本日は家内が好きな画家であり、我が郷里出身の画家の倉田松濤の2作品の紹介です。「濯足図 倉田松濤筆 その43」は家内からとくに欲しいと要望がありました。
濯足図 倉田松濤筆 その43
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横460*縦2100 画サイズ:横325*縦1325
一体何を描いているのでしょう。達磨の親子? 川で足を洗っている??
濯纓濯足(たくえい-たくそく)という語句があります。その意味は「世の中の流れに合わせて身の振り方を変えること。または、善い行いをすれば尊ばれ、悪い行いをすれば蔑まれるということのたとえ。または、世俗を超越すること。「纓」は冠の紐。 水が綺麗なら冠の紐を洗い、水が汚れていれば足を洗うという意味から」ということのようです。
「濯足万里流」という語句もあるようです。
「足を万里の流れに濯ぐ 広大でゆったりと流れるな川で足を洗いすすぐということから、俗世から離れて心身を清めるということです。人は心身ともに環境に感化されやすいです。広大な海や雄大な川の流れ、高いところから眼下を見下ろせば心も洗われ気分一新、志も高くなるものです。本物や良いものに触れたり接することは大事です。忙しい時間に追われる中でも、ちょっと外に出て、近所で流れている川を見る余裕を持ちたいものです。」ということらしい・・・。
「振衣千仞岡濯足萬里流」というのは「衣を振る 千仞の岡に 足を濯ぐ 萬里の流れに」という漢詩の一説のようです。
その漢詩全体は下記のもののようです。
詠史詩 八首之五 西晉 左思
皓天舒白日 靈景耀神州 明るい空に輝く白日を掲げ出し 陽光は神州の大地に輝く。
列宅紫宮裏 飛宇若雲浮 皇宮には、建物が連なり並んでいる 高い屋根は、大空に浮かんでいる雲のようだ
峨峨高門内 靄靄皆王侯 高く聳える門の内らに 奥深い気配の立ちこめたところにいる王侯貴族達
自非攀龍客 何爲來游 自分は、皇帝に取り入って出世しようとする者ではない 突然にどうしてやって来たのかというと
被褐出闔 高歩追許由 粗末な着物を着て城門を出て 箕山に隠れたという許由を慕って高らかに後を追いかけたい
振衣千仞岡 濯足萬里流 千仞の高い山で俗塵を払い落とし 俗世間で附いた足の穢れを長い川の流れで洗う
大正の初めに倉田松濤は上京し牛込横寺町の新居を構え、近所に住んでいた尾崎紅葉らと親交がありました。また禅宗の曹洞宗に熱心であり、これは当方と宗派同じです。この作品は「游戯三昧」ということから漢詩の意図を達磨の親子にてあらわした俳画ということしょうか?
ともかく当時の画人というのは学識が豊富だったようですね。現代の画家とは学識の豊富さが違います。
あらためて倉田松濤の略歴は下記のとおりです。
************************************************
倉田松濤:明治~大正期の日本画家。慶応3年(1867)生~昭和3年(1928)歿。秋田県出身。巽画会・日本美術協会会員。
幼い時から平福穂庵に師事。特異な画家といわれ、匂いたつような濃厚な筆で一種異様な宗教画(仏画)をのこした。
少年時代から各地を転々とし、大正期初の頃には東京牛込に住んだ。この頃より尾崎紅葉らと親交を深め、帝展にも数回入選し世評を高くした。宗教画の他に花鳥も得意とし、俳画にも関心が高く「俳画帳」などの著作もある。
豪放磊落な性格でしられ、酒を好み、死の床に臨んだ際にも鼻歌交じりで一句を作ったという逸話もある。落款「百三談画房」、雅号は「百三談主人」など。
俳画に興味を持ち、永平寺や総持寺の賛助を得て、自ら俳画禅寺を建立する計画を立てていたようですが、目的を果たせずに他界しています。永平寺や総持寺と関連があったらしいということは曹洞宗になんらかの関係があったのかもしれません。
************************************************
もうひとつの作品は下記の作品です。
相撲図 倉田松濤筆 その42
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横460*縦2060 画サイズ:横325*縦1325
これはまた相撲の絵・・????
痩せた人物の相撲・・???
賛はほとんど意味不明??
