3月末となって慌ただしい日々が続いています。ブログの原稿もままならぬ日々でしが、なんとか記事をまとめました。そんな状況で先週には仕事の途中でサントリー美術館に立ち寄り「河鍋暁斎展」を観てきました。
週日の金曜日でしたが、ゆっくり見られるほどには来館者は少なくなく、こちらも立ち寄るところがあったので駆け足での来館となりました。大きな作品は有名な作品も多く目新しいものは少なかったのですが、画帳の細密画は面白く拝見しました。全部が見られような展示になっていなかったのは悔やまれますね。
本日は平福百穂の作品の紹介ですが、明治期から大正にかけての数少ない作品のひとつだと思います。
鼠ニ手毬 平福百穂筆 明治45年(1912年)1月
紙本水墨紙表具軸装 軸先木製 共箱
全体サイズ:縦482*横313 画サイズ:縦1285*横410
子年に描かれたとすると亡くなったのが昭和8年(酉賭)なので、大正13年頃の作か?それより前だと明治45年となりますが、この印章は画集においては大正初期の作品に多く押印されていることから明治45年、平福百穂が36歳頃の作と推定しています。
平福百穂の経歴は下記のとおりです。
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平福百穂:生年明治10(1877)年12月28日~没年昭和8(1933)年10月30日。
穂庵の第4子として明治10年(1877)角館に生まれた。本名を貞蔵という。13歳のころに父から運筆を習っている。父穂庵は常に旅に出て留守勝ちであったが,明治22年,身体をこわして帰郷し,しばらく家にいることになった。その時,筆の持ち方,座り方,墨の擦り方まで教えた。しかし翌年,父が47才のとき,脳溢血のために急逝し,その教えを受けることはかなわなかった。百穂は「上の兄3人が絵とは違う道を志していたため『一人ぐらいは父の跡を継いだらよかろう』という周囲の勧めもあって,絵を学ぶことになった」と述懐している。
14歳の時,穂庵追悼秋田絵画品評会に出品した半切が激賞されるなど,父の画才を色濃く受け継いでいた。16歳で父の後援者・瀬川安五郎の支援の下,絵の修行のため上京,川端玉章の門人となる。玉章は穂庵と旧知の中であり,そのころ,四条派の第一人者で,東京美術学校日本画科の教授をしていた。ここで,後に盟友となる結城素明を知ることになる。
東京美術学校で学び,画家としての地歩を築いた百穂は22歳の時,いったん郷里に帰り,郷里にあって絵の勉強をするかたわら,友人達と中尊寺などに遊んだ。素明の勧めもあって,2年後の明治34年(1901)に再び上京し,やがて中央画壇で頭角を現していった。
活躍の主舞台は素明らと結成した「无声会(むせいかい)」であった。自然や人間を清新な感覚でとらえた作品を発表して注目された。明治36年ころから伊藤左千夫,正岡子規,長塚節,斉藤茂吉らと交友するようになり,アララギ派の歌人としても活躍している。大正期(1912-1925)に入ると百穂の画風はさらに多彩となり,文展に「七面鳥」「豫譲」(第11回特選),「牛」を出品した。昭和7年に母校・東京美術学校の教授に任じられている。しかし翌年10月,横手市に住んでいた次兄の葬儀の準備中,脳溢血で倒れ,同月30日に享年57才で亡くなった。
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週日の金曜日でしたが、ゆっくり見られるほどには来館者は少なくなく、こちらも立ち寄るところがあったので駆け足での来館となりました。大きな作品は有名な作品も多く目新しいものは少なかったのですが、画帳の細密画は面白く拝見しました。全部が見られような展示になっていなかったのは悔やまれますね。
本日は平福百穂の作品の紹介ですが、明治期から大正にかけての数少ない作品のひとつだと思います。
鼠ニ手毬 平福百穂筆 明治45年(1912年)1月
紙本水墨紙表具軸装 軸先木製 共箱
全体サイズ:縦482*横313 画サイズ:縦1285*横410
子年に描かれたとすると亡くなったのが昭和8年(酉賭)なので、大正13年頃の作か?それより前だと明治45年となりますが、この印章は画集においては大正初期の作品に多く押印されていることから明治45年、平福百穂が36歳頃の作と推定しています。
平福百穂の経歴は下記のとおりです。
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平福百穂:生年明治10(1877)年12月28日~没年昭和8(1933)年10月30日。
穂庵の第4子として明治10年(1877)角館に生まれた。本名を貞蔵という。13歳のころに父から運筆を習っている。父穂庵は常に旅に出て留守勝ちであったが,明治22年,身体をこわして帰郷し,しばらく家にいることになった。その時,筆の持ち方,座り方,墨の擦り方まで教えた。しかし翌年,父が47才のとき,脳溢血のために急逝し,その教えを受けることはかなわなかった。百穂は「上の兄3人が絵とは違う道を志していたため『一人ぐらいは父の跡を継いだらよかろう』という周囲の勧めもあって,絵を学ぶことになった」と述懐している。
14歳の時,穂庵追悼秋田絵画品評会に出品した半切が激賞されるなど,父の画才を色濃く受け継いでいた。16歳で父の後援者・瀬川安五郎の支援の下,絵の修行のため上京,川端玉章の門人となる。玉章は穂庵と旧知の中であり,そのころ,四条派の第一人者で,東京美術学校日本画科の教授をしていた。ここで,後に盟友となる結城素明を知ることになる。
東京美術学校で学び,画家としての地歩を築いた百穂は22歳の時,いったん郷里に帰り,郷里にあって絵の勉強をするかたわら,友人達と中尊寺などに遊んだ。素明の勧めもあって,2年後の明治34年(1901)に再び上京し,やがて中央画壇で頭角を現していった。
活躍の主舞台は素明らと結成した「无声会(むせいかい)」であった。自然や人間を清新な感覚でとらえた作品を発表して注目された。明治36年ころから伊藤左千夫,正岡子規,長塚節,斉藤茂吉らと交友するようになり,アララギ派の歌人としても活躍している。大正期(1912-1925)に入ると百穂の画風はさらに多彩となり,文展に「七面鳥」「豫譲」(第11回特選),「牛」を出品した。昭和7年に母校・東京美術学校の教授に任じられている。しかし翌年10月,横手市に住んでいた次兄の葬儀の準備中,脳溢血で倒れ,同月30日に享年57才で亡くなった。
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