夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

リメイク 嫦娥蒔絵印籠 伝古満休伯作

2021-11-21 00:01:00 | 漆器
印籠などの漆器は海外からは「JAPAN」と呼ばれて日本の工芸品として高い評価を受けている作品群ですが、記事においては「1980年代には日本のコレクターらがコレクションを始めた頃には既に優品は海外に流出しきっており、日本国内には全くと言っていいほど優品が残っていなかった」ということから、その多くの優品が海外に流出しているようです。

しかも現代では「JAPAN」と称された漆器の材料である漆のほとんどが中国産(国内の90%以上)であることから、一部の地域で保護に努めている以外は本来の品質の高い漆器類は日本では再現されていない状況です。(この状況は以前に漆器類の作品紹介で説明しています。)

本日紹介する印籠は少しずつ集めている印籠ですが、状態のよいものを入手するには数が少なく、そのためかなり苦労しており、数はそれほど蒐集できていません。

本作品は以前にも投稿されていましたが、リメイクした再投稿の作品です。

リメイク 嫦娥蒔絵印籠 伝古満休伯作
根付:おかめ 幅25*奥行き17*高さ54 根付刻印「清光刀」
四段重ね 桐箱入 縦100*横63*高さ24



描かれているのは「嫦娥」ですね。「嫦娥」については掛け軸の本ブログにおける他の記事でも紹介しています。あらためてその概略の記事は下記のとおりです。

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嫦娥

1.嫦娥というのは日本の『竹取物語』(かぐや姫)の原典となった月の女神(天女)。嫦娥は“永遠に美女”という意味で、常は恒と同じ“永久不変”の意があります。



2.嫦娥(じょうが)または姮娥(こうが)は、中国神話に登場する人物のことです。后羿の妻です。『淮南子』覧冥訓によれば、もとは仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后羿が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に逃げ、蝦蟇になったと伝えられています。

別の話では、后羿が離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えています。

道教では、嫦娥を月神とみなし、「太陰星君」さらに「月宮黄華素曜元精聖後太陰元君」、「月宮太陰皇君孝道明王」と呼び、中秋節に祀っています。本来の字は「姮」ですが、前漢の文帝の名が「恒」であるため避諱として「嫦」の字が用いられるようになり、のちに旁(つくり)にひかれて「じょう」の読みが一般化しましたが、嫦娥と書いても「こうが」と読ませる場合もあるようです。




3.中国では旧暦の八月十五日が中秋節であり、中秋節は春節(旧正月)、端午節と共に、歴史が最も長く、民族の特色を最も有する伝統的な三大祭日とされています。中秋の日は、家族全員が集まり、月餅や果物を食べながら、月を観賞する風習があります。

次は中秋節に関する“嫦娥が月にのぼる”というお話です。

4.嫦娥は月の神で、夫の後羿は勇敢で戦に長けている戦いの神であり、狙ったものには必ず的中するほどの弓の腕をもっていました。

当時、人間世界には多くの猛禽や猛獣が現れ、人々に災いをもたらしていたとされています。これを知った天帝は、これらの害を取り除くよう後羿に命じます。そこで後羿は、美しい妻の嫦娥を連れて人間世界に来たとされます。後羿は剛胆であり強いことから、地上の多くの獣に簡単に打ち勝つことができました。こうして天帝から与えられた任務は完成しかと思われたとき、予想せぬ事態が発生します。空に十個の太陽が同時に現れたのです。実はこの十個の太陽はいずれも天帝の息子であり、これら息子は、いたずらするため同時に空に現れたので、強い日差しを受けた大地の温度はあっという間に上昇し、森林や畑は燃え、川が枯れ、人々の焼け死んだあとの屍がいたるところに見られました。温暖化現象の末期のようなものかもしれません。

