ランシモ

ランニングからツチノコカメラや時事まで興味あるすべて

メジロがわんさか*代々木公園の河津桜

2022-03-05 11:26:59 | 日記・エッセイ・コラム

代々木公園には河津桜がいっぱい植わっています。

3月5日、今が満開です。

可愛らしい小鳥のメジロまで河津桜を愛でにきています。

散歩の人も、モデル撮影の人も、桜を見にきた人も、小鳥のメジロさんも大勢です。

代々木公園には屋台は出ていないが、売店は2箇所あります。

それと、河津桜の花見は酒の宴会は少ない。

ピクニックっていう方ばかりです。

多分この季節だと外で地面に座って宴会するには、、、ちょい寒いからでしょう。

これから1っヶ月も経つとソメイヨシノが咲き出します。

すると、代々木公園の芝生はブルーシート宴会ばかりになります。

メジロは小さいので逆さになって花蜜を吸うのが得意です。

可愛らしいでしょーーー。

と思ってカメラを構えていて、飛び立った瞬間を狙ってシャッターを切ったら、、、メジロがペンギンになっていた。

メジロ君はこんな形で飛び立つのか???

これじゃメジロ鉄砲かメジロペンギンじゃないか?

カメラのピントが追いつかなかった。

飛び出せメジロ君と言った図です。

2016年2月に代々木公園で先輩メジロを撮っていたけど、こんな飛び方じゃなかったぞーーー。

昔は、、、いかにも鳥さんといった綺麗な飛び方じゃないですか。

そんな大砲の弾みたいじゃなかった。

今日の飛び方じゃペンギンさんと間違えられますね。

2022年2月25日 下田・青野川の「みなみの桜と菜花まつり」YouTube

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/f721ea0b4a51c431a11160ba6a2d1d0c

2022年2月20日 青野川の河津桜は満開だった

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/1e4f1e3b7e49b49f06c2d6f5852e66e8

2021年2月13日 代々木公園の河津桜とミモザ

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/9a51062fa10ade1639556eff7581aa2c

2020年2月27日 快晴でミモザが満開

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/cee7237adfc0fce3527042f6aeedbc41

2020年2月28日 河津桜が満開

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/e1f525ef7f6c5ceece857931b4afbe40

2020年3月29日 大雪の代々木公園

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/dd838542c6a7410e21a44f6154d62029

2016年2月18日 河津桜にメジロが良く似合う

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/db3149fbbe34d9be56cd4f359981b475

カメラ:ニコンZ50、ダブルズームキットの50mmー250mm

 

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8kmジョギング*下北沢まで

2022-02-15 21:08:49 | 日記・エッセイ・コラム

新宿から用事があって下北沢までジョギング。

小田急線が地下化されてから下北沢の街を探索していなかった。

通りかかったことはあるけど街は歩いて見てはいない。

20代の頃は仲間とつるんでしょっちゅう来ていましたが今は昔ですねーーー。。

寒いのでけっこう厚着しています。

それで走ると汗ばみます。

小田急線が地下化されたので、駅の跡地が駅前広場になりました。

井の頭線は変わらず高架です。

下北沢は高架の井の頭線と、地上の小田急線が直角にクロスしていて、踏切があったので大変混雑していた。

下北沢の特徴は、、、古着屋さんがえらく増えたこと。

古着屋さんの街になってしまった。

昔はこんなに古着屋さんはなかった。

若者向けの居酒屋や演劇ファンのための稽古場や、彼らのための安食堂ばかりだった。

この辻も懐かしいな―――。

街を行きかう人々が若い。

店内喫煙可なんてお店は他の街にはありません。

しかも安そうなメニューですねーーー。

映画の街というより下北沢は演劇の街だった。

俳優を目指す人々の街だったのだが、、、。

中華屋さんに入って麻婆豆腐を食べたら美味しいのなんの、とにかく辛いのなんの、頭から湯気を出しながら堪能しました。

行きかう人を見下ろしながらゆた~~~りしました。

腹いっぱいになったら走っては帰れません、小田急線でずるして戻りだった。

8kmジョグは楽しかった。

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代々木公園の河津桜はどうかな?

