本日は浜田庄司の柿釉薬をメインとした作品の紹介です。
鐵絵の茶碗と柿釉赤絵扁壺の2作品です。どちらも浜田庄司としては代表的な作例ですが、その中でもとくにその造形と釉薬において抜きんでている作品だと思います。本日のこの2作品はともに三越本店からの購入作品です。
花入には前の作品と同じく庭に咲いていた牡丹の花を活けてみました。
堂々とした作品には堂々とした花が良く似合います。浜田庄司の作品における釉薬と同じく見れば見るほど牡丹もまた魅力に溢れています。
まずは鐵絵の茶碗です。形が非常に優雅です。
鐵繪茶碗 その2 浜田庄司作(茶碗 その4)
共箱
高さ88*口径138*高台径60
使いやすい器形になっている茶碗ですが、このことが茶碗では一番大切でですね。
灰釉薬がまるで李朝の茶碗と同じく肌色に近い変化とかいらぎ状の変化を見せています。とくに灰釉が濃く掛かった部分はまるでその絵付けがされたかのようになっています。
鐵絵の色の変化、素早い筆の走りが洒脱です。
現在のいかなる益子焼もこの釉薬と絵付けを再現できていません。とくに同じ釉薬でありながら、薄い部分、濃く掛かった部分、そしてかいらぎ状になった部分が各々見どころのところにキチンとその魅力が出ています。
李朝を意識していた浜田庄司の真骨頂といえる作品です。
見込み内も茶碗としての魅力を十二分に表しています。
高台内もお見事・・、高台はつかみやすいことが一番大切・・。
作品についてはなるべくその入手経路はきちんとしておくといいでしょうが、ほとんどの場合引き継いだ人はその経路を知る術がないことが多いものです。
この作品は上記のように入手時の三越での写真と三越のシールが遺されています。
父母の時代は郷里から上京して祖父の会社の寮に宿泊して三越で買い物をするのが常であったようです。このような入手経緯や作品の記録は今はパソコンにデータで遺すことも、作品に資料を添付することも、さらにはこうしてブログにデータを遺してどこでも検索で切る時代ですので便利になったものです。
さて次は花入ですが、この赤絵は沖縄時代と違った熟練の境地にあるものですすが、浜田庄司の作品でいつも驚かされるのは抜群のそのバランス感覚です。
柿釉赤絵扁壺 「春去春来」 浜田庄司作
共箱
作品サイズ:高さ200*幅173*奥行100
湾曲した局面に平らな面を取り更に文字を書くという幾重にも矛盾したことを絶妙な技術の組合せでやってのけ太古から存在してきた形であるかのような安定感を感じさせます。
やっていることは人為の極致なのに恰も自然の造形物のような既視感に包まれ、周囲に溶け込み違和感がありません。柿釉の上りもよく赤、緑の発色も申し分のない佳作といえる作品です。
「春去春来」・・・、浜田庄司の茶碗や他の花入にも見かける字句ですが、本作品がもっとも出来の良い作品でしょう。
永劫に繰り返す季節の中のちっぽけな自分にも気付かされる言葉です。柳宗悦の言葉で「何処トテ 御手の真中ナル」(ドコトテ ミテノマナカナル )を想起させますね。
どちらの言葉も、自分が中心なのではなく、自分は小さな存在で、自分ではないものの意味の大きさを認めています。
「他力の美」にも通じるそんな哲学を見事に具現化している作品ではないでしょうか。この字句がこの花入に風格を与えています。
ところで浜田庄司の著書に「私の陶芸の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり沖縄で学び、益子で育った。」というのがあります。やはり最晩年の益子で作った作品が浜田庄司の最高峰と言えるでしょう。
ついでながら次のような言葉も遺しています。「師匠はない方がいい。ぼくも師匠はない。自分のやりたいことがやれる。それが個性だ。河井寛次郎、バーナード・リーチらと友達になって今の自分になった。師匠に三年ついて習えば、師匠から脱皮するには六年はかかる。」喜寿記念に刊行した『濱田庄司七十七碗譜』の茶碗作りの一文の冒頭で、濱田庄司(1894~1978)はこのように回顧しています。門下にいた島岡達三に対して「君はいつも私と同じような作品を作ってばかりいてはだめだ。」と諭したことは有名な話です。
さてこちらも三越からの購入品です。残念ながら当時いくらで購入したのかは記録にありません。
当方でもそうなのですが、安かろうが高かろうがお値段は記録には残しづらいものです。
いずれ三越からの購入ですから、かなり当時としても高かったのであろうと想像されます。
箱には現在解るすべての情報が詰め込まれています。