「□□□□□□や □□□□□□□ □□□□□□ 東都□□□□□ 俳画□□□□云う 於□来世
□□隆? 松濤適者 押印」…・・・・だめだこりゃ
ま~ともかく理屈抜きで面白いのが倉田松濤の作品・・、廉価で入手できる面白き郷里の画家です。
濯足図 倉田松濤筆 その43
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横460*縦2100 画サイズ:横325*縦1325
一体何を描いているのでしょう。達磨の親子? 川で足を洗っている??
濯纓濯足(たくえい-たくそく)という語句があります。その意味は「世の中の流れに合わせて身の振り方を変えること。または、善い行いをすれば尊ばれ、悪い行いをすれば蔑まれるということのたとえ。または、世俗を超越すること。「纓」は冠の紐。 水が綺麗なら冠の紐を洗い、水が汚れていれば足を洗うという意味から」ということのようです。
「濯足万里流」という語句もあるようです。
「足を万里の流れに濯ぐ 広大でゆったりと流れるな川で足を洗いすすぐということから、俗世から離れて心身を清めるということです。人は心身ともに環境に感化されやすいです。広大な海や雄大な川の流れ、高いところから眼下を見下ろせば心も洗われ気分一新、志も高くなるものです。本物や良いものに触れたり接することは大事です。忙しい時間に追われる中でも、ちょっと外に出て、近所で流れている川を見る余裕を持ちたいものです。」ということらしい・・・。
「振衣千仞岡濯足萬里流」というのは「衣を振る 千仞の岡に 足を濯ぐ 萬里の流れに」という漢詩の一説のようです。
その漢詩全体は下記のもののようです。
詠史詩 八首之五 西晉 左思
皓天舒白日 靈景耀神州 明るい空に輝く白日を掲げ出し 陽光は神州の大地に輝く。
列宅紫宮裏 飛宇若雲浮 皇宮には、建物が連なり並んでいる 高い屋根は、大空に浮かんでいる雲のようだ
峨峨高門内 靄靄皆王侯 高く聳える門の内らに 奥深い気配の立ちこめたところにいる王侯貴族達
自非攀龍客 何爲來游 自分は、皇帝に取り入って出世しようとする者ではない 突然にどうしてやって来たのかというと
被褐出闔 高歩追許由 粗末な着物を着て城門を出て 箕山に隠れたという許由を慕って高らかに後を追いかけたい
振衣千仞岡 濯足萬里流 千仞の高い山で俗塵を払い落とし 俗世間で附いた足の穢れを長い川の流れで洗う
大正の初めに倉田松濤は上京し牛込横寺町の新居を構え、近所に住んでいた尾崎紅葉らと親交がありました。また禅宗の曹洞宗に熱心であり、これは当方と宗派同じです。この作品は「游戯三昧」ということから漢詩の意図を達磨の親子にてあらわした俳画ということしょうか?
ともかく当時の画人というのは学識が豊富だったようですね。現代の画家とは学識の豊富さが違います。
あらためて倉田松濤の略歴は下記のとおりです。
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倉田松濤:明治~大正期の日本画家。慶応3年(1867)生~昭和3年(1928)歿。秋田県出身。巽画会・日本美術協会会員。
幼い時から平福穂庵に師事。特異な画家といわれ、匂いたつような濃厚な筆で一種異様な宗教画(仏画)をのこした。
少年時代から各地を転々とし、大正期初の頃には東京牛込に住んだ。この頃より尾崎紅葉らと親交を深め、帝展にも数回入選し世評を高くした。宗教画の他に花鳥も得意とし、俳画にも関心が高く「俳画帳」などの著作もある。
豪放磊落な性格でしられ、酒を好み、死の床に臨んだ際にも鼻歌交じりで一句を作ったという逸話もある。落款「百三談画房」、雅号は「百三談主人」など。
俳画に興味を持ち、永平寺や総持寺の賛助を得て、自ら俳画禅寺を建立する計画を立てていたようですが、目的を果たせずに他界しています。永平寺や総持寺と関連があったらしいということは曹洞宗になんらかの関係があったのかもしれません。
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もうひとつの作品は下記の作品です。
相撲図 倉田松濤筆 その42
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横460*縦2060 画サイズ:横325*縦1325
これはまた相撲の絵・・????
痩せた人物の相撲・・???
賛はほとんど意味不明??
「□□□□□□や □□□□□□□ □□□□□□ 東都□□□□□ 俳画□□□□云う 於□来世
□□隆? 松濤適者 押印」…・・・・だめだこりゃ
ま~ともかく理屈抜きで面白いのが倉田松濤の作品・・、廉価で入手できる面白き郷里の画家です。