2022-02-12 21:14:39 | 日記・エッセイ・コラム

都内の河津桜はどうかなと思って、夜のランニングで見にいった。

代々木公園の河津桜は1分咲きにもなっていないくらいだった。

ようやく日当たりの良い所が、ほんのビッチョ1輪2輪咲き始めたぐらい。

まだまだ1週間以上早いかな。

全体ではつぼみがようやく色づいてきたというくらい。

伊豆の河津桜は見頃はこれからですから、代々木公園はまだまだ早い。

それを確認してから夜の表参道、青山散策ランニング10kmでした。

青山通りと表参道の交差点にカルティエのショースペースができていた。

鏡なんで私が写りこんでいる。

眼鏡に後ろのスクリーンを写しこんでみた。

たまに来ると青山・原宿は華やかで良いですねーーー。

20代の頃はココが通勤路だったので昔の原宿は詳しいけど、今の原宿は浦島太郎状態だ。

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大雪になると言ったが都内は積もらなかった

2022-02-11 21:33:36 | 日記・エッセイ・コラム

全国各地大雪らしいが、都内は昨日の夜には雪が降っていたが、冷え込みが足りなかったので積もらなかった。

都内の道路は前日からの注意報でガラガラに空いていた。

今日は日中温かかったので、野暮用を全部済ませた。

母がなくなったので家じまいで台所のステンレスの流しを外に出して、プラスチックと金属とに分解した。

大変な作業だった。

棚板はのこぎりで小さく切り分けて燃えるゴミに出します。

プラスチックとゴムは燃えるゴミです。

金属は廃品業者さんに頼んだ。

兄弟はいるけど誰もやる人がいないので私が手を汚しながらやっている。

あとは大きな仏壇をどう処分するかだ、、、!

2021年12月28日 遺品整理して父の10代の頃の表彰状が出てきた

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/91926bddf788c797dc4473d3f30959df

2021年12月20日 母の49日が無事終了

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/bc43b358a5c40c2c9ebb05206f0e210d

2019年12月 父の形見の懐中時計Watex をオーバーホールした

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/5ef947f54b7364f2cd2cd965dc48bb90

2018年7月 納戸から軍刀が出てきた

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/874b0d6517dd93fba5821ac013ade63a

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吉川潔人形展*銀座(ギャルリーコパンダール)

2022-02-10 17:40:00 | 日記・エッセイ・コラム

吉川潔さんの人形展を銀座ギャルリー・コパンダールで見てきました。

吉川潔さんは小平の畑で知り合った方です。

小平畑は100区画ぐらいあって、私が借りている区画のお隣の区画にいらした。

「研ぎ澄まされた独創!」

吉川潔さんは博報堂に在籍中の1972年からプラハの国立芸大に留学されていた。

プラハといえば1968年の「プラハの春」を思い起こさせられます。

チェコスロバキヤや東欧諸国は民衆が権力に圧政されていた期間が長かったので、レジスタントのひとつとして人形劇が盛んです。

人形劇で時の政権を揶揄・批判していたのだ。

独裁政治の中でバレたら投獄処刑だったから、表で言えないことを、人形劇でオブラートに包んで彼らはしたたかに揶揄・批判していた。

圧政時にはそれがバレたら投獄・処刑ですから。

東京代々木のプーク人形劇団が有名です。

吉川潔さんの人形は汚れのない魂を感じさせるもので、「キレイな人形の人形劇で社会風刺を語らせていた」ということに時の政権は気が付かなかった。

ヨーロッパや東欧の民衆は不正な権力があると立ち向かっていきます。

レジスタント運動が地に足がついているんです。

いつかチャンスを見て政権をひっくり返す、という強い意志を感じます。

日本ではレジスタントのような運動は起きにくい。

長いものに巻かれろが風潮だし腹に一物を持つことは悪い事というコンセサイズがある。

レジスタントのような気の長さが残念ながらない。

昔々の農民一揆ぐらいですか、庶民が立ち上がったのは。

素晴らしい人形だった。

展示されている人形は18万円ぐらいで売られています。

「研ぎ澄まされた独創」は美しくしたたかで気高い。

104−0031東京都中央区京橋2−7−5

京2小林ビル

 

