3回内国勧業博覧会に出品して早くも入選を果たすと、これを機に「玉堂」に改号した。
1896年(明治29年)・23歳の時に上京して(東京へ移住して)橋本雅邦に師事する。岡倉覚三(天心)、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院には1898年(明治31年)当初より参加。1900年(明治33年)頃からは私塾「長流画塾」を主宰している
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資料からのこの頃の落款と印章は下記の写真のとおりです。
さらに箱書の落款からは大正2年頃に箱書したものと推定されます。このように川合玉堂の作品には自ら「旧作」と題して若い頃の作品に箱書している作品が多々あります。
1907年(明治40年)には第1回文展の審査員に任命され、また、1915年(大正4年)からは東京美術学校日本画科教授、1917年(大正6年)6月11日には帝室技芸員に任じられ、日本画壇の中心的存在の一人となっていきます。
箱書した頃の大正初期の落款と印章は資料からは下記のとおりです。
若い時の作品については比較的に遺っている作品数は多いようで、そのため評価はそれほどは高くないようですが、それでも川合玉堂の作・・・。
100年以上経過した作品ですので、表具の上下の天地部分が痛んでいますので、改装のメンテをしようと思っています。
追記:改装後 2024年10月改装完了
1.染み抜き・改装(洗い程度か?) 添付の軸先を使用
2.現状箱使用+紙タトウ 改装費用:¥36,000