先週中にお雛様の片づけ・・。母子で一生懸命ですね。ところでお雛様・・、いったい当方でいくつお雛様のセットであるのだろう? 興味がないので男の隠れ家に仕舞ったままのなっています。
さて本日紹介するのは最近話題になった「窯変茶碗」・・、もとい話題になったのは「窯変天目茶碗」。なんでも鑑定団の「窯変天目茶碗」はあまりいいものとは思えないと小生は判断していますが・・・。
さて壺屋三人男と称される小橋川永昌、新垣栄三郎、金城次郎のうち、小橋川永昌の仁王窯と新垣栄三郎の新垣窯において両氏は窯変を得意としていたそうです。当時は窯変作品が良く売れたこともあったようです。
壺屋焼 窯変茶碗 新垣栄三郎作 その8
共箱
口径122~126*高台径54~55*高さ82
新垣栄三郎の窯変作品は東ヌ窯(登窯)かガス窯において焼成されたそうですが、その特定の窯でも100個に1個しかできないという希少価値のある窯変のお茶碗だそうです。
共同窯ゆえ窯の位置は抽選となり、中でも1番目と2番目の窯の袋は温度が上がらず焼成しにくいので皆が好まない場所なのですが、栄三郎は皆と逆で、1,2番目の袋に当たると喜んでいた。何故かというと、窯変が非常に出やすいからです。(以上は子息である新垣勲の談によります。)
東ヌ窯:1682年に首里王府の政策により本島内にあった3つの窯場が統合され、その中でも新垣家は中心的な役割を果たしてきた。それから1974年までは実際に使われていた共同窯です。東ヌ窯は国の重要文化財にも指定されているが、東ヌ窯は2009年、雨に耐え切れず全壊。2015年には復旧完了しており、再度窯を焚こうという動きがある。
箱書きは下記のとおりです。
実際に茶事に使われていた可能性をうかがわせる紙が貼られています。
高台内には彫銘がありますが、あまり例のない彫銘ですが、真作であろうと判断しています。過渡期における彫銘(「栄三郎」彫銘→「シ」の字のような彫銘)ではないかと推察してます。
新垣栄三郎の茶碗は本ブログですでに紹介されている下記のような作品が代表例です。。
壺屋焼 赤絵茶碗 新垣栄三郎作 その7
合箱
口径130*高台径60*高さ80
二つ並べるとまったく違う作風ですね。「窯変茶碗」・・・、きたないさそうという評価がありそうですが、陶磁器に詳しい人なら、この釉薬の変化に面白みを見出すでしょう。ただ茶席で使える茶碗かどうかは別問題です。
下記の記事はなんどか投稿している「新垣栄三郎」の投稿記事で紹介していますが、「窯変」についても記されていますので参考にしてください。
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新垣栄三郎:1921年(大正11年)に生まれ。13歳の頃にはロクロの仕事をし、一中(首里高校)を卒業後、濱田庄司、河井寛次郎両氏の元で1年間修行している。しかし、父栄徳は焼物よりももっと待遇のいい仕事に就かせたかったようで、教員の仕事を息子に望み、栄三郎は台湾の学校を卒業して教職に就いていた。
父栄徳が亡くなった後、壺屋小学校での仕事を最後に、教職を辞め、本格的に作陶を開始。沖展や国画展などに出品し、金城次郎と二人展を開始。1961年から琉球大学で教鞭を執り、工房では分業制を確立していた。
長男勲はロクロや壺作りを専門とし、次男の修はお皿や湯呑み、三男の勉も同じようにロクロ物を中心に製作、その時、太郎という職人がおり、彼は土作りと抱瓶、角瓶などの型物を製作、菊おばさんは線彫の加飾を中心にしています。染め付けは栄三郎の奥さんが行っていた。窯詰めはハルおばさんで、ハルおばさんは時間が空くと抱瓶などを製作、一さんは小さな楊枝壺と土練機の担当、娘の紀美江は主に販売だった。壺屋ではどの工房も家内工業でしたので、従業員もほとんどいない。新垣栄三郎は家族で分業を行っていた。