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五十稲荷神社*神田小川町

2022-02-08 18:42:58 | 日記・エッセイ・コラム

五十稲荷神社、神田小川町

小さな神社ですが古くからあり、聞くところによると昔は神社の前が参道のように賑わっていたそうです。

すぐ近くの武内歯科に通っているので、前々から気になっていた。

昨年の春ごろに境内が新築されてあれーと感じたしだい。

神社をしかも無名の小さな神社がきれいに新築されるのはめづらしいでしょ。

元の神社は小さくて暗かったが、今のはご利益がありそうなくらいピカピカ。

神田駅からこの小さな五十稲荷神社まで参道のような道があって、昔は参拝客が大勢いて賑わっていたという。

いまでは考えられないくらいですが。

神田はビル街でオフィース街ですから、住人は少ないことでしょう。

きれいな白木で建築されて庭もよく整備されている。

「富は屋を潤し、徳は身を潤す」

いい言葉じゃありませんか!

おみくじは私はほとんど引いたことがない。

お札は買いますし、お賽銭はたんまり差し上げているので、いっぱいご利益があるんだと思っていますから、今更運勢は見ませんだ〜〜〜。

日本人は節操がないから、日本人は仏教徒であり、神教であり、クリスチャンであったりします。

実際は何教の信徒が多いのでしょうか?

私が通っている五十稲荷神社近くの武内歯科は、赤髭先生のように患者さんに丁寧に治療してくれます。

それで私は50年は通っています。

武内歯科

http://denttakeuchi.la.coocan.jp

ずーと古めかしい五十稲荷神社を見てきたので、ここが昔は参道があって大繁盛していたとは、到底考えられなかった。

参道があったとしたら、、、どこからの参道だったのかな???

〒101-0052 東京都千代田区神田小川町3丁目9−1

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NANONANO*極小人形

2022-02-03 21:11:55 | 日記・エッセイ・コラム

六本木ヒルズでもうひとつ面白いものを見つけた。

52階には楳津かずおだけじゃなかった。

NANONANOだ~~~。

ひとつひとつ名前がある。

小さな電子部品でできたNANO世界です。

コンデンサーや抵抗、ICチップ、基盤などでつくられている。

エンジンにあたるところはメモリーチップですね。

排気管はメモリーの足。

観覧車みたいだけど宇宙船にも見える。

NANONANOは六本木ヒルズの52階だけで見ることができます。

販売もここだけのよう。

可愛らしい世界を造ったものです。

NANONANO

http://nanonano.jp/

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楳図かずお展*六本木ヒルズ

2022-02-01 22:26:18 | 日記・エッセイ・コラム

「楳図かずお」展が六本木ヒルズの52階の東京シティビューで開かれていた。

映画のついでに大好きな「楳図かずお」展を見に行った。

漂流教室が代表作だと思うけど、まことちゃんもあるし、キャリア-が長いからいろいろです。

恐怖ホラー漫画みたいなところもあるけど社会派だと思います。

52階で開催されているので、展望台料金込みで入場料金は2000円。

しょっぱなが漂流教室。

お母さんが時空にさらわれた我が子にナイフを護身に渡すシーンが忘れられない。

ケイヨウホテルの壁に向かって突き出したナイフが時空を超えて我が子に届いた、、、。

怖い漫画です。

アキラも怖いけど漂流教室のほうがもっと怖いな~~~。

楳図かずお先生は86歳だけどイキイキしているな~~~。

館内は暑かったのでロッカーに荷物とジャケットを入れてきた。

私は奇想天外なストーリが好きです

「楳図かずお」さんや「水木しげる」さんが好きですね。

あの方たちは戦争で地獄を見たんじゃないかな。

だから、きもいけど優しいのだなー。

「続SHINGO」の原画?がいっぱいあって人の醜さとロボットの純さを対比させていた。

これは私がまだ読んでない作品だった。

東京タワーがだんだん小さくなっていきます。

港区なんで海が近い。

東京湾が目の前にせまっていました。

東の方角で遠くに新宿が見えます。

真下は米陸軍プレスセンターとヘリポート。

ようするに米国駐留軍(米国)の領地というわけ。

戦後と言っても80年ぐらい経っているんだから、主権は日本に取り戻してほしい。

空の航空権を日本が持っていなくて、米軍が持っているのは、、、どうして???

今までの政権・自民党は何しているの?

