蒐集している大野麥風画の「大日本魚類図集」の入手先から本日の作品を頂きました。この作品は版画ですが、原画の作者である今尾景年については本ブログで幾つかの肉筆の作品を紹介しています。
本作品は「景年花鳥画譜 春・夏・秋・冬之部全4冊(春・夏・秋・冬之部) 木版134図」(明治24-25年1891-1892)の冬の部よりの作品です。
明治10年(1877年)の頃から「花鳥画譜」の制作を志し、博物学者であった山本章夫に指導を受けるほど科学的かつ精密な写生を重ねていました。そして明治24年(1891年)西村総左衛門によって刊行された『景年花鳥画譜』(4冊)は、景年芸術の真髄と高い評価を受けています。
翡翠(画譜より) 今尾景年筆
版画額装 日焼け跡有
全体サイズ:横404*縦478 画サイズ:横253*縦367
今尾景年は京都衣棚通二条北入ルに今尾猪助の三男として生まれていています。家は代々「伊勢屋」の屋号を持ち、三井呉服店出入りの友禅悉皆業だったようです。
安政2年(1855年)11歳の時浮世絵師梅川東居に弟子入りしています。東居は梅川東南の門人で、銅版画の技術もあったということです。3年後の安政5年(1858年)、東居の執り成しで鈴木百年に入門。百年の「年」と、絵心のあった父の敬愛する松村景文の「景」を合わせて「景年」と号したそうです。
一方で詩文は三国香眠に学びながら、大和国や丹波国へ矢立を持って写生に出かける生活を過ごします。禁門の変で生家が焼失し、明治初期は南画以外の日本画は不遇の時代でしたが、却って懸命に絵の研究に熱中したようです。塩川文麟らによって結成された如雲社の月例品評会に作品を持ち寄り、生活のため友禅の下絵を描きながら家塾を開いて研鑽を積んでいます。
今尾景年(1884年以前は別名"三養")明治8年(1875年)京都博覧会で洋画の田村宗立と共に受賞、明治10年(1877年)第六回京都博覧会でも「牧童図」で銀賞。
青年期の作品は、師百年の影響もあって南画風ですが、花鳥画に精力的にこなすようになると、沈南蘋や宋の院体画を学んだあとが窺えるようになります。明治13年(1880年)京都府画学校設立に伴い出仕。明治15年(1882年)第一回内国絵画共進会で「鯉魚図」が銅賞を受け、パリ日本美術縦覧会にも作品を出品しています。翌年漢学者の三國幽眠から聊自楽の号を贈られています。
資料作品:作品下右に「ハゼ 翡翠」とあり
明治18年(1885年)奈良博覧会に出品した「余物百種の図」が一等金牌を受賞、これにより景年は世に認められるようになったようです。
明治26年(1893年)シカゴ・コロンブス万国博覧会に代表作となる「鷲猿図」(東京国立博物館蔵)を出品し、名誉賞牌。
明治28年(1895年)京都後素協会(旧如雲社)設立に際しては委員長となります。同年京都で開かれた内国勧業博覧会では5人の大家が屏風絵を描く中で、景年は「耶馬渓図」で二等妙技賞を受けます(一等妙技賞は橋本雅邦の「十六羅漢」)。
明治29年(1896年)日本絵画協会第一回共進会に「芥子雀」「鳩」を出品し銀牌。景年の画業が最高潮に達したのはこの頃の50代の壮年期で、竹内栖鳳や山元春挙らと共に日本画の近代化運動の一翼を担い、明治前期の京都画壇で実力を誇った鈴木派にあって、鈴木松年、久保田米僊らと並び評されたようです。
明治33年(1900年)パリ万博は「春山花鳥図」で銀牌、
明治37年(1904年)セントルイス万国博覧会では「四季花鳥図」で金牌を受賞。同年4月16日、望月玉泉と共に帝室技芸員となります。
明治40年文展開催と共に審査員を務めますが、第六回文展の「躍鯉図」を最後に審査員を弟子の木島桜谷に譲る。
明治44年(1911年)イタリア万博に「寒月群鴨図」で4000リラの賞金を得ています。
大正8年(1919年)帝国美術院会員。最晩年は茶の湯や盆栽などの趣味三昧に過ごし、大正13年79歳の生涯を閉じています。
毎月1日と10日は写生日と定め、常々門人たちに写生の重要性を説いていました。弟子に、養嗣子となった今尾景祥、上田萬秋、木島桜谷、河合文林、小林呉嶠、海野美盛、梅村景山、馬場景泉などがいます。
『景年花鳥画譜』4冊」は明治24年(1891年)西村総左衛門によって刊行されていますので「西村蔵版」と記されています。通常は右下に画題が記されていますが、本作品にはありません??
その理由は解りません。後摺なのかも知れませんが・・。なにしろ頂き物・・。
今尾景年について、大雑把な略歴は下記の通りです。
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今尾景年:弘化2年(1845年)生まれ、大正13年(1924年)没。京都に生まれる。幼名猪三郎、後に永歓、字は子祏。号を景年、養素斎、聊自楽居等と称した。初め梅川東居に浮世絵を学び、のち鈴木百年に師事、さらに諸家の画法を究め、ついに一家を成し特に花鳥画に優れていた。明治37年帝室技芸員、明治40年以来文展審査員等になる。「鶯猿図」、「松間朦朧月図」(国立博物館蔵)などが代表作である。
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本日は休日ということあり、軽めの作品の紹介でした。