前にも述べましたようにコロナウイルスの影響でしょうか、めぼしい作品?の入手が難しくなっています。全くと言っていいほどいい作品が見当たりません。このままでは紹介する作品は整理中の作品のみとなり本ブログも打ち切りとなりそうです
とりあえずはこのような状況下でもネタ?のあるかぎりは、整理目的でつまらない記事ですが、淡々とブログの記事は投稿する気ではいます。
本日は加納鉄哉の2作品目の紹介です。近代木彫という範疇では加納鉄哉は見落とされがちですが、意外に人気が高い作品があります。
田村将軍 木彫彩色像 加納鉄哉作 明治40年作 その2
底彫銘 共箱 補修必要
作品サイズ:高さ310*幅135*奥行155
共箱裏には「丁未六月大吉日 寶藻庵主鉄哉拝施 押印」とあり、底には「鉄哉造拝」、「丁未年□□吉 以下不明」とあり、1907年(明治40年)加納鉄哉が63歳の作となります。
「寶藻庵」についての詳細は不明ですが、1921年(大正10年)に奈良の高畑にアトリエである「最勝精舎」を建てて本拠地とする前の工房と推定されます。
鉄哉のサインや落款は鉄哉にしか書けない字なのでこの字の書体が加納鉄哉の作か否かの決め手になります。この点は弟子の市川鉄琅(最近、「なんでも鑑定団」に出品作があります。)についても同様ですね。本ブログに投稿されている加納鉄哉、市川鉄琅らの作品はすべて真作です。
注目すべきは作品の箱書きは、「息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅に代筆で書いて貰っていた。」という文章が志賀直哉の小説中の記事にあります。つまり加納鉄哉本人ではなく、弟子の市川鉄琅が書いているらしい。前から感じていた共に箱書きが似ているということで納得・・・。
加納鉄哉の来歴は下記のとおりです。
************************************
加納鉄哉:彫刻家・画家。岐阜生。名は光太郎。1845年に岐阜で生まれ極貧生活を送る。父鶴峰に南画と彫刻を学び、出家して仏画の研究を修める。10代は寺で修行し独学で仏画を習得。還俗して鉄哉と号し、東京で佐野常民に見出され、鉄筆画という独自の技法で画と彫刻を業とする。明治天皇に業務を披露することもあったという。
和漢の古美術を研究し、奈良に住して庵を構え制作に明け暮れた。正倉院や法隆寺の宝物の模造など古典技法の修熟に努め、その技法は木彫・銅像・乾漆と多岐にわたった。大正14年(1925)歿、81才。
************************************
ご覧のように保存状態はよくありません。修理することを検討することになります。
************************************
補足
弘化2年(1825)、岐阜本町に生まれる。名は光太郎。家は幕末には奉行所の御用達を務めた名家であった。父・鶴峰から絵画と彫刻を学ぶが、少年時代に家は没落し、母が亡くなる。
14歳の時、長良崇福寺の住職が鉄哉を引き取り、数年間、僧の修行をした。その後、19歳で現在の美濃加茂市にある正眼寺に移る。明治元年に寺を出て還俗し、諸国を漫遊したと言われる。
明治7年ごろ東京に出て、しばらくは偽筆贋作で生活していた。ある時、パリ万博やウィーン万博の出品に関わった佐野常民に見出され、自宅に招き入れられる。鉄哉の師は、父・鶴峰に学んだ以外、あまり知られていないが、鉄筆画については、辻万峰(1825生)の影響を受けていると言われる。
鉄哉の名が世に出たのは、明治14年の第2回国内勧業博覧会への出品が入賞したのが最初らしい。古代芸術の調査、模写・模刻を通じてさらに技術を磨き、フェノロサ、岡倉天心らの古寺調査にも同行する。
明治22年、東京美術学校が開設された際、教諭を命じられるが、教えるよりも自らの創作活動を目指すためか、わずか2ヶ月で職を辞している。官職を離れてから、「唯我独尊庵主」を名乗り、制作に没頭している。
明治20年代の終わりからは、奈良で模作に励んだり、各界の有力者を顧客とした制作を行っている。落語家、講談師、歌舞伎界などにも交際が広がり、鉄哉作品の意匠は、若い時代から禅を学んだベースの上に築かれていったものと思われる。