米軍の駐留ぐらいはいいけどーーー。

 

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釧路市立博物館

2022-01-23 19:45:12 | 日記・エッセイ・コラム

釧路市立博物館

北海道紀行10、釧路市立博物館でアイヌと釧路の歴史を知る

この博物館を見たら、乗り鉄テッチャンはびっくりすることだろう。

釧路と帯広の広い平野部に軽便鉄道と呼んでいいのか、馬車鉄道などが縦横に走っていたのだ。

それは牧場地帯なので乳製品を集めるために、車が少く良い道路が作れなかった時代に、地盤の悪い湿地帯に線路を敷き、馬や牛時代が進めば軽便鉄道のようなもので、乳製品を運んでいた。

集められた乳製品(牛乳)は何と雪印の工場があって、そこに運び込まれて牛乳になって出荷されていた。

鉄道ではるばる運ばれたのか、釧路港から船に乗せて運んだか?

今でも帯広、釧路がある十勝平野は牧場だらけ。

日本の酪農のメッカです。

その津々浦々まで細い線路幅の軽便鉄道が行き渡っていた。

私が学生の頃まであったようで、もっとも当時私が知ったとしても見に行かなかっただろうが。

若い時はそんなことには興味のかけらのひとつもなかった。

若い時は、、、どうやって世の中に出て「社会を唸らせてやるか」ばかり考えていたから。

無くなっていくもの、細やかな他人の生活の機微、自分と直接関係ないこと、、、には目がいかなかった。

今では充分に歳を食ったので、自分のことよりも他人、社会、に目がいくようになった。

釧路、根室あたりだけでもこんなに路線があった。

黒字が国鉄(今のJR)で赤字が簡易鉄道と馬車力線。

もしかして人力線もあったかもしれない。

 そんな時代が戦後の1960年代まであった。

1964年が東京オリンピックだから、、、私はもの心はついていた。

茶内にはきっと雪印の工場があったんでしょう。

釧路博物館はアイヌの歴史も展示してありました。

アイヌの生活道具や船なども展示してあった。

当時の和船に比べると板を紐で結わえているだけなんで、浸水は甚だしかっただろう。

外洋の荒波にも弱そうだ。

マンモスの骨格も近くで発掘された。

象よりもはるかに大きい!

私たちは釧路駅から1時間歩いて行って、帰りはバスで戻った。

市内を自分の目で見て、足で地理を確かめたかったからだ。

雪道はいいけど氷道はいやだ。

それでも北海道で急遽購入した雪道シューズは威力を発揮していた。

釧路市内は標高が低くて津波があったら高台に逃げるか高層ビルに逃げ込まなきゃいけない。

東日本大震災があったので、日本全国の土地に標高表示ができました。

海岸線はそんなことまで考えなきゃいけなくなったんだな〜〜〜

北海道紀行10、釧路市立博物館

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/7cabd1388fdf7a56dc16a9eb8a749547

北海道紀行9、北海道チーズを食べた

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/e4a640eb5f4f57963cdbdd491d1c7758

北海道紀行8、花ゆう香は阿寒湖畔のホテル

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/c266443d3f51e00c2f894e8a5013e4c9

北海道紀行7、根室市内散策

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/cf2dc4932d785c1cbfcbbd8a9ad2ddb2

北海道紀行6、根室は荒涼としていた

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/d0a8fc8ae3903e38b71af69baf70d3a9

北海道紀行5、雪道シューズ*釧路市内

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/10428755656e4f707a6a2a02954484bc

北海道紀行4、北海道チーズをゲット

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/c2f49470401701bfdf8b32582b32c72c

北海道紀行3、参久*牡蠣居酒屋

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/185fd5ab20a96023cb4fc767992d643f

北海道紀行2、石川啄木の悪評*釧路

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/ed1abc726d4bcdb68d45a573cd102dd7

北海道紀行1、アイヌコタンYouTube*阿寒湖

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/bbadf1d66c26483e9d0a7914102066e7

JALが欠航でもう一泊

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/8951a19088c01cb3b36c6c4bbcbed35b

根室駅弁のさんま丼

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/df7718ccf62f0bc1a8457b0ed3528669

納沙布岬は極寒、激風

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/bdf6476be6026b530d31cfdd6f82245d

くしろよろしく

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/b19a3165f51bff78ebc1338afc55bbcb

 

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大草原の小さな1軒屋*山中湖

2021-12-29 16:27:33 | 日記・エッセイ・コラム

いとこの家にお邪魔した。

山中湖の大草原の小さな1軒屋か?

