夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

桜井の別れ 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃 その116

2023-10-11 00:01:00 | 掛け軸
寺崎廣業の作品では明治時代の「二本廣業」と言われている落款を記した初期(
明治20年頃~30年頃)の作品に佳作が多く見られます。著名になる前の方が絵に対して挑む気概があり、良い作品が遺っているのでしょう。



全盛期の作品の力作はすでに収まるべきところに収まっていて、市場に出回る作品は力作以外の席画のような作品が多く、書き込みの多い作品はあまり見当たらないようです。



本日は初期の頃の作品が入手できましたので紹介します。この作品は帰郷した際に地元の骨董店から入手した作品ですが、意外に高価であったので半年ほど取り置きしていただいてからの購入となりました。

桜井の別れ 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃 その116
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱 
全体サイズ:縦2070*横673 画サイズ:縦1290*横513

 

初期の頃の寺崎廣業は歴史上の人物画、武者絵を好んで描いていたようです。その後に美人画に移行しています。



この作品は有名な「楠木正成・正行父子の桜井の別れ」を題材とした作品です。その逸話は下記のとおりです。

********************************

「桜井の別れ」:西国街道の桜井の駅で楠木正成・正行父子が訣別する逸話。桜井の駅で別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなった。



建武三年五月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、20分の1ほどの軍勢しか持たない新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。



*下記の作品は「桜井の別れ」を題材にした当方の所蔵作品(蓑虫山人の作品)からです。

桜井の別れ 蓑虫山人筆 
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横455*縦1760 画サイズ:横335*縦1130




その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。



「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。

********************************

有名な楠木正成はさておいて、その後に生き残った楠正行の生涯は意外に知られていません。

********************************

楠正行:『太平記』の伝えるところによれば,父正成が建武3/延元1(1336)年湊川(神戸市)の戦で敗死したとき,正行は11歳であったという。このことを信ずれば嘉暦1(1326)年の出生となるが確証はないそうです。

*家内曰く「あれ、何歳だっけ? 正行が幼すぎない? 服装は鎧姿な筈・・」だと。妙に詳しい批評家が伴侶だと何かとやりにくい・・・・。



父正成は湊川での足利尊氏・直義軍との合戦の前に,正行を摂津国桜井(大阪府島本町)で本拠地・河内国(大阪府)に帰し,再起を期待したという。これが前述した「桜井の別れ」ですが、正行は正成の没後,その遺領を継承し河内国の国司並びに守護として活動,畿内における南朝軍の中枢となっています。 

下記の写真:『楠正行弁の内侍を救ふ図』(水野年方画)より



貞和3/正平2(1347)年南朝の中心的な人物の北畠親房の主戦論が主流となると,正行も東国,鎮西の南朝軍と共に兵を起こします。正行は,紀伊,河内,摂津と転戦,これに対して幕府は,細川顕氏を河内に派遣して,鎮圧に当たらせますが,正行軍の大勝となっています。

その後幕府は山名時氏の軍を援軍として送りましたが,正行方はこれを摂津住吉,天王寺で迎え撃ち,激戦の末しりぞけます。こうした事態に危機感をつのらせた幕府は,ついに高師直・師泰兄弟を河内に向かわせます。貞和4/正平3年正月,河内国(大阪)の四条畷でこれを迎え撃ちましたが,激戦となり,ついに正行は弟の正時と刺し違えて自害しました。

この四条畷の戦を前にした正行は,吉野で後醍醐天皇の廟を拝したのち,出陣に当たり,如意輪寺の本堂の扉板に,やじりで「返らじとかねておもへば梓弓なき数に入名をぞとどめる」と辞世の歌を記しており,今にその遺品が伝来しているそうです。南北朝の内乱のなかで父正成の跡を追うような壮絶な最期であったとされています。

********************************



本作品に押印されている印章は非常に珍しく当方の他の所蔵作品である「道行旅路嫁行 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃」に同じ印章が押印されています。そこでこの2作品を並べて展示してみました。




*下記写真左が本作品の落款と印章で、右写真が「道行旅路嫁行」の落款と印章です。同一人物ののよる落款と同じ印章であることが明白です。同一時期の作品と考えられますが、この落款の書体の時期は短期間であり、印章も珍しいようで、当方ではこの2作品のみで現在手元にある図集でも例はありません。

 

知らない方だと印例がないとして、真作と判断できかねる作品になっていしまいます。この作品によって両作品が真作と断定できるようになりました。



このような歴史を題材にした作品からこの直後には美人画で寺崎廣業は名を成すようになります。もっとも寺崎廣業の美人画はお値段も高くなり、数も少ないため入手が難しくなりますね。


























最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。