夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

菊華水墨図 長三洲画賛

2013-09-24 05:09:20 | 掛け軸
台風一過の日には閉じこもりきりしたので、与野駅近くのホテルにフランス料理を食べに出かけました。フランス料理といっても割と手頃・・、二人で一万円ちょい。安くて充分な量を堪能できました。投稿は後日・・。

与野には駅近くの蕎麦屋「孤丘」(下の写真。高級蕎麦店、味は結構いいです)、美味しいロールケーキのお店などいろいろあります。ただ名残惜しいのですがそろそろこの与野からも引越しするかもしれません。社会人になってから何度引っ越したのでしょうか?



仙台、山形、盛岡、秋田、八戸、青森、水沢、仙台、東京、大宮・・、今度で11回目。郷里の自宅には住んだことがありません  次の行先は・・。別に放浪癖があるわけではありません。仕事上の都合がほとんどです。

住めば都・・、いろんな所に住んでいろんなことを経験することは、いいことばかりではありませんが、私はいいことだと思います。視野を広げ、精神的に強くなれます。

できれば家族一緒に移り住むのがいいのですが・・。私は単身赴任は一度もありません。

本日は長三洲・・?? 長州力ではありませんよ。 また未知の人の作品にチャレンジです。

菊華水墨図 長三洲画賛
紙本水墨 軸先木製 合杉箱
全体サイズ:縦1625*横418 画サイズ:縦1103*横298




賛には「桂落蘭(花の名?)衰凋(しぼむ) 華主持色独 寒葩(花びら)西風蘆 捲黄昏雨却 怯愁人痩似花 三洲居士 印」と記されています。なんとなく物悲しい漢詩のようですが、残念ながら小生の知識では意味はよくわかりません。




印章は「長莢」と「炗□」の朱文白方印が押印されています。賛の右上の引首印(書画幅の右上に押す印。多くは長方形か楕円形。関防(かんぼう)の印)は「東西南北 人」の白文朱方印が押印されています。

この「東西南北 人」は福岡の儒者亀井南溟が秘蔵した細川林谷篆刻の銅印。南溟の死後、息子の亀井昭陽から、原古処、原釆蘋、土屋蕭海、長三洲へと伝わり、三洲の長男、長壽吉の手を経て現在は福岡県朝倉市の秋月郷土館に伝承されたものというものがあると書籍には掲載されていますが、これと同一かどうかはわかりません。


 


説明書きには「追記 □七年本□ノ□□ニ□ス三洲□□ニ工也物□□□ハ顔真卿神□ヲ□遒勁典雅當時書道之第一人志ヲ以テ目セラレ尚長三洲。□一六。日□□□□ヲ□□之三筆ト□フ」とあります。

あまりにも達筆ゆえ???



みずみずしい水墨画と賛が見どころの作品です。



長三洲については名前は知っていましたが、当方としては初めての作品です。

真贋を含めてご指導いただければ幸いです。


長 炗(三洲):(ちょう ひかる(さんしゅう)、天保4年9月23日(1833年11月3日) ~明治28年(1895年)3月13日)。豊後国生まれの勤皇の志士、官僚、漢学者、書家、漢詩人。勤皇の志士として倒幕運動に半生を捧げ、戊辰戦争を戦う。その後、山口藩の藩政改革に携わる。幼名は富太郎、通称は光太郎、本名は長谷炗、名は莢(ひかる)。字は世章。号を三洲といい、別号に蝶生、韻華、秋史、紅雪などがある。明治3年、上京し、太政官制度局の官僚となる。明治5年には文部官僚として、師の広瀬淡窓の咸宜園の学制を基礎に据え、日本の学制の礎を築いた。また、明治書家の第一人者で、詩・書・画をよくしたが、とくに書に秀れた才を示し、顔真卿の風をしたい、重厚な書風を確立した。近代学校制度の中に習字を位置づけた第一の功労者である。また漢学者、漢詩人としての名声高く、漢学の長三洲、洋学の福澤諭吉として明治前半期の教育界の双璧を成した。水墨画や篆刻の腕前も一流であった。



