ホワイトデーには二つ入手した話題の作品をお返しに・・。我が郷里から平壌オリンピック女子フィギアスケートの金メダリスト、ザギトワ選手にも送られた品ですが、人気高騰で品不足であったようです。
さて本日紹介するのは「古伊万里 くわらんか馬上杯」なる作品。もともとはおそらく仏器でしょうが、見立てで馬上盃として喜ばれているようです。深さがあり絵柄も珍しいようですが、残念ながら瑕があり、丁寧は金繕いが施されています。
古伊万里 くわらんか馬上杯
作品サイズ
高坏:口径65*高さ55*底径39
本来は対であった作品であろうと推察されます。仏器であったものは花入が多く、よく骨董店で見かけましたが、今はも見かけることが少なくなりました。小生もひとつ買ってあり、男の隠れ家のどこかにあるはずですが・・。今では対で遺っている作品は珍しいと思いいます。
くわらんか碗は以前にまとめて下記の三作品を投稿しています。「くわらんか」について復習してみると下記のとおりです。
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くらわんか碗(くらわんかわん):江戸時代の磁器製の普段使いの庶民の雑器。長崎県の波佐見焼、愛媛県の砥部焼、大阪府の古曽部焼などの製品が伝存。昔はくらわんか碗に、ご飯にかぎらず、汁物などをよそったり、酒を飲んだりするのに使用した。近年見直されている。また、上記を参考に作られたお碗で、くらわんか碗を称するものもある。
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*くわらんか碗は「くわらんか舟」で使われた器であるという限定されたものではないようです。
「くわらんか舟」については下記のとおりです。
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くらわんか舟:江戸時代、淀川を往来する大型船に対して飲食物を売っていた主に枚方地方の小舟のこと。貸食船(煮売船・にうりぶね)とも呼ばれ、公式には茶船と呼ばれていたが、くらわんか舟・食らわんか舟という俗称が定着した。
過書船は、大坂天満橋の八軒家船着場から京都の南、伏見豊後橋まで、淀川(10里13町27間)を、昼夜兼行で往来したが、荷物は200石ないし300石積で、旅船は30石が普通であったから三十石船ともいう乗り合い船であった。途中の船着き場には岡場所が多く下船者が多いため、「途中下船は切符無効」の賃銀制度が設けられ、とくに枚方宿は一番の盛り場であった。
枚方で停船しようとする三十石船に鍵爪をかけて近づき、飯や汁物、酒などの飲食物を販売していた小舟(店主2名乗船程度)が「くらわんか舟」と呼ばれていた。汁椀など食後の食器は要返却となる。「くらわんか」とは、この地方の方言で「喰わないのか」「喰うことも出来ないくらい銭を持っていないのか」と乱暴に言った言葉である(現在の河内弁では「食べへんのか」、「食わんのけ」に相当)。夜と昼とを問わず三十石船に近づき、乗客達に「くらわんか」と声を掛け販売していたことから「くらわんか舟」という名がついた。
様々な紀行文学に描かれ、東海道中膝栗毛にも「飯食はんかい。酒飲まんかい。サアサア、みな起きくされ。よう臥さる奴らぢゃな」などとがなり立てられた弥次が「イヤ、こいつらア、云はせておきゃア、途方もねえ奴らだ。横面張り飛ばすぞ」と立腹する場面がある。
元々は対岸の高槻の柱本が発祥といわれている。柱本の船頭たちは、大坂夏の陣などで徳川方の物資運搬に協力した功績で幕府から営業特権を与えられ茶船の商売を始めるようになり、後に対岸の枚方宿に移るようになった。またこの際、地元の乱暴な言葉遣いのまま飲食を売ってもかまわないという不作法御免の特権も与えられたため、身分の高い人に対しても「くらわんか」と叫ぶことが許されており淀川往来の名物となっていた。
こうした商売は淀川の水運が鉄道へと変わる明治頃まで続いていたが、今でも菓子の名などに「くらわんか」の名は残っている。この流れを汲む水上惣菜業者は各地で第二次世界大戦後まで残っていたと思われ、横溝正史の推理小説『トランプ台上の首』(1956年、事件発生は同年の東京の設定)にも事件の発見者として描かれている。
烏丸光広はその声を「くらはぬかくらはんかにはあかねども喰ふ蚊にあくる淀の明ぼの」と詠んだ。大衆文学では、その起源について、徳川家康の1587年(天正15年)6月の伊賀の難に付会させられ、「難波戦記」に、その由来が脚色された。
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釉薬を生掛けして小生した江戸中期の陶磁器群のことです。大量生産されましたが、船上から捨てられたので残っている作品は想像以上に少ないようです。それでも数が残っているので、良いもので数万円で買えるものです。
古伊万里くらわんか丸文茶碗
2.丸文 その1 :口径128*高さ58*高台径53
3.丸文 その2 :口径128*高さ60*高台径52
肌の色が白いのは「長崎県波佐見焼のくらわんか茶碗」ではなく、「伊万里焼のくらわんか丸文茶碗」として判別されるようです。
本投稿に掲載されている作品では「古伊万里くらわんか丸文茶碗」のひとつ(補修のないもの)が伊万里の作のようです。並べて比較すると良く解ります。
生掛けでボッテリとした肌に大きな丸文と小さな丸文が描かれていますが、大きな丸文内の斜線文は雨降り文.小さな丸文は塗りつぶしてありまが太陽の移動を表現しているのでしょうか?