ジャーン

ちょいボロくはないか?

山中湖は冬場だとマイナス10℃を下回ることがある。

隙間風が多そうだ。

と思ったら、ジャーン。

えらく小さな1軒屋だった。

わんちゃんの夏の家だった。

私のいとこは波乱万丈な一生だった、なんて言うと文句が出てくるかもしれないが、、、。

今はアーリー・アメリカンが大好きな旦那さんと、クラッシック・ヨーロッパが大好きな彼女がハッピーに生活しています。

この敷地にアメリカンな家と、ヨーロッパのカントリー調な家屋とお店の建物を数軒建てて住んでいます。

目の前の畑を耕して田舎暮らしですね。

大昔、私が高校生の時に山中湖畔の家に1人で泊まっていたら、料理した鍋物や食器類が水分があったもの全てがガチガチに凍ってしまって難儀した記憶があります。

そのころは山中湖は毎年1月になると全面氷結していたので、湖面でスケートができたのです。

全面氷結はすごいですよ〜〜〜。

スケートに飽きたらツルハシを持って氷に穴を開けてワカサギ釣りにチェンジしました。

ところが寒いのなんの、、、そこで小さな家の形をした小屋にソリをつけたものを湖畔のレンタル屋さんで借り、湖上に運び中に穴を開け火鉢を持参して暖を取りながらワカサギ釣りをしていました。

ただし、誰かが開けたわかさぎ穴に落ちないように移動するときは注意が必要だった。

山中湖周辺はその時から○十年もたっているが、イメージはそんなに違わない。

森と湖の避暑地です。

三国峠展望台からの富士山は優雅でしょ。

こちらは御坂峠からの富士山。

下の湖は河口湖です。

学生の頃から自転車やらバイクやら車で走り回っていました。

ランニングを一番やっていた頃は山中湖1周ランニングで鍛えていました。

1周14kmあたりはちょうど良い距離だった。

自販機が所々あるから安心だしトイレも3箇所ぐらいあった。

富士山には傘ができやすいのかな。

吉田口登山道がギザギザに登っています。

夏の登山シーズンになると、あのギザギザが点々と明るく筋になります。

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両親の遺品整理*親父が10代の頃の賞状

2021-12-28 16:44:47 | 日記・エッセイ・コラム

広島の向原出身の父は貧しい農家の長男だった。

祖父は放蕩男でその長男の父は金銭的に貧困そのものだった。

貧困家庭にあって働きながら学んでいて、、、優秀な成績を収めたので、金一封いただいていた。

今でいう奨学金のはしりなんでしょう。

苦学のことは昔から笑い話でよく聞いていました。

昭和10年、三陽中学校5年、、、いくつだったんだ?

こんなことを知っているから私は贅沢とは縁の遠い生活しかできません。

父は広島向原で生まれ育ち、10代の中頃に岡山に出て、洋裁屋さんの2階に居候して仕事を手伝いながら夜学に通っていた。

その2階に、実家は農家だが船乗りになり、世界を股にかけて遊びまわっていた放蕩祖父が転がり込んで、10代の頃の父にお金をせびっていたそうです。

とんでもない祖父だった。

父は両親を含めて兄弟の面倒を10代でみていた。

遺品整理で古い変色した書類が出てきた。

その中に私がが生まれた時の母子手帳が出てきてびっくり。

どうも当時はミルクやお菓子が配給だったらしい。

子供が生まれたからお菓子を配給というスタンプが押されていた。

今の日本のように物資が溢れていることが想像できない時代だったんでしょう。

そりゃ戦争で負けて数年後なんで、どうやって生きるか、どうやって食うかって時代だったから。

産婆さんのお名前が書いてありました。

渋谷区隠田という地名に住んでいた人だ。

原宿のあたりですね。

これらは処分します。

私の親からのおわかれです。

親は私の記憶の中に大事にとっておきます。

2018年7月 納戸から軍刀が出てきた

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/874b0d6517dd93fba5821ac013ade63a