*片面には舞台となった楼閣が描かれています。



これを目の当たりにした後羿は心を痛め、彼は、これら十兄弟の太陽がそれぞれ単独に行動し、毎日交替で空に昇るよう説得しましたが、傲慢な太陽たちは、後羿を相手にしないばかりか、わざと大地に近寄ったりしたので、大地はより大きな炎に包まれます。太陽兄弟がこのような悪事を繰り返し、多くの人が焼け死んでいくの見た後羿はつい我慢できなくなり、弓を取って太陽たちに矢を放ち、一気に九個の太陽を射落としました。そして最後の一個が命乞いしたので、後羿は怒りが収まったのか、弓をしまったのです。



 このように後羿は人間のために大きな災いを取り除きましたが、天帝を怒らせてしまいます。自分の九人の息子が殺されたことに天帝は激怒し、後羿夫婦が天に戻ることを許さなかったそうです。こうして天に戻れなくなった後羿は人間世界に残り、人々のために多くの事を成しました。しかし妻の嫦娥は苦しい人間の生活に不満を抱き、天帝の息子をむやみに射殺した夫の後羿をとがめます。



 その後、後羿は昆侖山に住む神の西王母が不思議な薬を持ち、その薬を飲めば天に昇れることを知ったので、彼はその薬を手に入れるため多くの山を超え河を渡り、苦難の末昆侖山に辿り着いて西王母に会いました。だが残念なことに、西王母には薬が一人分しかなかったのです。後羿は自分だけが天にもどり愛する妻を置き去りするのをきらい、また、妻一人を行かせて自分が取り残されることもいやだった。そこで仕方なくこの薬を家に持ち帰ってこっそり隠しします。

 しかし夫が薬を手に入れたことを知った嫦娥は夫を愛しているものの、かつての天での楽しい暮らしが忘れられなかたったようです。そして八月十五日の中秋の日、夜の月が最も明るいときに、後羿が留守だったので、嫦娥はこっそりと薬を飲みます。すると、不意に体が軽くなって悠々と空へ上り、ついに月に行き着き、広寒宮に住み着いきます。しばらくして家に帰った後羿は、妻が自分の元を離れて天に帰ったことを知り大いに心を痛めましたが、愛する妻を弓で射落とすこともできず、仕方なくそのまま別れてしまうことになります。



そして後羿は一人暮らしとなりましたが、これまでどおり善事をやり続けます。そして弟子を受け入れて弓術を教え始めましたが、その中に逢蒙という特に上達が早い弟子がいました。この逢蒙は、自分が天下一の弓手となるには、師匠の後羿が邪魔だと思うようになり、ある日酒に酔った師匠を後から射殺してしいます。

一方、嫦娥は月に住み着きましたが、そこには薬を搗く一羽のウサギと一人の木を切る老人しかいなかったので寂しく思い、毎日月宮で憂鬱な生活を送り、特に毎年の八月十五日の月が最も美しいときに、夫と過ごしたかつての幸せな日々を思い出してすごしました。

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なんともやりきれない物語ですね。なにやら最近の温暖化現象や皇室問題と現象が重なりませんか? そてはさておき作者はこの伝説を知っていたのでしょう。この蒔絵にはそのような伝説の内容が込められているようです。



この印籠の下部には「古満休伯」という銘が記されています。印籠などの蒔絵師の資料には下記のような系図があります。

*古満家は江戸時代の蒔絵師の家系。初代は休意(?‐1663)。1636年(寛永13)徳川家光に召され御抱蒔絵師となり,江戸城内紅葉山の仏殿に蒔絵をして大いに褒められています。彼の作に「柴垣蔦蒔絵硯箱」(東京国立博物館)があります。子孫は江戸末期まで12代におよび,代々の作風を古満蒔絵と呼びます。その作風は相対する幸阿弥蒔絵と異なり,幸阿弥家では古満家を道楽蒔絵と軽んじていました。古満家は時代の流行にそった変化ある態度で製作し,品格を第一として静的で保守的な作風の幸阿弥家とあいいれなかったといえるのでしょう。



「古満家」はさらには近代の名工柴田是真に繋がる系譜のようです。



さらに根付は下記のようはものです。



印籠と根付は一体になって保存すべきものと思っていますし、また疵の多い印籠ではなく無傷のものを蒐集対象しています。



裏面には「清光」とありますが、こちらも詳細は不明です。材質はなんでしょうか?



