2009年10月4日(日)、一関市博物館主催の「大人の調べ学習~気仙沼街道を行く(第4回)」という催事に妻と一緒に参加しました。一関市役所川崎支所(川崎町薄衣字諏訪前)に集合して、バスと一部徒歩で「気仙沼街道」と呼ばれた古道を訪ねるものです。参加者:15名。
10:00~12:00は、一関市役所川崎支所~薄衣新町~漆崎の古碑群&古井戸~鴨地の姥桜&古碑群~往還塚~笠松と古碑群を見学して、昼食のため道の駅「かわさき」に戻り、12:00~13:00休憩。13:00からバスで薄衣字柏木に移動して、柏木の不動尊&古碑群を見学。柏木から川崎町と千厩町の町境に位置する三島峠まで歩きます。
歩き出してすぐの一行。
(上)もうすぐ三島峠という所で、地べたに腰をつけて休む人たち。
(下)峠を千厩町側に下る一行。この付近で「マムシグサ(蝮草)」の真っ赤な実を見つける。
(下)千厩町側の集落。「濁り村」と呼ばれた集落?
(下)千厩町史談会解説の「三島金山沢金山」の説明板。(金山沢=かねやまざわ)
「三島峠越えは、気仙沼への旧街道筋にあたる。山麓に残る山砂金の露天掘り跡は、石名田付近よりはじめられ、下川原、金山沢から三島山の六号目まで及んでいる。その採掘遺構は主に上堤と下堤で精錬用水を貯水し、堰溝をたて多量の水を流す猫流し法によるものである。とくに山肌は縦横に掘削され、凹地のところを金ぽこと呼んで、水を溜め砂金を沈殿させて採取したところだという。川下の水は常に濁り村名となったか、伝承では、阿部貞任が三島山麓の堰に毒水を流し、源義家軍を奇襲したので毒水沢の逸話もある。また、金山沢を下ると、七日市という地名が残る。七日毎に賃金を払った所で市もたつほど賑わったと伝える。沼田の渡辺家の文書によれば、この金山は寛文九年(1669)頃は。五十七人の掘り子が従事したとある。掘り子のなかにはこの地で亡くなり、無名の墓石を今に残している。千厩町史談会」
説明板の所から千厩町の町頭方面へ向かう一行。「掘り子の墓」と伝えられている無名墓。近くにはこの集落の家の墓があった。
マムシグサ(蝮草) サトイモ科 テンナンショウ属 Arisaema japonicum
山野のうす暗い林の中などに生える多年草。葉は2個つき、7~17個の小葉が鳥足状に付いている。小葉の形や大きさは変化が多い。この仲間は葉柄の下部が花茎を包み込んでいて、茎のように見える。「マムシグサ」の名は、この茎のように見える部分に紫褐色のまだら模様があることからきている。 花期は4~6月。テンナンショウの仲間の花は仏炎苞と呼ばれる筒状の苞に包まれていて、外からは見えない。マムシグサの仏炎苞は緑色から濃紫色まで色の変化が多いが、いずれも白い筋がある。果実は液果で秋に赤く熟し、果軸にびっしりと付く。分布:北海道~九州。
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