ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

「たぶん悪魔が」

2008年05月13日 | 映画


映画少年Yが、早々ブレッソンの「たぶん悪魔が」を
返しに来た。
開口一番「いやあ、ブレッソンは良いですよ」と興奮
の面持ちだ。
「また始まった」、といつものようにこちらは受け止
める。
「9回観ちゃいましたよ」と相変わらずの暴走振りだ。
何故9回かというと、後から解ったのだが、「淀川長
治」が嘗て、映画は9回観ないと解らない、などと言っ
たらしく、例によってその言葉に影響されてのことだっ
たのだ。
兎に角、他人の言葉に直ぐ影響されるから。

「たぶん悪魔が」という映画は、最後の映画「ラルジャン」
とかなりテイストが似ている。
感情を表わさない主人公(これはどれも一緒だが)が、
破滅的な世界に一直線という内容で、見ようによって
は救いようのない映画といえる。
「ラルジャン」は状況によって転落一直線だったが、こ
の「たぶん悪魔が」は、自らの意思で一直線という違い
がある。
一対になっていると言えるのかもしれない。
生きる意味を探し、最後に「バニシングポイント」に
辿り着くまでの彷徨を、例によって、シンプルに緊張感
を漲らせ描いていく。

時代は、今から30年ほど前のパリ。
大学生である主人公は、当時問題になり始めた「環境汚
染」などの社会問題に顔を突っ込むが、頭が良いゆえそ
の限界に直ぐに気づいてしまい、夢中になれない。
恋愛にも同じ(複数の女性のあいだを同時に流離う)。
そして残るは宗教。
しかし、いずれも彼の心を満たすことはない。
当然の帰結として残るは「バニシングポイント」。
こうやってみると、内容はシンプルである。
しかし、ここが、例えば昨日の「さくらん」などという
凡庸な映画とは大きく違うのだが、一つ一つのシーンは
なんでもないのだが、それらが断片化されることなく一
つのイメージの動きとなって伝わってくるのだ。
抽象的な表現だが、それは、シーンの中の映された動き
ではない、自分の中のイメージの動きというものだ。
要するに、想像力を刺激されるということだ。
類型的なものではない本物。
わかりやすい例として、例えば、別れのシーンにショパン
の「別れの曲」を使うとすると、たぶん殆どの人が「う
るっ」となる。
こういうことをブレッソンは拒否する。
そこにあるのは、靴音であり、ドアを開ける音、はたま
たメトロの軋む音。
効果音としてのBGMはない。
あるのは、素の映像。

そんなブレッソンの世界にやられてしまったYは、今度
は「ジャンヌダルク裁判」とストローブ=ユイレの「ア
ンティゴネ」を持っていった。
次回の一言は「いやあ、ストローブ=ユイレはやっぱり
凄いですね」だろうか。

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