夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

富士図 山元桜月筆 その6

2025-01-04 00:01:00 | 日本画
新年が明けましたので、まずは本日は富士山の朝焼けの作品の紹介です。

山元春挙の作品を本ブログで幾点か紹介していますが、その過程で門下でもあり、また甥でもある山元春汀(桜月)の作品にも縁があることがあります。本日はその山元春汀(桜月)の作品の紹介です。



戦前から富士山を描き続け、富士山の観察とスケッチに没頭します。戦中は国家意識の高揚の面からもあったかもしれませんが、戦後は平和の象徴として富士を描き続けています。



富士図 山元櫻月筆 その6
紙本着色額装 誂:段ボールタトウ+黄袋
M15号 全体サイズ:横885*縦670 画サイズ:横652*横455



山元桜月は、明治22年(1889年)に滋賀県滋賀郡膳所町(現滋賀県大津市)で山元治三郎と庄子夫妻の三男として誕生しします。父治三郎は山元家の入婿で、母庄子の末弟は近代京都画壇を代表する画家の一人山元春挙です。治三郎夫妻は子宝に恵まれ、六男二女の子をもうけ、桜月は四番目三男として生まれ三郎を名付けられましたが、叔父である春挙は幼い桜月の画才を見抜き、明治33年(1900年)桜月の入門を許し春汀の名を与え、以降厳しく実写の道を教えたようです。



桜月は才能を遺憾なく発揮し、大正3年(1914年)第8回文展において『奔流』が初入選し、以降文展・その後の帝展に連続入選を果たし、昭和3年(1928年)には帝展で推薦(無鑑査)と順調に地位を固めていきます。

山元春挙は昭和8年没する直前に、自らの画家としての人生を省みて「世俗的な名声はえたものの、真の芸術家としては虚しい生涯であった。師と同じ過ちを犯してはならない」と最愛の弟子に切々と論したそうです。

その影響からか山元桜月はその後、昭和8年(1933年)師であり叔父でもある春挙が亡くなると、昭和10年(1935年)には名を春汀から桜月に改め、帝展を退会し画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断ります。

桜月が描く対象も一般風景から山岳画へと変わり、昭和14年(1939年)改組文展に『早春の芙蓉峰』を出品し、この以降富士山を描き続け、翌15年(1940年)には山梨県の山中湖村に移住し、富士山の観察とスケッチに没頭しました。



桜月が描く富士山の絵について、横山大観は「富士の真の姿を描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評し、さらに昭和30年(1955年)東京で開かれた桜月個展において川合玉堂は、多くの期待を持って個展を楽しんだと伝えられています。さらには上野の西洋美術館、生みの親であるフランス美術館(文化大臣)ジョルジュ・サール氏をはじめ山元桜月の描く富士図は海外各国からも高く評価されました。昭和48年には、宮中新宮殿に収蔵されたことを始め、ルーブル美術館、ロックフェラー財団などの重要施設に数多く収蔵されています。



桜月は自著『神韻』の中で富士山を描くことに対して
「芙蓉峰と雲の調和は他の高山に比類なき美の極地」、
「先変万化の景観は、宇宙の無限大と等しく意義を示す世界無比の神秘」と称しています。

また後年「富士山を見ていたらその崇高な姿に魅入られ、誰も戦争など思い寄らないだろう。そして心から平和のためには力を合わすようになる。」との信念から、富士を描いた作品を世界の指導者に対して数多く寄贈したそうです。



権威や体制におもねることなく、純粋な気持ちで独自の画境を切り拓きながら、平和を願い、神摯な生涯をつらぬき通した画家山元櫻月の作品は、日本を超えて世界の至宝になった評してもいいのでしょう。



昭和60年(1985年)に死去しており、享年97才でした。


当方では他にも山元春汀(桜月)の富士を描いた作品を紹介しています。

清暁の富嶽 山元櫻月筆
紙本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
P12号程度 全体サイズ:横760*縦1450 画サイズ:横590*横450
*染み抜き・改装が必要→染み抜き完了



この作品は染み抜きをしており、きれいに復活した作品です。



山元桜月の富士を描いた作品で「富士」ではなく「富嶽」と題した作品は珍しらしいかもしれませんね。

今年こそ世界的に平和な年でありますことを祈念しています。





















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