月初めは神棚に仏様・・、ともかく拝むものが多い。
展示室の片隅には仏壇があり、さらに茶室には観音様を置きました。
廊下の展示室には神様が鎮座しています。
ついでに展示替えも紹介します。
さて本日の作品の紹介です。
京焼の粟田焼系統と思われる作風の作品は本ブログで幾点か紹介しています。正直なところ、当方ではこの系統の陶器がいつの時代のもので、京焼においてどのように分類されるものかは詳しくありません。
ただ上記写真の右奥の「帯山」の銘のある湯飲みは当家に古くから伝わる作品です。当方で洗っているときに割ってしまい、金繕いで補修しています。
この系統の作品は、他にも下記の作品があります。
ちょっと作風の違う作品では下記の作品があります。
このような作行を「堆朱手」と呼ぶのでしょうか?
本日は上記写真の湯飲みを破損したこともあり、同手の作品を入手したので紹介します。下地の色が今回の作品のほうが黒く、印銘は「暁山」で、割れた補修の跡のある作品は「帯山」とされています。
本日紹介する作品は上記写真の右の作品です。
粟田焼 湯飲み 暁山焼
暁山銘 誂箱
口径90*高台径45*高さ65
ここで「古清水焼」という焼き物についての定義を整理してみました。
「古清水」という名称は、制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前のまた、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。
一般的には、野々村仁清以後 奥田穎川(1753~1811年)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称します。なお、京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。
野々村仁清(1656~57年 明暦2‐3年)が本格的な色絵陶器を焼造した。その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水(こきよみず)〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成されました。
古清水焼と近代の焼き物と見分け方ですが、近現代の釉薬は大変透明感が強くさらさらしており、文様が緑色の下に生地の貫入が透けて見えています。清水焼は清潔感のあるもの、きれいなものというイメージが出来上がり、現代の清水焼の釉薬になった感があります。古いものはそのようなことはなく、ねっとりとした不透明で盛り上がり感があります。古い赤はもっとどす黒さに近い濃い赤。土は硬くてすべすべしているが、本来古清水の土というのは卵色で、そこに時代の錆び・汚れがついてなんとなくぬくもりがするものです。高台の裏などに窯印はなく、窯印のあるものは古清水焼より若い物と区別できます。
粟田口の窯にはじまる京都の焼物は,金森宗和(1584~1656)の指導のもと,御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(ののむらにんせい,生没年未詳)によって大きく開花します。仁清は,粟田口で焼物の基礎を,瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学びました。また当時の京都の焼物に見られた新しい技法である色絵陶器の完成者とも言われています。その後,寛永期(1624~44)に入ると,赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは,仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ,これらの作品は後に「古清水」と呼ばれるようになります。
本日の作品が分類されるであろう栗田焼についてです。
それまで,大名や有名寺社等に買い取られていた粟田焼などの京都の焼物は,万治年間(1658~61)ごろから町売りがはじめられ,尾形乾山(おがたけんざん,1663~1743)の出現によって画期をむかえることとなります。乾山は,正徳2(1712)年より二条丁字屋町(中京区二条通寺町西入丁子屋町)に窯を設けて焼物商売をはじめており,その清新なデザインを持つ食器類は,「乾山焼」として,世上の好評を博しました。しかし,この乾山焼は,まだまだ庶民の手が届くものではなく,多くは公家や豪商などの間で売買されていました。
町売りが主流となりつつあった明和年間(1764~72),粟田口や清水坂・五条坂近辺の町内では,ほとんどの者が陶業に関わるようになり,陶工達は同業者団体である「焼屋中」を結成して,本格的な量産体制を整備していきます。
これによって五条坂のように新しく勃興してきた焼物は,その大衆性によって力を伸ばし,京都の焼物の中でも老舗で高級陶器を生産していた粟田焼にとっては大きな脅威となりました。そんな中,五条坂において粟田焼に似たものを低価格で産するようになったため,文政7(1824)年,焼物の独占権を巡って,粟田焼と五条坂との間で争論が起こりました。