1人が同じものをたくさん作っているので、ひとつとしておかしい製品は出てこない、素晴らしい製品を作り出した。それは化粧の細かさ、形の端正さに現れている。一日おきに窯を焚いていたので生産量もすごかったと推測され、壺屋に組合の販売店が出来た頃、新垣製陶所の売上は組合の半分近い量を誇っていた。それだけ新垣の窯では、安定したシステムの中で、品質が端正で綺麗な製品が作られていた。
模様についてサトウキビをアレンジした文様が特徴で、濱田庄司の黍文と同じように、たくさん使われたデザインが非常に特徴的。このような文様を多く描き、非常にモダンで幾何学的である。形態的にはユシビン等に見られるように、叩いて、もしくは削って面取りをして、そこに模様を描くというのが、栄三郎ならではの形態の特徴である。この辺りは、濱田庄司の影響もあるのかと思われるが、さらに国画会の会員でもあるので、そういった影響もあるかと思われる。
線彫、赤絵、飛び飽という技法の併用も見られ、全体的にみて非常にモダンな、ごちゃごちゃしていない、どちらかというと壺屋では書きたがる傾向にあるが、栄三郎の作品は全体にすっきりしている抽象的な文様を描いている。具象物が少なく、仁王(永昌)は鳥や花などにしても、具象的に描くが、栄三郎は抽象的な文様を描いている。栄三郎は電動のロクロは使わず、亡くなるまで蹴ロクロで作陶されていた。ロクロの技術がとても素晴らしく、非常に手が細かく、緻密な仕事をしている。
バーナード・リーチの赤絵の作品は、新垣栄三郎の窯のフースー窯で焼いており、バーナード・リーチが絵付けを行った皿は、新垣栄三郎が作つたもので、この窯でのバーナード・リーチの作品は全部栄三郎が作った皿である。
浜田庄司は、新垣の工房でロクロを引いて作品を作っている。浜田庄司は赤絵の作品も新垣で焼いている。浜田庄司の沖縄での作品はフースー窯もガス窯も両方ある。
浜田庄司が沖縄に来ると、たくさんの人がぞろぞろとついてきて、いろいろなことを聞いたりした。濱田先生が新垣栄三郎の窯でお昼休みをしていると、たまたま栄三郎の抹茶茶碗を買った客が箱書きがない、困ったなあと言っているところへ、浜田庄司が「では、私が箱書きを書いてあげましょう」と箱書きをしたことがある。客はこの茶碗より箱書きの方が大事だと言って喜んだそうである。ところで仁王窯では小橋川秀義さんという方がほとんど書いています。製品が売れると、秀義さんを捜しに壺屋を探し回ったという逸話がある。
仁王窯も窯変を得意としているが新垣もおなじである。窯変の製品はよく売れたことから新垣栄三郎は、窯の特性をしっかり使いこなして美しい窯変を出している。美しい窯変の作品の色の出方は100個の中の1個と言われている。仁王窯の窯変と新垣の窯変は、同じ釉薬を使っても出方は違っている。
新垣栄三郎は練り込みの作品を制作していが、これは方言ではムンマジリーという。赤と白の土を混ぜ合わせて、その土をロクロでひくが、これがうまく模様として出るかというと、それは大変難しいが、新垣栄三郎は非常に素晴らしい作品として仕上げている。また白化粧を行った後、線彫や掻き落としで模様をつけてシンプルで何とも言えない美しい作品をつくるなど、栄三郎の作品には。非常にバランスがいい。
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「仁王窯も窯変を得意としているが新垣もおなじである。窯変の製品はよく売れたことから新垣栄三郎は、窯の特性をしっかり使いこなして美しい窯変を出している。美しい窯変の作品の色の出方は100個の中の1個と言われている。仁王窯の窯変と新垣の窯変は、同じ釉薬を使っても出方は違っている。」・・・、「美しい窯変」という評価には意見が分かれるところかもしれませんが・・・・。
もうひとつ新垣栄三郎の「窯変茶碗」がありますので、後日また。
さて本日紹介するのは最近話題になった「窯変茶碗」・・、もとい話題になったのは「窯変天目茶碗」。なんでも鑑定団の「窯変天目茶碗」はあまりいいものとは思えないと小生は判断していますが・・・。
