当方では金城次郎の作品においては、まだ刻銘のない初期の頃(壺屋時代、無銘時代)の作品で、しかも大きめの作品を蒐集します、もしくは蒐集していました。絵として描いた作品は珍しく、その初期の作ではないにしろ、この色紙の絵柄に興味を持って購入した作品です。
魚海老文図 金城次郎作
縦240*横265(色紙)
もともとは上記写真の額でしたが、貧相なので額は別なものにしています。なお色紙の額はいいものを揃えておきましょう。古い額ほどいいものがあります。インターネットオークションでじっくり探してみると1000円以下でかなりいい額が揃います。
*色紙の額はいい額を空額にて揃えておけばよく、色紙自体はタトウに入れて収納しています。
金地の色紙に描かれています。
印章から晩年に描いた作品かもしれませんね。
色紙などはその作品ごとに額に入れていると保管スペースが必要となりますので、色紙タトウに整理しています。
タトウなどは鳩居堂から・・・。
額裏に貼られていた説明のシールは剥がしてタトウに張り付けています。このような金城次郎の色紙は民芸店で数多く売られていたのでしょう。
金城次郎の陶器の作品には魚や海老が主に描かれています。当方でも何点か所蔵しているので、飾ってみました。
*下記写真の作品は壷屋時代の作と推定されます。
初期の頃の金城次郎の作品では見るべきものとして、大きめの作品があります。皿なら径が40センチを超えるもの、ツボなら高さ30センチを超えるものにいい作品があります。とくに銘のない頃(無銘時代)の作品が優品だと思っています。
**比較としおて下記の大皿の作品は読谷時代の作か? 釉薬が安定していますが、1978年(昭和53)高血圧で倒れ入院後はリハビジに励みながらの作陶となり、これ以降は大皿などの大きな作品は見られないようです。つまり1975年頃の作かな? むろん共箱はありません。
1925年、13歳で陶工として新垣栄徳に師事し、この年に民芸運動を展開していた濱田庄司と出会っています。民芸運動の中心人物である柳宗悦の影響を強く受け、製作に反映させていきます。太平洋戦争中は制作活動を中断しました。
***下記の作品は壺屋時代の後半かな? 銘があります。
1946年(昭和21年) 那覇市壺屋に自らの工房を開いて、新垣栄徳の窯を共同使用しました。沖縄伝統の技術と技法を受け継ぐ壺屋で作陶した初期作品は、濱田庄司や河井寛次郎らに激賞されたことは有名です。その後に濱田庄司、河井寛次郎らの指導の元で壺屋焼を守り発展に努めています。
*盟友浜田庄司の作品とともに展示して愉しんでいます。
**浜田庄司の作品は晩年の作が最高峰、金城次郎は初期の頃が最高峰、対照的ですね。
金城次郎が戦後すぐに独立してから1960年代前半までの最初期の作品はほとんど入手することができないとされています。共箱などは無論のこと、彫銘もない作品であり、さらには窯傷があっても市場に出回るような作品群でした。
著名になるにつれて共箱や彫銘が入るようになって、 1972年の沖縄返還の年に、都市化により登り窯から出る煙の公害問題が起きていた壺屋から、活動拠点を読谷村に移してからは、病気もあり手頃な大きさの作陶が中心になりました。
*共箱の箱書などもいい加減で自分で書いていたかどうかも解らないとされています。
****下記の茶碗ふたつは壺屋時代後半かな?
ふたつの作品ともに高台内に「次」と刻銘がなされています。外側にかわいらしい魚と海老が描かれた金城次郎の佳作。外部は刷毛目、見込みは適切な趣の灰釉であり、茶碗として用いるのには趣のある佳作と言えるでしょう。文様の釉薬に不安定さがあることから壺屋時代の作と推定されますが、高台内に彫銘(掻銘)があることから壺屋時代(無銘時代)後半の読谷に移住する前に近い時期の作と思われます。
金城次郎の茶碗は共箱に納まった読谷時代になるほどいいものはありません。
新たな窯の影響もあるのでしょうが、茶碗としての味が釉薬が安定することで趣が少なくなっています。おそらく本人自身が一番解っていたのでしょう。
*1972年那覇市内で薪を使う登り窯の使用が不可能になると、金城次郎はガス窯では自分の焼物が作れないと、登り窯が焚ける場所を求めて壺屋から読谷村に移住しています。ガス窯による器面上の`つや'を気にしていたようだとされます。本作品はそのような試行錯誤の頃の作品かもしれません。下の写真右はもしかしたらガス窯の焼成によるものかもしれません。
*本日の色紙の作品入手したことで、「海老と魚の両方」が描かれた作品を展示室に飾っています。
金城次郎の作品は共箱、銘のある作品ばかりが重宝されますが、本人自身は箱書きなど不要と考えていたのか、箱書きの文字が統一されていません。さらに箱書や銘は数人の他人に任せていた可能性があると言われています。本当のファンは壺屋時代の無銘作品を求めてやまないのでしょう。
日本人は共箱や銘のある作品を異常に好みますが、それは贋作や模倣品への恐れに起因するのかもしれません。そのことは本来の審美眼が薄れている、作品を金銭に置き換えているという兆候なのでしょう。「いいものはいい」という頑固さが美の伝承には必要だと思っています。
「本当の審美眼」・・・・、当方にもまだまだ道のりは長い😩