2021年12月20日 母の49が無事おわった

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/bc43b358a5c40c2c9ebb05206f0e210d

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クリスマス・イルミネーション*原宿表参道

2021-12-25 21:01:52 | 日記・エッセイ・コラム

たまにはジョギングで原宿へ。

なんてったって原宿表参道がイルミネーションに飾られているという。

クリスマス前からやっていますが今日の10時までです。

それで表参道は人でいっぱいだし、道路は大渋滞だった。

車の人は大変だっただろう。

歩道も人でいっぱいでぶつからないように歩くのがたいへん。

この絵は原宿駅から表参道にぶつかった所。

ここは下り坂で、表参道交差点がいちばん低い所で、また先は登りになっています。

スポーツジムの照明がユニークですね。

原宿の繁華街なんだからこれくらい面白くしてくれて嬉しいですね。

ランニング中はマスクを外していますが、雑踏の中ではマスクはマストです。

代々木公園の原宿門にあったツリーです。

ジョギングやランニングは腿の筋肉を使いますね。

多少退化したかな?

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母の49日が終わった

2021-12-20 15:04:08 | 日記・エッセイ・コラム

母の49日が滞りなく終了した。

母は持病がなかったので最後まで頭はしっかりしていたが、今年8月にベットから転げ落ちたのがきっかけで寝たきりになり10月8日に天寿を全うした。

つい今年の7月に小平の畑でとれたトウモロコシをテーブルに置いておいたら、見つけて自分で包丁で切り美味いと食べていた。

昔の人は食生活が良かったのか長寿です。

戦後間もない昭和に私は生まれた。

高田の馬場に陸軍の射撃練習場が子供の頃残っていた。

私が生まれた家は陸軍の練兵場を不法占拠して造ったバラック家だった。

高田の馬場で私が生まれそうになったので母はリヤカーに乗せられて渋谷広尾の日赤病院へ向かった。

ところが私が母の腹から出るのが早くて、渋谷をすぎ恵比寿あたりで限界になり産婆さんに駆け込んだ。

日赤病院にたどり着かなかったのだ。

車など使える時代じゃなかった。

新宿に新築した家で親族が集まった。

私は手前右から2人目。

母は後ろ真ん中。

母は戦争中は広島の軍部でタイピストをしていた。

いわゆる戦時の秘密文書を作成していたのだ。

当時としては女性としてエラく進歩的な仕事をしていた。

父の実家は広島の向原で、芸備線の汽車に乗って13個目ぐらいなので、母は軍部で働いていたので広島住まいだったのかもしれない。

東京にいた親族はみな戦火を逃れて広島に疎開していた。

広島向原の山のどんづまりの農家(父実家)はさぞかし賑やかになっていたことだろう。

東京渋谷生まれのシティガールの母は広島の山の中に移って大変だっただろう。

それで、広島に原爆が落とされた時は、母も伯父・叔母たちは原爆を目撃していた。

広島が大変なことになったようだと、焼け野原の広島に救助に向かった。

その悲惨な光景は叔母から何度も聞かされている。

伯父・叔母たちは原爆手帳を持っているが発病しなかったのが幸いです。

広島近くの岩国の錦帯橋でいとこ達を父が撮った写真です。

私は左から2人目の子供。

東京から広島に行く時は「急行あき」に乗り1昼夜ゆられて行った。

左右に写っている叔母2人は100歳を超えているけど今でも健在です。

その写真左に写っている叔母に母の49日が無事終わったことを報告しに山中湖までいってきた。

叔母は100歳を超えても足はしっかりしているし、頭もボケていない。耳が遠くなっただけのようです。

母が亡くなって悲しいということはない。

長生きしていただいてありがとう、という気持ちです。

今更ながら、子供は親に何もできないのだなーと感じたしだいです。

最後の数年にどこにでも好きなところに旅行してくれと旅費を出したことぐらい、、、かな。

親父が亡くなっても何も感じなかったが、母が亡くなった時は悲しみじゃないが、何か大きなものがなくなった感じ。

上の世代が亡くなって、これからは私より下の世代を引っ張って行くだけだ。

15年ほど前に引退した親父と母を連れて箱根の温泉に行った時のもの。

カラッと晴れていいショットが撮れた。

この写真を母の遺影にしました。

親孝行などあまりできなかった、、、一緒に連れて行った温泉旅行は数えるほどだもの。

2021年12月28日 遺品整理して父の10代の頃の表彰状が出てきた

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/91926bddf788c797dc4473d3f30959df