さて壺屋三人男と称される小橋川永昌、新垣栄三郎、金城次郎のうち、小橋川永昌の仁王窯と新垣栄三郎の新垣窯において両氏は窯変を得意としていたそうです。当時は窯変作品が良く売れたこともあったようです。
壺屋焼 窯変茶碗 新垣栄三郎作 その8
共箱
口径122~126*高台径54~55*高さ82
新垣栄三郎の窯変作品は東ヌ窯(登窯)かガス窯において焼成されたそうですが、その特定の窯でも100個に1個しかできないという希少価値のある窯変のお茶碗だそうです。
共同窯ゆえ窯の位置は抽選となり、中でも1番目と2番目の窯の袋は温度が上がらず焼成しにくいので皆が好まない場所なのですが、栄三郎は皆と逆で、1,2番目の袋に当たると喜んでいた。何故かというと、窯変が非常に出やすいからです。(以上は子息である新垣勲の談によります。)
東ヌ窯:1682年に首里王府の政策により本島内にあった3つの窯場が統合され、その中でも新垣家は中心的な役割を果たしてきた。それから1974年までは実際に使われていた共同窯です。東ヌ窯は国の重要文化財にも指定されているが、東ヌ窯は2009年、雨に耐え切れず全壊。2015年には復旧完了しており、再度窯を焚こうという動きがある。
箱書きは下記のとおりです。
実際に茶事に使われていた可能性をうかがわせる紙が貼られています。
高台内には彫銘がありますが、あまり例のない彫銘ですが、真作であろうと判断しています。過渡期における彫銘(「栄三郎」彫銘→「シ」の字のような彫銘)ではないかと推察してます。
新垣栄三郎の茶碗は本ブログですでに紹介されている下記のような作品が代表例です。。
壺屋焼 赤絵茶碗 新垣栄三郎作 その7
合箱
口径130*高台径60*高さ80
二つ並べるとまったく違う作風ですね。「窯変茶碗」・・・、きたないさそうという評価がありそうですが、陶磁器に詳しい人なら、この釉薬の変化に面白みを見出すでしょう。ただ茶席で使える茶碗かどうかは別問題です。
下記の記事はなんどか投稿している「新垣栄三郎」の投稿記事で紹介していますが、「窯変」についても記されていますので参考にしてください。
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新垣栄三郎:1921年(大正11年)に生まれ。13歳の頃にはロクロの仕事をし、一中(首里高校)を卒業後、濱田庄司、河井寛次郎両氏の元で1年間修行している。しかし、父栄徳は焼物よりももっと待遇のいい仕事に就かせたかったようで、教員の仕事を息子に望み、栄三郎は台湾の学校を卒業して教職に就いていた。
父栄徳が亡くなった後、壺屋小学校での仕事を最後に、教職を辞め、本格的に作陶を開始。沖展や国画展などに出品し、金城次郎と二人展を開始。1961年から琉球大学で教鞭を執り、工房では分業制を確立していた。
長男勲はロクロや壺作りを専門とし、次男の修はお皿や湯呑み、三男の勉も同じようにロクロ物を中心に製作、その時、太郎という職人がおり、彼は土作りと抱瓶、角瓶などの型物を製作、菊おばさんは線彫の加飾を中心にしています。染め付けは栄三郎の奥さんが行っていた。窯詰めはハルおばさんで、ハルおばさんは時間が空くと抱瓶などを製作、一さんは小さな楊枝壺と土練機の担当、娘の紀美江は主に販売だった。壺屋ではどの工房も家内工業でしたので、従業員もほとんどいない。新垣栄三郎は家族で分業を行っていた。
1人が同じものをたくさん作っているので、ひとつとしておかしい製品は出てこない、素晴らしい製品を作り出した。それは化粧の細かさ、形の端正さに現れている。一日おきに窯を焚いていたので生産量もすごかったと推測され、壺屋に組合の販売店が出来た頃、新垣製陶所の売上は組合の半分近い量を誇っていた。それだけ新垣の窯では、安定したシステムの中で、品質が端正で綺麗な製品が作られていた。