長三洲:追加説明
天保4年(1833年)豊後国(大分県)日田郡馬原村の儒家、長梅外の第三子として生まれる。幼い頃から父梅外の薫陶を受け、15歳で広瀬淡窓の門に入り、後に淡窓の弟の広瀬旭荘の塾で塾生を教えた。詩・書・画・篆刻をよくし、詩と書は特に有名で、死後編纂された詩集『三洲居士集』は全11巻(約2000首)に及ぶが、これに掲載されていない作品も多数存在する。書は顔真卿の書法(顔法)を堅く守り、顔法の開拓者として名高い。明治10年(1877年)顔法で執筆した『小学校習字本』が発行された。


幕末の頃は尊王攘夷の志士と交わり、国事に奔走す。長州藩に身を寄せつつも、二豊(豊後、豊前)の倒幕運動の中心人物として暗躍。薩長同盟の立役者の一人でもある。 戊辰戦争においては、仁和寺ノ宮嘉彰親王の越後口征討軍の参謀として、西園寺公望、壬生基修、山県狂介等とともに従軍し、その後、長岡、会津を転戦。 戊辰戦争後は、山口藩議政局書記として明倫館御試仕法及び小学規則を制定の後、掌吏に昇格し、長州兵の兵制改革に携わるが、この改革により長州諸隊脱退騒動が勃発。木戸孝允、山県等とともにこれを鎮圧。毛利元徳の薩摩行に随行後上京。 明治3年10月、太政官権大史、制度局員となり、江藤新平とともに、月2回の御前会議(国法会議)に出席し諸制度を起草。長三洲の草稿による「新封建論」が廃藩置県の成功をもたらすなど、木戸孝允から絶大な信頼を寄せられた。木戸孝允と長三洲とは互いに全幅の信頼関係にあった。





また、「新聞雑誌」発刊に携わり、静妙子名で「新封建論」を発表し、廃藩置県を主唱。 明治5年、大学少丞に任じられ学制五編を起草、同年8月に頒布された明治学制の中心的な起草者となる。 以後、文部大丞を任じられる。その後、教部大丞を任じられると、西南学区巡視に赴き9ヶ月近くかけて西日本の教育状況をつぶさに巡察して回る(大阪、京都、三重、奈良、滋賀、兵庫、広島、香川、愛媛、徳島、高知、島根、鳥取、山口、福岡、日田、佐賀、熊本、天草、長崎、鹿児島、日向、佐伯、府内(大分)、別府、高田)。以後、文部省学務局長、侍読、宮内省の文字御用掛などを歴任し、明治12年(1879年)46歳のとき、官を退いて文書画の道で余生を送った。

明治13年(1880年)楊守敬の渡来により日下部鳴鶴、巌谷一六、松田雪柯を中心に六朝書道の普及運動が盛んになったが、三洲は関心を示さず顔法に傾倒した。







顔真卿:709‐785中国,唐の忠臣,書家。字は清臣。顔平原,顔魯公と呼ばれる。北斉の学者顔之推世の孫。開元22年(734)進士となり,のち,醴泉尉(れいせんい),長安尉,監察御史,殿中侍御史,東都採訪判官,武部員外郎を歴任して753年に平原(山東省陵県)太守に転出。翌々年に安史の乱が起こり,河北・山東各地は安禄山の勢力下に入ったが,顔真卿は従兄の常山(河北省正定)太守顔杲卿(がんこうけい)と連絡をとり,義軍をあげて唐朝のために気を吐いた。顔真卿の影響を受けた書家には、弘法大師(空海)・井上有一・榊莫山らがいる(書に造詣の深い映画監督の実相寺昭雄も、顔真卿の影響を受けていると語ったことがある)。空海が唐に入った頃、韓愈が王羲之を否定して顔真卿を称揚する主張を行っていたため、空海が顔真卿の書風を好んだのではないかと榊莫山は推測している。日本でも中国でも、過去の歴史に於いては書道に於いては王羲之流が主流派であったため、顔真卿が評価されるようになったのは、書道界でも実は最近のことである。日本では長三洲が顔法の開拓者として名高い。楷書の字形は当時標準とされた楷書とは異なり、正統的な王羲之以来の楷書の伝統を破壊するものであったため、賞賛と批判が評価として入り混じっている。これらの楷書は「顔体」(顔法、北魏流)とも呼ばれ、楷書の四大家の一人として後世に大きな影響を与えた。行書に関しては楷書と異なり、書の達人として王羲之に匹敵するとされており、文句なしの賞賛を受けている。


こういう歴史的名人物なども転勤して歩くと詳しくなります。転勤の少ない御仁は自分の郷土にも疎い



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