2019年12月 父の形見の懐中時計Watex をオーバーホールした

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/5ef947f54b7364f2cd2cd965dc48bb90

2018年7月 納戸から軍刀が出てきた

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/874b0d6517dd93fba5821ac013ade63a

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浜離宮*歩きカメラ

2021-12-15 19:24:56 | 日記・エッセイ・コラム

浜離宮で歩きカメラだった。

この小さな丘の反対側に将軍の船着場があった。

モミジの紅葉が良かった。

江戸時代からあったそうだが、鷹狩りにでも使っていた。

園内には5つの池があって水鳥を放ち、そこにこっそりと鷹を持って行って脅かしたそうです。

浜離宮の園内から水上バスが出ています。

水上バス船着場はこの左手。

私たちは浅草に向かったが、行き先は色々ありました。

水上バスは昔からあって私が学生の頃に晴海に行くのに使っていた。

運が良かったら松本零士さんデザインの船ヒミコ(銀河鉄道のイメージ)にのれるかもしれない。

使用カメラはZ7

レンズはアサヒペンタックスMXについていた3本。

レンズは伯父からのいただきもの。東北震災で水没していたのを自分でバラバラにして復活させた。ペンタックスのレンズは私が10代のころ、友人のカメラアサヒペンタックスを借りて撮影した映像にビックリして、いいなーと思っていた次第。そのころは私はペトリV2という安い一眼レフを使っていた。ペンタックスやミノルタ、キヤノン、ニコンは当時の私には高嶺の花すぎたのだ。ペトリのレンズは悪いわけじゃなかったが、シャープさだけでボケみとかは印象にない。ペンタックスのレンズのふわっとしたボケに感激したのだ。私が10代の頃高嶺の花だった物が買えるなんて日本は裕福になった。

2024年6月6日 トーベヤンソンさんのムーミンの森へ「歩きカメラ」で行く、ニコンZにタクマーをつけて撮影

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/8d6a59431024644ca29b7c870e63bffa

代々木健康友の会の「歩きカメラ21」

https://blog.goo.ne.jp/yoyogiken

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友人の写真展*銀座の奥野ビル、

2021-12-03 14:23:21 | 日記・エッセイ・コラム

友人が銀座の奥野ビルで写真展を開催した。

さっそく駆けつけました。

友は写真展をもう10回以上開催しているだろう。

こんどのは古めかしい奥野ビルでとは考えたものだ。

奥野ビルは昭和7年(西暦1932年)に建てられたクラッシックなビルで、インテリアが面白い。

友人が以前からライフワークで撮ってきた花の写真です。

画廊なので写真も展示販売しています。

絵画と違って写真の売買は日本ではまだ未知なところがあります。

彼が日大芸術学部を中退した頃からの友人です。

バリバリの広告カメラマンです。

90年近い歳月が流れていますので、床がすり減って凹んでいます。

お隣では棟方志功さんの写真展だった。

棟方さんは青森が生んだ孤高の版画家だった。

昨年、冬の青森に行った時にも棟方美術館にお参りしてきた。

銀座にはいくつか古いビルがあったが、いまではここ奥野ビルだけになった。

古いものを生かしたおしゃれなテナントさんが入っている。

どうです、戦前に建設されたビルにしてはいきでしょ。

原宿や代官山ににあった同潤会アパートと同じ設計者のようです。

同潤会アパートは原宿に一部しか残っていないが、全体の作りは似ているので参考になると思う。

ただし、同潤会にはEVがなかったが奥野ビルのはスケルットンのEVが現役で動いています。

昔、スペインを旅していてマドリッドの建物には、古い古いスケルトンのEVばかりで感激したものです。

日本の建築物も古くてもいいものは、手を入れてリノベーションするかリフォームして使ってほしいな。東京にはそんな味のあるビルが少ないというかゼロに近い。木造じゃなくてもコンクリーと造りでも面白いし、そんなのが街にあれば街に厚みが出てくる。全てが新しいと、、、薄っぺらいものだ。

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