晩年は、奈良に滞在して制作活動を続け、和歌山や大阪の顧客の為の作品が多い。鉄哉の人気は高く、大正9年には支援者らによる「鉄哉会」が設立され、その作品を入手するための会則が設けられたりした。大正14年、「売茶翁像」の完成後、病に臥せ、81歳の生涯を終えた
加納鉄哉については特別な研究機関はなく、「加納鉄哉展~知られざる名工~」(岐阜市歴史博物館図録)や「知られざる名工 加納鉄哉」(西美濃わが街386号)などがまとまった著作(西美濃わが街は現在は廃刊)です。
絵画や彫刻、古美術研究と調査・・・等、博学多才で加納鉄哉走られています。作家の志賀直哉は、大正14年、京都から奈良へ居を移していますが、この年、鉄哉は亡くなっていますが、志賀は生前の鉄哉の工房を訪ねているようです。
2年後、鉄哉をモデルにした短編小説「蘭齋没後」を発表していますが、鉄哉よりむしろ、息子の加納和弘や弟子の渡辺脱哉(だっさい)らと親交があったようです。脱哉とは「人間がぬけているから」という理由で、師匠の加納鉄哉によって付けられた号です。彼のキャラクターと数々のエピソードは、志賀の短篇「奇人脱哉」に見る事ができます。「牙彫出身の脱哉は、水牛角の干鮭の差根付を唯一の得意とし、銘は鉄哉が入れていた。」とか、「それは30円で毎月一つつくれば生活が出来た。」とか、又、作品の箱書きは、「息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅に代筆で書いて貰っていた。」等、興味深い話ばかりです。そこには一貫して、志賀の、脱哉へ向けたあたたかな眼差しが感じられるものです。
加納銕哉は、1921年(大正10)に奈良の高畑にアトリエである「最勝精舎」を建てて、本拠地としました。この工房兼住居は2度の移転を止むなくし、銕琅によって受け継がれましたが、銕琅の死後はその保存は断念せざるを得なませんでした。
志賀直哉曰く「職人気質の名工」と称え、気風闊達、野の人でもありました。天長節(天皇誕生日)には、必ず赤飯を作り祝うことを忘れなかった銕哉でしたが、一方悪戯半分に自他を問わず贋作を作るという茶目っ気もありました。そのうち、“贋銕哉”も出現するはめになることになり、弟子の銕琅を悩ませるくらいだったそうです。
************************************
彫られているのはご存知、「坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)」の像です。坂上田村麻呂は、平安時代の公卿、武官で名は田村麿とも書きます。
*ただ共箱の表は判読が難しいです。「田村将軍像 春日社? 」以下は判読不能です。
坂上田村麻呂は4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて蝦夷征討に功績を残しています。薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍し、死後は平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて武神や軍神として信仰の対象となりました。
現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出されています。むろん神格化され多くの神社の祀られています。
さて神をおろそかにしてはいけません・・・。
PS.加納銕哉作の「田村将軍木彫」の作品は複数存在しますが、現在では完品は非常に少ないようです。多くは共箱でなかったり、本体(弓、刀、矢)に欠損がありますが、本作品のように色彩のみの欠損のほうが修理しやすいかもしれません。
加納銕哉、市川銕琅の作品の修復をしてきましたが、今回で3作品目の修復となります。
上記写真:後方の丸い作品が加納銕哉作を修復した作品、前方の「福の神」の作品が市川銕琅作を修復した作品です。
PS.本日紹介した作品の修復費用の見積がなんと18万円強・・・ はてさて再度交渉するか、当方は中途半端は嫌いなので、あきらめて破棄処分するか・・。