江戸初期には,肥前有田(ありた,佐賀県西松浦郡有田地方)などにおいて,磁器の生産が盛んに行われ,それが多少のことでは割れないものだと評判を受けて以降,文化・文政期(1804~30)には,京都でも磁器の需要が一段と増加し,作風も仁清風のものから有田磁器の影響を受けた新しい意匠へと展開します。
京都において最初に完全な磁器製造を成し遂げた先駆者が奥田頴川(おくだえいせん,1753~1811)です。頴川の門人には青木木米を筆頭に仁阿弥道八,青磁に独自の手腕をみせた欽古堂亀祐(きんこどうきすけ,1765~1837)ら俊秀が多く,この後,京都の焼物界は最盛期を迎えることになります。しかし,幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下することになります。
幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われ,明治3(1870)年には六代目錦光山宗兵衛(きんこうざんそうべえ,1824~84)によって制作された「京薩摩」(きょうさつま)が海外で大きく評価されました。
しかし,昭和初期の不況によって,工場機能はほとんど停止してしまい,その後,粟田焼は衰退へとむかいます。一方,清水五条坂でも輸出用製品を生産しますが,これも成功を見ることが出来ませんでした。
本作品に銘のある「暁山」についてですが、暁山焼は1711年(正徳元年)粟田に一文字屋が開窯しています。
1805年(文化2年)青蓮院宮粟田口御所御用焼物師として出入りを許され「暁山」銘を拝領しています。 暁山本家が1877年(明治10年)絶家となるにあたり、親交のあった近江屋長兵衛に「暁山」の号を託し以来岡田暁山として受け継ぎます。
近江屋長兵衛は近江の出身で清水・五条に窯を開き、1798年(寛政10年)には焼物問屋も創業し屋号を近江屋と称しておりました。1886年(明治19年)には五条地区に巽組合を設立、五条坂に陶磁器の蒐集場を設立。1902年(明治35年)錦窯を築き上絵付け加工販売も始め海外にも輸出を始めました。第二次大戦後には、7代暁山が特に輸出に力を入れ海外に暁山銘の京薩摩焼を広めましたが、上記同様衰退していきます。
本日はここまで、さて本作品が上記の中でどの時期に属する作品なのかはこれから小生の課題です・・・・
展示室の片隅には仏壇があり、さらに茶室には観音様を置きました。
廊下の展示室には神様が鎮座しています。
ついでに展示替えも紹介します。
さて本日の作品の紹介です。
京焼の粟田焼系統と思われる作風の作品は本ブログで幾点か紹介しています。正直なところ、当方ではこの系統の陶器がいつの時代のもので、京焼においてどのように分類されるものかは詳しくありません。
ただ上記写真の右奥の「帯山」の銘のある湯飲みは当家に古くから伝わる作品です。当方で洗っているときに割ってしまい、金繕いで補修しています。
この系統の作品は、他にも下記の作品があります。
ちょっと作風の違う作品では下記の作品があります。
このような作行を「堆朱手」と呼ぶのでしょうか?
本日は上記写真の湯飲みを破損したこともあり、同手の作品を入手したので紹介します。下地の色が今回の作品のほうが黒く、印銘は「暁山」で、割れた補修の跡のある作品は「帯山」とされています。
本日紹介する作品は上記写真の右の作品です。
粟田焼 湯飲み 暁山焼
暁山銘 誂箱
口径90*高台径45*高さ65
ここで「古清水焼」という焼き物についての定義を整理してみました。
「古清水」という名称は、制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前のまた、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。
一般的には、野々村仁清以後 奥田穎川(1753~1811年)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称します。なお、京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。
野々村仁清(1656~57年 明暦2‐3年)が本格的な色絵陶器を焼造した。その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水(こきよみず)〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成されました。
