夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

資料的価値 三国志(仮題) 平福穂庵筆 明治10年(1877年)頃

2023-11-04 00:01:00 | 掛け軸
本日紹介する作品は当方で蒐集対象としてる郷里出身の画家「平福穂庵」の初期の作品と思われる作品です。子息の平福百穂の父にあたりますが、父子ともども郷里では著名な画家であり、贋作や模倣作品が多いのですが、筆致などから真作と判断しての入手です。


上記写真の奥は同じく郷里出身の画家「福田豊四郎」の昭和初めの頃の作品です。こちらも福田豊四郎の20歳頃の作で、修行時代の作とされるものです。

どちらの作品もインターネットオークションにて廉価にて入手した作品ですが、インターネットオークションの効用のひとつとして、このように金銭的な価格は低くても埋もれていた資料的価値高い作品を幅広く入手できる点だと思います。

資料的価値 人物図(仮題) 平福穂庵筆 明治初め頃
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:横460*縦1180 画サイズ:横240*縦360



平福穂庵(初期は菴)についての明治初期の各地への活動は下記のとおりです。

明治4年:秋田市土崎商家升屋に1年滞在
明治5年:北海道日高方面や函館(平福穂庵は北海道での作品は明治15年頃の作が多い)
明治6年:函館滞在の記録
明治7年:阿仁前田の庄司家にて数多くの作品を制作
明治9年:秋田県仙北の荒川鉱山をの仕事を請け負った盛岡の商人瀬川安五郎の仕事を手伝うことのより秋田へ行く機会が多くなる。パトロンであった同郷の呉服問屋小林文右衛門の紹介で秋田市の那波三郎右衛門家にも出入り。

まだ中央画壇に名を成す前なので秋田県や北海道などの地域での創作活動となっています。ちなみに平福穂庵が名を成す契機となったのは「乞食図」という代表作となった作品ですが、この作品は明治13年に描かれたものです。この作品は第3回秋田県勧業博覧会で1等賞となり、さらに明治15年の第1回内国絵画共進会で褒状を受賞しています。この作品を観た柴田是真が「田舎にこれほどの絵描きが居ようとは思わなかった。」と感嘆したそうです。この作品にはモデルがいて、郷里の角館の奇人「小野田弥六」という人物だそうです。また「乞食図」と題された作品は複数あります。



さらには平福穂庵というと有名な「乳虎図」という作品がありますね。さらに10年後の明治23年の第3回内国勧業博覧会に出品された作品で妙技二等賞を受賞しています。この作品も複数の作品が確認されていますが、この作品を最後に46歳にて秋田でなくなっています。



明治初期の頃の平福穂庵の落款の特徴は下記のとおりです。

号は初期に使われていた「文池」が姿を消し、「穂庵」の雅号となる。字の特徴のひとつとして「庵」の最終画の右に払う箇所が極端に跳ねることにあります。明治10年代にはこのハネが緩やかになっているのが多くなり、明治20年前後には90度前後の角度になっていきます。なお署名に「羽陰」と記されている作品には北海道にて制作された作品を中心に見られます。

同じく印章は下記のとおりです。

この頃に押印された印章は「穂葊」、「芸印」(?)、「平耘之印」、「平芸之印」とその種類は少ない。ただし「穂庵」には朱文、白文などの数種類あるようです。



賛には「□□□未(明治3年?) 春二月 穂庵筆」とあり印は朱文白長方印「穂菴(葊)」です。「未」が干支に関するもので、辛未なら明治3年、癸未なら明治16年なのですが・・・??? その以前やその後というのはあり得ない。



まだまだ不明な点も多々ありますが、対象が何を描いたのかも解っていません。唐人や北海道の道士、アイヌ?かもしれませんね。なにしろこの頃に平福穂庵は北海道にながらく滞在してます。



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