見込み部の牡丹花文は印判のようです。
高台内には両作品とも何も書かれていません。
古伊万里くらわんか草文茶碗
1.草花文 :口径100*高さ53*高台径43
こちらは見込み内には何も描かれたおらず 高台内には方形枠内に「青」の字のような窯印があります。
近年まで二束三文であった品ですが、なぜかしら人気が出て数万円になってしまっています。ただこの手の作品も贋作が多いらしい・・・・。
さて本日紹介するのは「古伊万里 くわらんか馬上杯」なる作品。もともとはおそらく仏器でしょうが、見立てで馬上盃として喜ばれているようです。深さがあり絵柄も珍しいようですが、残念ながら瑕があり、丁寧は金繕いが施されています。
古伊万里 くわらんか馬上杯
作品サイズ
高坏:口径65*高さ55*底径39
本来は対であった作品であろうと推察されます。仏器であったものは花入が多く、よく骨董店で見かけましたが、今はも見かけることが少なくなりました。小生もひとつ買ってあり、男の隠れ家のどこかにあるはずですが・・。今では対で遺っている作品は珍しいと思いいます。
くわらんか碗は以前にまとめて下記の三作品を投稿しています。「くわらんか」について復習してみると下記のとおりです。
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くらわんか碗(くらわんかわん):江戸時代の磁器製の普段使いの庶民の雑器。長崎県の波佐見焼、愛媛県の砥部焼、大阪府の古曽部焼などの製品が伝存。昔はくらわんか碗に、ご飯にかぎらず、汁物などをよそったり、酒を飲んだりするのに使用した。近年見直されている。また、上記を参考に作られたお碗で、くらわんか碗を称するものもある。
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*くわらんか碗は「くわらんか舟」で使われた器であるという限定されたものではないようです。
「くわらんか舟」については下記のとおりです。
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くらわんか舟:江戸時代、淀川を往来する大型船に対して飲食物を売っていた主に枚方地方の小舟のこと。貸食船(煮売船・にうりぶね)とも呼ばれ、公式には茶船と呼ばれていたが、くらわんか舟・食らわんか舟という俗称が定着した。
過書船は、大坂天満橋の八軒家船着場から京都の南、伏見豊後橋まで、淀川(10里13町27間)を、昼夜兼行で往来したが、荷物は200石ないし300石積で、旅船は30石が普通であったから三十石船ともいう乗り合い船であった。途中の船着き場には岡場所が多く下船者が多いため、「途中下船は切符無効」の賃銀制度が設けられ、とくに枚方宿は一番の盛り場であった。
枚方で停船しようとする三十石船に鍵爪をかけて近づき、飯や汁物、酒などの飲食物を販売していた小舟(店主2名乗船程度)が「くらわんか舟」と呼ばれていた。汁椀など食後の食器は要返却となる。「くらわんか」とは、この地方の方言で「喰わないのか」「喰うことも出来ないくらい銭を持っていないのか」と乱暴に言った言葉である(現在の河内弁では「食べへんのか」、「食わんのけ」に相当)。夜と昼とを問わず三十石船に近づき、乗客達に「くらわんか」と声を掛け販売していたことから「くらわんか舟」という名がついた。
様々な紀行文学に描かれ、東海道中膝栗毛にも「飯食はんかい。酒飲まんかい。サアサア、みな起きくされ。よう臥さる奴らぢゃな」などとがなり立てられた弥次が「イヤ、こいつらア、云はせておきゃア、途方もねえ奴らだ。横面張り飛ばすぞ」と立腹する場面がある。
元々は対岸の高槻の柱本が発祥といわれている。柱本の船頭たちは、大坂夏の陣などで徳川方の物資運搬に協力した功績で幕府から営業特権を与えられ茶船の商売を始めるようになり、後に対岸の枚方宿に移るようになった。またこの際、地元の乱暴な言葉遣いのまま飲食を売ってもかまわないという不作法御免の特権も与えられたため、身分の高い人に対しても「くらわんか」と叫ぶことが許されており淀川往来の名物となっていた。
こうした商売は淀川の水運が鉄道へと変わる明治頃まで続いていたが、今でも菓子の名などに「くらわんか」の名は残っている。この流れを汲む水上惣菜業者は各地で第二次世界大戦後まで残っていたと思われ、横溝正史の推理小説『トランプ台上の首』(1956年、事件発生は同年の東京の設定)にも事件の発見者として描かれている。
烏丸光広はその声を「くらはぬかくらはんかにはあかねども喰ふ蚊にあくる淀の明ぼの」と詠んだ。大衆文学では、その起源について、徳川家康の1587年(天正15年)6月の伊賀の難に付会させられ、「難波戦記」に、その由来が脚色された。
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釉薬を生掛けして小生した江戸中期の陶磁器群のことです。大量生産されましたが、船上から捨てられたので残っている作品は想像以上に少ないようです。それでも数が残っているので、良いもので数万円で買えるものです。
古伊万里くらわんか丸文茶碗
2.丸文 その1 :口径128*高さ58*高台径53
3.丸文 その2 :口径128*高さ60*高台径52
肌の色が白いのは「長崎県波佐見焼のくらわんか茶碗」ではなく、「伊万里焼のくらわんか丸文茶碗」として判別されるようです。
本投稿に掲載されている作品では「古伊万里くらわんか丸文茶碗」のひとつ(補修のないもの)が伊万里の作のようです。並べて比較すると良く解ります。
生掛けでボッテリとした肌に大きな丸文と小さな丸文が描かれていますが、大きな丸文内の斜線文は雨降り文.小さな丸文は塗りつぶしてありまが太陽の移動を表現しているのでしょうか?
見込み部の牡丹花文は印判のようです。
高台内には両作品とも何も書かれていません。
古伊万里くらわんか草文茶碗
1.草花文 :口径100*高さ53*高台径43
こちらは見込み内には何も描かれたおらず 高台内には方形枠内に「青」の字のような窯印があります。
近年まで二束三文であった品ですが、なぜかしら人気が出て数万円になってしまっています。ただこの手の作品も贋作が多いらしい・・・・。