夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

月明秋草図 渡辺省亭筆 その3

2013-08-24 06:52:29 | 陶磁器
まだまだ残暑が厳しい折ですが、そろそろ月見の季節となります。本日は月見の作品です。作者は渡辺省亭です。この画家をご存知の方はかなり日本画に詳しい方でしょう。本ブログではすでに2回作品を投稿しておりますが、なかなか作品を見かけることがない画家です。

なかなか画力のある画家で、明治期に菊池容斎に学び、柴田是真に傾倒し、国際的のも評価が高く、勧業博覧会に入賞するなど日本の明治の画業のレベルの高さを知らしめる画家と言えるでしょう。

月明秋草図 渡辺省亭筆 その3
絹本水墨淡彩 軸先象牙 渡辺水巴鑑定箱
全体サイズ:縦2070*横533 画サイズ:縦1125*横413





同時期に描かれたと思われる作品が思文閣墨蹟資料目録「和の美」第475号 作品NO9「月下秋草」(共箱 「省亭逸人」と銘あり)として掲載されていますので参考に掲載しました。




ほぼ同時期(「丁酉秋分」とあり明治30年、省亭46歳の作)の作品と思われます。

本作品よりひとまわり大き目であり、共箱という評価の点で優位な点がありますが、本紙にしみがある点や色彩が少ない点などでは本作品のほうが評価が高いので、ほぼ互角の評価と言えるでしょう。でもお値段が120万はお高いですね。本作品を小生は10万以下で入手しましたが、それでも思い切ったと購入でしたが・・。



月の円の描き方、立て札の直線の描き方など実に修練されています。ごまかしのない修練された画力は、千住博に代表されるような最近の日本画のまやかしの描き方など足元にも及びません。



日本人のものづくりの技術の高さを知らしめてくれる画家です。これからもっと高く評価されるでしょう。私もこのようなしっかりとした画家の絵をもっと集められたらと思います。



渡辺 省亭(わたなべ せいてい):嘉永4年12月27日(1851年1月18日) ~ 大正7年(1918年)4月2日):明治時代から大正時代にかけての日本画家。洋風表現を取り入れた花鳥画を得意とした。菊池容斎の門人。本姓は吉川、名は義復(よしまた)、通称は良助。省亭は号。一昔前は専門家でも「しょうてい」と読んでおり、当ページの英語・仏語版でもそちらに従っている。しかし、省亭の末裔にあたる人々は「せいてい」と読んでおり、渡欧中の省亭に触れたフランスの文献でも「Sei-Tei」と紹介されていることから、「せいてい」が正しい。なお息子に俳人の渡辺水巴がいる。省亭の作品は当時の来日外国人好まれ、多くが海外へ流出した。メトロポリタン美術館、ボストン美術館、大英博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館、ライデン国立民族学博物館、ベルリン東洋美術館、ウィーン工芸美術館など、多くの国外美術館・博物館に省亭の作品が所蔵されている。

箱書は渡辺省亭の子息によるものです。このようなことも覚えておかないと、入手時において即時の判断ができません。

  


渡辺水巴(わたなべすいは):1882‐1946(明治15‐昭和21)俳人。本名は義。花鳥画の大家,省亭(1851‐1918)の子として東京に生まれた。東京は浅草の出身、父は近代画家の渡辺省亭で、裕福な家庭の中で悠悠自適の少年時代を送る。19歳の時に内藤鳴雪の門を敲き、門下生となる。後に高浜虚子に師事し、彼が主宰する『ホトトギス』同人に推輓される。『ホトトギス』において、雑詠選の代選で頭角を現し、同誌の中興に貢献した。その一方で、俳風の相違などから虚子とは距離を置くこととなり、大正5年(1916年)には自ら主宰した俳句雑誌『曲水』の運営に当たっている。また、経済的、精神的な柱であった父の死と関東大震災による罹災によって、生活状況は一変し、関西に移り住むようになる。高浜虚子を踏襲する一方で、生粋の江戸っ子気質による洒落や遊びを織り交ぜた唯美的で雅やかな句が特徴。また、「写生的」な句が蔓延したために停頓しつつあった俳壇に一石を投じるように「主観的」な句を重視した。昭和21年(1946年)に没。享年65。