古清水焼と近代の焼き物と見分け方ですが、近現代の釉薬は大変透明感が強くさらさらしており、文様が緑色の下に生地の貫入が透けて見えています。清水焼は清潔感のあるもの、きれいなものというイメージが出来上がり、現代の清水焼の釉薬になった感があります。古いものはそのようなことはなく、ねっとりとした不透明で盛り上がり感があります。古い赤はもっとどす黒さに近い濃い赤。土は硬くてすべすべしているが、本来古清水の土というのは卵色で、そこに時代の錆び・汚れがついてなんとなくぬくもりがするものです。高台の裏などに窯印はなく、窯印のあるものは古清水焼より若い物と区別できます。
粟田口の窯にはじまる京都の焼物は,金森宗和(1584~1656)の指導のもと,御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(ののむらにんせい,生没年未詳)によって大きく開花します。仁清は,粟田口で焼物の基礎を,瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学びました。また当時の京都の焼物に見られた新しい技法である色絵陶器の完成者とも言われています。その後,寛永期(1624~44)に入ると,赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは,仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ,これらの作品は後に「古清水」と呼ばれるようになります。
本日の作品が分類されるであろう栗田焼についてです。
それまで,大名や有名寺社等に買い取られていた粟田焼などの京都の焼物は,万治年間(1658~61)ごろから町売りがはじめられ,尾形乾山(おがたけんざん,1663~1743)の出現によって画期をむかえることとなります。乾山は,正徳2(1712)年より二条丁字屋町(中京区二条通寺町西入丁子屋町)に窯を設けて焼物商売をはじめており,その清新なデザインを持つ食器類は,「乾山焼」として,世上の好評を博しました。しかし,この乾山焼は,まだまだ庶民の手が届くものではなく,多くは公家や豪商などの間で売買されていました。
町売りが主流となりつつあった明和年間(1764~72),粟田口や清水坂・五条坂近辺の町内では,ほとんどの者が陶業に関わるようになり,陶工達は同業者団体である「焼屋中」を結成して,本格的な量産体制を整備していきます。
これによって五条坂のように新しく勃興してきた焼物は,その大衆性によって力を伸ばし,京都の焼物の中でも老舗で高級陶器を生産していた粟田焼にとっては大きな脅威となりました。そんな中,五条坂において粟田焼に似たものを低価格で産するようになったため,文政7(1824)年,焼物の独占権を巡って,粟田焼と五条坂との間で争論が起こりました。
江戸初期には,肥前有田(ありた,佐賀県西松浦郡有田地方)などにおいて,磁器の生産が盛んに行われ,それが多少のことでは割れないものだと評判を受けて以降,文化・文政期(1804~30)には,京都でも磁器の需要が一段と増加し,作風も仁清風のものから有田磁器の影響を受けた新しい意匠へと展開します。
京都において最初に完全な磁器製造を成し遂げた先駆者が奥田頴川(おくだえいせん,1753~1811)です。頴川の門人には青木木米を筆頭に仁阿弥道八,青磁に独自の手腕をみせた欽古堂亀祐(きんこどうきすけ,1765~1837)ら俊秀が多く,この後,京都の焼物界は最盛期を迎えることになります。しかし,幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下することになります。
幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われ,明治3(1870)年には六代目錦光山宗兵衛(きんこうざんそうべえ,1824~84)によって制作された「京薩摩」(きょうさつま)が海外で大きく評価されました。
しかし,昭和初期の不況によって,工場機能はほとんど停止してしまい,その後,粟田焼は衰退へとむかいます。一方,清水五条坂でも輸出用製品を生産しますが,これも成功を見ることが出来ませんでした。
本作品に銘のある「暁山」についてですが、暁山焼は1711年(正徳元年)粟田に一文字屋が開窯しています。
1805年(文化2年)青蓮院宮粟田口御所御用焼物師として出入りを許され「暁山」銘を拝領しています。 暁山本家が1877年(明治10年)絶家となるにあたり、親交のあった近江屋長兵衛に「暁山」の号を託し以来岡田暁山として受け継ぎます。
近江屋長兵衛は近江の出身で清水・五条に窯を開き、1798年(寛政10年)には焼物問屋も創業し屋号を近江屋と称しておりました。1886年(明治19年)には五条地区に巽組合を設立、五条坂に陶磁器の蒐集場を設立。1902年(明治35年)錦窯を築き上絵付け加工販売も始め海外にも輸出を始めました。第二次大戦後には、7代暁山が特に輸出に力を入れ海外に暁山銘の京薩摩焼を広めましたが、上記同様衰退していきます。
本日はここまで、さて本作品が上記の中でどの時期に属する作品なのかはこれから小生の課題です・・・・