2010年2月6日(土)、「平家物語ゆかりの地を巡る旅」第3日目。六波羅蜜寺~清水寺と巡って、この日3箇所目の京都市東山区渋谷(しぶたに)通東大路東入3丁目上馬町(かみうまちょう)にある正林寺(しょうりんじ)を訪ねた。清水寺を予定よりだいぶ早く出発したので、正林寺の駐車場に着いたのは、10:10時ごろ。ここの参拝予定時間は35分間。
脇門から直接駐車場に入ったので、正門に廻って写真を撮る。同行した皆さんは誰も来ないので早々にバスに戻る。門の脇に植えられている夏蜜柑の木が、沢山実を付けていた。
正林寺:正式には、清涼山光明真言院正林寺という浄土宗の寺院で、通称を「小松谷正林寺(こまつたにしょうりんじ)。本尊は阿弥陀如来。建仁2年(1202)正月創建、開基は法然(開山)、中興 義山・恵空。法然上人二十五霊跡第14番札所。御詠歌「千年経る小松のもとをすみかにて無量寿仏の迎えをぞ待つ」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%9E%97%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)[正林寺(京都市)-Wikipedia]
小松谷御坊旧跡(こまつたにごぼうきゅうせき):ここはもと平清盛の長男・平重盛(たいらのしげもり)の別邸で、48の燈籠を灯して念仏させたという燈籠堂のあった所で、平家没落後、関白九条兼実(1149~1207)の山荘となっていた。兼実は法然(1133~1212)を請じ度々法談を行った。建仁2年(1202)正月、ここで法然を戒師として兼実が剃髪出家した旧跡である。法然がここに居住していたこともあるという。元久2年(1205)8月、法然が瘧(おこり)を患い、その時聖覚が修法を施したという。建永2年(1207)3月、四国に流罪の時も当御坊から出発した。
応仁の乱で、ここは灰燼に帰し、一時廃絶したが、江戸中期に義山が復興に努め、弟子の恵空が意思を継ぎ、北野(真盛辻子)にあった正林寺を移して中興した。享保20年(1735)九条家より河原殿の建物が移築され、大師堂・方丈などになった。宝暦年間(1751~1761)建立の本堂に阿弥陀如来像、大師堂に園光大師(法然)像を中心に九条兼実・聖光国師像を祀る。上の石標は、正林寺中興以前の小松谷御坊の跡を示すものである。
兼実は母が高階基章の娘であったことや、妻が成親の娘だったことから一門の中でも微妙な立場であった。保元・平治の乱に功績があり内大臣となった。邸宅の地名から「小松殿」と呼ばれた。清盛に先立って死んだ。「平家物語」では、冷静沈着で文武に優れ、かつ信仰心に篤い理想的な人柄に描かれている。保延3年(1137)~治承3年(1179)
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hi042.html [HI042 小松谷御坊跡]
上馬町・小松谷地蔵尊
平重盛公の私邸(「平家物語」巻2)跡と伝えられている正林寺
正林寺本堂扁額。
http://www.sawadamikio.info/temple%2025/r14/r14.html [正林寺]
(上)小松谷保育園&小松谷児童館。
サザンカ(山茶花)と思われる花が咲いていました。
(下)スイセン(水仙)も咲いていました。