ところで日本での印籠に対する情熱も近年から復活しており、冒頭で述べた下記の記事を紹介します。

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海外から幕末や明治の工芸品を積極的に買い戻している清水三年坂美術館創設者の村田理如や、漆工工房雲龍庵の創設者の北村辰雄も、海外のアンティークショップやオークションでこの時期の印籠に出会ってその美しさに驚愕して美術館の開館と工房の創設に至っています。

日本人の生活の西洋化により高度な印籠の製作技術は失われていますが、1980年代に北村率いる「雲龍庵」が再現に成功し、今日では世界中の富裕層のコレクターに販売しています。

雲龍庵(うんりゅうあん、英語:Unryuan):石川県輪島市にある、北村辰夫(きたむら たつお、1952年 - )が創設した漆工工房・漆工ブランド。

1つの作品に5人から10人の職人が関わり、長い物では5年の制作期間を要するというその作品の美しさ・精緻さや、現代ではロストテクノロジーとなっていた江戸時代から明治時代にかけての漆工作品の再現性の高さから、工房の作品は「超絶技巧」と評されることが多い。日本国内外の富裕層を顧客として抱えるほか、博物館や美術館で展覧会が開催されたり美術誌や美術番組でも紹介されています。

漁師の息子であった北村氏は1973年に輪島塗の世界に入り、1981年から古典技法の研究を開始し、1985年に北村工房を設立、1986年から印籠制作を始めました。

初の海外旅行で訪問したロンドンでのオークションで江戸時代の印籠と出会いその美しさと精緻さに衝撃を受け、職人と共にロストテクノロジーとなっていた作品の再現を試み3年の制作期間の後に完成させています。この印籠をヴィクトリア&アルバート博物館のキュレーターに見せたところ驚愕され、これを機に日本国外の美術館のキュレーターや富裕層の工房見学が相次ぐようになり、世界各地で展覧会が開催されるようになるなど名声を高めました。



代表例としては、1992年にヴィクトリア&アルバート博物館に作品が買い上げられたほか、1993年から1995年にかけてロンドン、パリ、シカゴ、ウィーンで個展「UNRYUAN・THE NEW GENERATION」が開催された他、1996年に京都の野村美術館で「伝統の中からの創造 雲龍庵作品展」が、2002年にヴィクトリア&アルバート博物館で「UNRYUAN・MASTER OF TRADITIONAL JAPANESE LACQUER」が開催されるなど、多くの美術展で作品が披露されています。顧客は主に口コミで作品の評判を知った日本国内外の富裕層であり、プライベートジェット機で来日して1対1で商談して発注していく外国人もいるとのことです。



北村氏は2006年にNPO「漆工研究会(SKK)」を設立し代表理事に就任し、2014から2015年にかけて毛利家ゆかりの「菊蒔絵貝桶一式」復元制作事業の統括責任者(棟梁)として約50人の職人の指揮を務めました。この貝桶復元制作事業はオーストラリアのスポンサーの支援で行われたものであり、完成作は同国の美術館に寄贈されています。この時の制作の様子はNHK教育テレビジョンの日曜美術館やETV特集で放送されています。



また2015年からは北村氏が認定した品質の個人の職人の工芸作品を「希龍舎」というブランド名で売り出していますが、希龍舎の名は明治初期の美術工芸品輸出会社「起立工商会社」に由来するようです。

作品は金沢21世紀美術館にも収蔵されているほか、2011年にはウォルサムと懐中時計「水面(MINAMO)」「日月(Night and Day)」を、2014年には独立時計師のカリ・ヴティライネンと腕時計「Hisui」を共作しています。

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さて印籠のみに限らず、世界の漆器「JAPAN」を大切にしましょう。

近代化でいろんな考えや風習も異なってきていますが、骨董も温暖化も皇室問題も基本は温故知新。すべてはこのことを疎かにした人の問題かと思います。

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