2020年10月2日(金)、毎日観ているNHK連続テレビ小説『エール』第16週「不協和音」[9/28(月)~10/2(金)]は、昭和19年(1944)頃のことと思われる所にさしかかっていました。
私の家族(母と私と昭和12年5月生まれの姉と昭和18年10月生まれの弟の4人)は、この年の7月頃、福島県安積郡富久山町久保田から、5㎞ほど離れた所にある郡山市郊外の純農村地区の母の生家に転居したのですが、米などの食料品をはじめ皆「配給」に依存していたので、このドラマで描かれているような状態(ご飯に薩摩芋を入れて食べている)でした。特に「コメ(米)」は配給だけでは全然足りず、「ヤミゴメ(闇米)」に頼っていたそうです。。終戦の頃には母が大事にしていた着物(和服)をコメや薩摩芋、じゃが芋(「カンプラ芋」と呼んでました。)、南瓜などと交換したそうです。お金が有っても物が無い時代ですから農家ではそうした「物々交換」にしか応じなかったそうです。
その頃の食事は、「カデ(糧)飯」と呼んでいた大根を細かく刻んで入れたり、薩摩芋や大麦を入れたものが普通でした。それでもコメ(米)が入ったご飯を食べられるのは3食の中1回だけの日もありました。後は、うどん粉を練ってつくった「うどん」や「ハット」(薄く伸ばしただんご)だけのこともありました。[野菜などの具が数種類入っていたので、結構美味しく頂きました。)いつも腹を減らしていたので、薩摩芋やジャガイモ、南瓜などを蒸かして貰ってよく食べました。味付けが良いし、肉が入っていたりして、その当時のものとは随分違うものだと思うのですが、「ハット」は今でも時々食べます。
その頃、私は満5歳でしたが、母の生家にだけ頼るわけにいかなかったようで、3㎞ほど離れている父の生家に「コメ貰い」に行かされたことがあります。手ぬぐいの布で作った袋と子供をおんぶする白い帯を持たされて行って、5升ほどの米を背負って(我が家から800mほど離れた所から500mほどは小川に沿った道で、その途中にある水車小屋が”ザーゴトン、ザーゴトン!と動いていました。そこのところは雨水が道路を横切っていたので、じゃぶじゃぶ歩いて帰ってきたことを今でも覚えています。
昭和20年8月頃、五体満足で復員した父にその事を話したとき、父は「田圃を買うときにお金を用立てたので、米は届けると言っていたのに」と呟きながら、じっと考え込むような態度でした。父の生家を継いでいた伯父(父の兄で長男)[この時、祖父(父の父と母は生きていました。)の所も子沢山で生活が苦しかったのでしょうが、親子兄弟でもこのような有様でした。
peaさんの伯父さんの家族への思いやりにも感服しました。
私ならどうして届けてくれなかったんだといつまでも恨んでしまいそう。
福島県なら東京などよりは食料があったのかなと思っていましたが農家以外はそんなにないですよね。
認知症の義母と昔話する時に朝ドラの話題から戦時中の食料難に及ぶ事があります。
家は農家じゃなかったけど田畑があったので困った事はなかったと。
ここの所昔の話も思い出せないようで事実と違う記憶になっているので、多分困った時期もあるんだと思うんですが。
悪い事は忘れてしまうのなら認知症も悪くないかもしれないです。