→後日の交渉の結果11万円で修理を依頼することになりました。おそらく修理には3か月から半年かかるかもしれません。む~、神はおろそかにしてはいけません、高くつきます
とりあえずはこのような状況下でもネタ?のあるかぎりは、整理目的でつまらない記事ですが、淡々とブログの記事は投稿する気ではいます。
本日は加納鉄哉の2作品目の紹介です。近代木彫という範疇では加納鉄哉は見落とされがちですが、意外に人気が高い作品があります。
田村将軍 木彫彩色像 加納鉄哉作 明治40年作 その2
底彫銘 共箱 補修必要
作品サイズ:高さ310*幅135*奥行155
共箱裏には「丁未六月大吉日 寶藻庵主鉄哉拝施 押印」とあり、底には「鉄哉造拝」、「丁未年□□吉 以下不明」とあり、1907年(明治40年)加納鉄哉が63歳の作となります。
「寶藻庵」についての詳細は不明ですが、1921年(大正10年)に奈良の高畑にアトリエである「最勝精舎」を建てて本拠地とする前の工房と推定されます。
鉄哉のサインや落款は鉄哉にしか書けない字なのでこの字の書体が加納鉄哉の作か否かの決め手になります。この点は弟子の市川鉄琅(最近、「なんでも鑑定団」に出品作があります。)についても同様ですね。本ブログに投稿されている加納鉄哉、市川鉄琅らの作品はすべて真作です。
注目すべきは作品の箱書きは、「息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅に代筆で書いて貰っていた。」という文章が志賀直哉の小説中の記事にあります。つまり加納鉄哉本人ではなく、弟子の市川鉄琅が書いているらしい。前から感じていた共に箱書きが似ているということで納得・・・。
加納鉄哉の来歴は下記のとおりです。
************************************
加納鉄哉:彫刻家・画家。岐阜生。名は光太郎。1845年に岐阜で生まれ極貧生活を送る。父鶴峰に南画と彫刻を学び、出家して仏画の研究を修める。10代は寺で修行し独学で仏画を習得。還俗して鉄哉と号し、東京で佐野常民に見出され、鉄筆画という独自の技法で画と彫刻を業とする。明治天皇に業務を披露することもあったという。
和漢の古美術を研究し、奈良に住して庵を構え制作に明け暮れた。正倉院や法隆寺の宝物の模造など古典技法の修熟に努め、その技法は木彫・銅像・乾漆と多岐にわたった。大正14年(1925)歿、81才。
************************************
ご覧のように保存状態はよくありません。修理することを検討することになります。
************************************
補足
弘化2年(1825)、岐阜本町に生まれる。名は光太郎。家は幕末には奉行所の御用達を務めた名家であった。父・鶴峰から絵画と彫刻を学ぶが、少年時代に家は没落し、母が亡くなる。
14歳の時、長良崇福寺の住職が鉄哉を引き取り、数年間、僧の修行をした。その後、19歳で現在の美濃加茂市にある正眼寺に移る。明治元年に寺を出て還俗し、諸国を漫遊したと言われる。
明治7年ごろ東京に出て、しばらくは偽筆贋作で生活していた。ある時、パリ万博やウィーン万博の出品に関わった佐野常民に見出され、自宅に招き入れられる。鉄哉の師は、父・鶴峰に学んだ以外、あまり知られていないが、鉄筆画については、辻万峰(1825生)の影響を受けていると言われる。
鉄哉の名が世に出たのは、明治14年の第2回国内勧業博覧会への出品が入賞したのが最初らしい。古代芸術の調査、模写・模刻を通じてさらに技術を磨き、フェノロサ、岡倉天心らの古寺調査にも同行する。
明治22年、東京美術学校が開設された際、教諭を命じられるが、教えるよりも自らの創作活動を目指すためか、わずか2ヶ月で職を辞している。官職を離れてから、「唯我独尊庵主」を名乗り、制作に没頭している。
明治20年代の終わりからは、奈良で模作に励んだり、各界の有力者を顧客とした制作を行っている。落語家、講談師、歌舞伎界などにも交際が広がり、鉄哉作品の意匠は、若い時代から禅を学んだベースの上に築かれていったものと思われる。