模様についてサトウキビをアレンジした文様が特徴で、濱田庄司の黍文と同じように、たくさん使われたデザインが非常に特徴的。このような文様を多く描き、非常にモダンで幾何学的である。形態的にはユシビン等に見られるように、叩いて、もしくは削って面取りをして、そこに模様を描くというのが、栄三郎ならではの形態の特徴である。この辺りは、濱田庄司の影響もあるのかと思われるが、さらに国画会の会員でもあるので、そういった影響もあるかと思われる。
線彫、赤絵、飛び飽という技法の併用も見られ、全体的にみて非常にモダンな、ごちゃごちゃしていない、どちらかというと壺屋では書きたがる傾向にあるが、栄三郎の作品は全体にすっきりしている抽象的な文様を描いている。具象物が少なく、仁王(永昌)は鳥や花などにしても、具象的に描くが、栄三郎は抽象的な文様を描いている。栄三郎は電動のロクロは使わず、亡くなるまで蹴ロクロで作陶されていた。ロクロの技術がとても素晴らしく、非常に手が細かく、緻密な仕事をしている。
バーナード・リーチの赤絵の作品は、新垣栄三郎の窯のフースー窯で焼いており、バーナード・リーチが絵付けを行った皿は、新垣栄三郎が作つたもので、この窯でのバーナード・リーチの作品は全部栄三郎が作った皿である。
浜田庄司は、新垣の工房でロクロを引いて作品を作っている。浜田庄司は赤絵の作品も新垣で焼いている。浜田庄司の沖縄での作品はフースー窯もガス窯も両方ある。
浜田庄司が沖縄に来ると、たくさんの人がぞろぞろとついてきて、いろいろなことを聞いたりした。濱田先生が新垣栄三郎の窯でお昼休みをしていると、たまたま栄三郎の抹茶茶碗を買った客が箱書きがない、困ったなあと言っているところへ、浜田庄司が「では、私が箱書きを書いてあげましょう」と箱書きをしたことがある。客はこの茶碗より箱書きの方が大事だと言って喜んだそうである。ところで仁王窯では小橋川秀義さんという方がほとんど書いています。製品が売れると、秀義さんを捜しに壺屋を探し回ったという逸話がある。
仁王窯も窯変を得意としているが新垣もおなじである。窯変の製品はよく売れたことから新垣栄三郎は、窯の特性をしっかり使いこなして美しい窯変を出している。美しい窯変の作品の色の出方は100個の中の1個と言われている。仁王窯の窯変と新垣の窯変は、同じ釉薬を使っても出方は違っている。
新垣栄三郎は練り込みの作品を制作していが、これは方言ではムンマジリーという。赤と白の土を混ぜ合わせて、その土をロクロでひくが、これがうまく模様として出るかというと、それは大変難しいが、新垣栄三郎は非常に素晴らしい作品として仕上げている。また白化粧を行った後、線彫や掻き落としで模様をつけてシンプルで何とも言えない美しい作品をつくるなど、栄三郎の作品には。非常にバランスがいい。
**********************************************
「仁王窯も窯変を得意としているが新垣もおなじである。窯変の製品はよく売れたことから新垣栄三郎は、窯の特性をしっかり使いこなして美しい窯変を出している。美しい窯変の作品の色の出方は100個の中の1個と言われている。仁王窯の窯変と新垣の窯変は、同じ釉薬を使っても出方は違っている。」・・・、「美しい窯変」という評価には意見が分かれるところかもしれませんが・・・・。
もうひとつ新垣栄三郎の「窯変茶碗」がありますので、後日また。
ご自愛くださいますように‼
まさか、花粉症にはなっていないでしょうね!
ところで、窯変茶碗にモネ・セザンヌの絵を思い出しました。美しい窯変ですね。
この窯変茶碗はひと目見たときは汚く感じますが、よく見ると味わいのある窯変となっています。モネ・セザンヌときましたか、印象派ですね、なるほどね。いい例えかも知れません。
出光美術館展示の色絵の一級品を観ると他がつまらなくなるという一面がありますね。
「色絵の一級品」どころか、御宝ですから、人形劇観覧のほうが比べるまでもなく格段の価値あり!と思いますよ!!