補足説明
容斎の教育: 16歳で容斎に弟子入りする。同門に松本楓湖や梶田半古、鈴木華邨、三島蕉窓らがいる。容斎の指導は、極めて厳しく、入門してから3年間は絵筆を握らせてもらえず、「書画一同也」という容斎の主義で、容斎直筆の手本でひたすら習字をさせられた。楷書は王羲之、かなは藤原俊成を元にしたものであったという。のちの省亭作品に見られる切れ味の良い筆捌は、この修練によって培われたと言える。ところが3年経つと、今度は反対に放任主義を取った。容斎は粉本を自由に使わせながらも、それを元にした作品制作や師風の墨守を厳しく戒め、弟子たちに自己の画風の探求と確立を求めた。厳しい指導の中で、省亭は容斎が得意とした歴史人物画ではなく、柴田是真に私淑し、花鳥画に新機軸を開いていく。明治5年(1872年)21歳のときに、父の歌友であった渡辺光枝の養嗣子となり、吉川家を離れ渡辺姓を継いでいる。




図案家として:明治8年(1875年)美術工芸品輸出業者の松尾儀助に才能を見出され、濤川惣助が手掛ける七宝工芸図案を描き、この仕事を通じて西洋人受けする洒脱なセンスが磨かれていく。明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会で、金髹図案で花紋賞牌(三等賞)を受賞。更に翌年のパリ万国博覧会で、同社から出品した工芸図案が銅牌を獲得。これを機に、起立工商会社の嘱託社員としてパリに派遣された。これは日本画家としては初めての洋行留学である。





印象派との交流:パリ滞在期間は2年強から3年間と正確には不明だが、この時期省亭は印象派周辺のサークルに参加している。エドモン・ド・ゴンクールの『日記』によると、1878年10月末から11月末頃に、省亭がエドガー・ドガに鳥の絵をあげたと逸話が見える。また、同じくゴンクールの「ある芸術家の家」では、省亭がこの時の万博に出品した絵を、エドゥアール・マネの弟子のイタリア人画家が描法の研究のため購入したと伝えている。他にも印象派のパトロンで出版業者だったシャルパンティエが、1879年4月に創刊した『ラ・ヴィ・モデルヌ』という挿絵入り美術雑誌には、美術協力者の中に山本芳翠と共に省亭も記載されている。省亭は彼らとの交流の中で、特にブラックモン風の写実表現を取り込み、和洋を合わせた色彩が豊かで、新鮮、洒脱な作風を切り開いたと見られる。





帰国後の活躍:明治14年(1881年)第二回勧業博覧会では「過雨秋叢図」で妙技三等賞を受賞。明治17年(1885年)からはフェノロサらが主催した鑑画会に参加、明治19年(1887年)の第二回鑑画会大会に出品した「月夜の杉」で二等褒状。これらの作品は所在不明で、図様すら分からない。しかし、明治26年(1893年)のシカゴ万博博覧会に出品した代表作「雪中群鶏図」を最後に、殆どの展覧会へ出品しなくなる。その理由として、博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもったためと説明される。ただし、明治37年のセントルイス万国博覧会には出品し、金牌を受賞した。他方、木版画、口絵挿絵にもその才能を示している。明治22年(1889年)刊行の山田美妙の小説『胡蝶』において裸婦を描いて評判となるが、後のいわゆる裸体画論争と端緒となった。翌年に『省亭花鳥画譜』全3巻を刊行、鷺草、桜草、夾竹桃、芍薬、薊などを華麗に描いている。




自娯の晩年:師・容斎とは対照的に弟子を取らず(水野年方が1,2年入門しただけという)、親友と呼べる画家は平福穂庵(平福百穂の父)と菅原白龍くらいで、一匹狼の立場を貫いた。これは容斎が、他人の悪口ばかり言いあう画家と交際するよりも一芸に秀でた者と交われ、との教えを守ったためとする説もあるが、単に省亭の性向によるものにも見える。省亭は悠々自適な作画制作を楽しんだ後、浅草三筋町の画堂にて68歳で亡くなった。



お月様を眺めながら、飾り物をしながら虫の音を聞く、そんなのんびりとした秋の夜を思い起こす清潔感ある一幅です。

月見という日本古来の文化が薄れている傾向にありますが、少し見直すことが必要だと思います。


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