晩年は、奈良に滞在して制作活動を続け、和歌山や大阪の顧客の為の作品が多い。鉄哉の人気は高く、大正9年には支援者らによる「鉄哉会」が設立され、その作品を入手するための会則が設けられたりした。大正14年、「売茶翁像」の完成後、病に臥せ、81歳の生涯を終えた
加納鉄哉については特別な研究機関はなく、「加納鉄哉展~知られざる名工~」(岐阜市歴史博物館図録)や「知られざる名工 加納鉄哉」(西美濃わが街386号)などがまとまった著作(西美濃わが街は現在は廃刊)です。
絵画や彫刻、古美術研究と調査・・・等、博学多才で加納鉄哉走られています。作家の志賀直哉は、大正14年、京都から奈良へ居を移していますが、この年、鉄哉は亡くなっていますが、志賀は生前の鉄哉の工房を訪ねているようです。
2年後、鉄哉をモデルにした短編小説「蘭齋没後」を発表していますが、鉄哉よりむしろ、息子の加納和弘や弟子の渡辺脱哉(だっさい)らと親交があったようです。脱哉とは「人間がぬけているから」という理由で、師匠の加納鉄哉によって付けられた号です。彼のキャラクターと数々のエピソードは、志賀の短篇「奇人脱哉」に見る事ができます。「牙彫出身の脱哉は、水牛角の干鮭の差根付を唯一の得意とし、銘は鉄哉が入れていた。」とか、「それは30円で毎月一つつくれば生活が出来た。」とか、又、作品の箱書きは、「息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅に代筆で書いて貰っていた。」等、興味深い話ばかりです。そこには一貫して、志賀の、脱哉へ向けたあたたかな眼差しが感じられるものです。
加納銕哉は、1921年(大正10)に奈良の高畑にアトリエである「最勝精舎」を建てて、本拠地としました。この工房兼住居は2度の移転を止むなくし、銕琅によって受け継がれましたが、銕琅の死後はその保存は断念せざるを得なませんでした。
志賀直哉曰く「職人気質の名工」と称え、気風闊達、野の人でもありました。天長節(天皇誕生日)には、必ず赤飯を作り祝うことを忘れなかった銕哉でしたが、一方悪戯半分に自他を問わず贋作を作るという茶目っ気もありました。そのうち、“贋銕哉”も出現するはめになることになり、弟子の銕琅を悩ませるくらいだったそうです。
************************************
彫られているのはご存知、「坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)」の像です。坂上田村麻呂は、平安時代の公卿、武官で名は田村麿とも書きます。
*ただ共箱の表は判読が難しいです。「田村将軍像 春日社? 」以下は判読不能です。
坂上田村麻呂は4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて蝦夷征討に功績を残しています。薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍し、死後は平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて武神や軍神として信仰の対象となりました。
現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出されています。むろん神格化され多くの神社の祀られています。
さて神をおろそかにしてはいけません・・・。
PS.加納銕哉作の「田村将軍木彫」の作品は複数存在しますが、現在では完品は非常に少ないようです。多くは共箱でなかったり、本体(弓、刀、矢)に欠損がありますが、本作品のように色彩のみの欠損のほうが修理しやすいかもしれません。
加納銕哉、市川銕琅の作品の修復をしてきましたが、今回で3作品目の修復となります。
上記写真:後方の丸い作品が加納銕哉作を修復した作品、前方の「福の神」の作品が市川銕琅作を修復した作品です。
PS.本日紹介した作品の修復費用の見積がなんと18万円強・・・ はてさて再度交渉するか、当方は中途半端は嫌いなので、あきらめて破棄処分するか・・。
→後日の交渉の結果11万円で修理を依頼することになりました。おそらく修理には3か月から半年かかるかもしれません。む~、神はおろそかにしてはいけません、高くつきます