ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】ローマ人の物語 21・22・23 危機と克服

2011年02月23日 19時01分59秒 | 読書記録
ローマ人の物語 21・22・23 危機と克服(上)(中)(下), 塩野七生, 新潮文庫 し-12-71・72・73(7782・7783・7784), 2005年
・古代ローマの長大な興亡記。前巻の皇帝ネロの時代に引き続き、今回はガルバ(在位 紀元68~69年)、オトー(69年)、ヴィテリウス(69年)、ヴェスパシアヌス(69~79年)、ティトゥス(79~81年)、ドミティアヌス(81~96年)、ネルヴァ(96~98年)、の7皇帝、約30年間の様子を描く。
・これだけ話が長くなると、そろそろ何が何だかわからない状況に。カエサルの時代を頂点にして、その後は話のグダグダ感が強くなる一方です。それでも全15集のうちの第8集めと、ようやく中間点に来たところ。まだまだ先は長い。
・「また、危機とは常にネガティブな現象か、という疑問だって生じてくる。まずもって人間には、自らが生きた時代の危機を、他のどの時代の危機よりも厳しいと感じてしまう性向がある。そのうえ、ローマの歴史とて、すべてが良い調子で進行したから興隆し、その後はすべてが悪く進んだから衰退したのではない。ローマ人とは、紀元前753年の建国以来、幾度となく襲ってきた危機を克服していくうちに興隆を果たした民族なのである。」上巻p.19
・「ローマ人の歴史とは、「危機と克服の歴史」と言い換えてもよいとさえ思う。  ただし、興隆途上の危機とその克服はさらなる繁栄につながったが、衰退期に入ると、危機は克服できても、それはもはやさらなる繁栄にはつながらなくなってしまう。危機は克服したのになぜそれはさらなる反映につながらなかったのか、への答えの追求こそが、ローマ帝国の滅亡の要因に迫ることではないかと、この頃では考えるくらいだ。」上巻p.21
・「勝敗を分けたのは、ヴィテリウス側の指揮官たちの力量がオトー軍の将たちの力量をしのいでいたからではない。ローマ軍では最強と評判の高い「ライン軍団」の兵士たちの戦闘力を見せつけて、混成軍のオトー軍を圧倒したのでもなかった。同胞相手に戦うことへのためらいが、オトー軍の兵士たちのほうにより強かっただけである。」上巻p.109
・「古代のローマでは、四十代から五十代が男の盛りとされていた。」上巻p.121
・「それでも断ったのは、ローマ人は、自分たちの間では争っても、それに他国を引き込むまではしないことでは一貫していたからである。マリウスとスッラのときも、カエサルとポンペイウスの時代も、アウグストゥスとマルクス・アントニウスのときも、他民族を巻きこんだ例は皆無だった。紀元69年のこのときも、三人とも、断るのに迷いもしなかったと確信する。」上巻p.144
・「戦闘という人類がどうしても超越できない悪がもつ唯一の利点は、それに訴えることで、これまで解決できないでいた問題を一挙に解決できる点にある。」上巻p.181
・「あらゆる分野でラテン語使用を強要しなかったローマ人だったが、軍隊内の用語だけはラテン語で統一している。出身部族がちがう兵士が潜入しても、ラテン語で話すかぎりは言語で露見する危険はなかった。」中巻p.50
・「(ユダヤ民族の)特殊性の第二は、彼らがすこぶる優秀な民族であることだった。支配者から見れば、優秀な民族のほうが支配しにくいのである。優秀でなければ、底辺に押さえこんでも反抗する能力も気力もないからだ。」中巻p.85
・「敬虔なユダヤ教徒がよく口にするのは、次の一句である。「唯一神のみが、われわれの主人である。その神を奉じた政体の国家の樹立にこそ、われわれの自由は捧げられるべきなのだ。ゆえに、この自由のないところでは、死さえも取るに足らないことでしかない」  ユダヤ教徒にとっての自死は、彼らの考える「自由」が得られない場合のごく当然の帰結なのであった。」中巻p.114
・「ユダヤ人ほどではなくても、ローマ人だって迷信深かった。にわとりの餌のついばみ方がよければ、吉兆だと兵士たちは喜んだのだ。しかし、ローマの指導層は、共和政・帝政を問わず常に醒めていた。前日からにわとりに餌をやらないでおくようにと、陰では命じていたのだから。」中巻p.118
・「誰かが演出した、日本でいう "やらせ" だと思うが、これより四十年ほど前にイエス・キリストが行った奇跡も、盲人に視力を回復させ、いざりに立ちあがらせるのではなかったか。奇跡も、内蔵の病を治すなどというのでは不適当なのだろう。快癒のパフォーマンスも、はっきりと誰にも見えるたぐいでないと効果は見込めないにちがいない。ローマ皇帝ヴェスパシアヌスも、イエス・キリスト並みの奇跡を行ったことになる。」中巻p.150
・「ローマの武将たちの多くに共通する特色は、武人らしい見栄、ないしは虚栄心に無縁であった点である。彼らは、少数の敵を多数で攻めることに何のためらいもなかった。」中巻p.153
・「私が、指導者としてのヴェスパシアヌスの力量に最高点を与える気になれないのは、法制化しようと所詮は完全な解決などありえないことの、法制化を決行したからである。法律といえども、それを考えた人の人格を映し出さないではすまないのであろう。」中巻p.180
・「現代でも、都市ローマをイラスト一つで表現したいと思えば、誰でもコロッセウム(イタリア語ならばコロッセオ)をもってくるだろう。これを建設させたのがヴェスパシアヌス帝である。」中巻p.198
・「ローマ帝国の国家財政の詳細については、研究者たちの必死の努力にもかかわらず、現代に至ってもなおわかっていない。おそらくこれからも、明確になるのは望めないだろう。(中略)広く浅く取ることを目指した税制こそが善政の根幹であることを熟知していたローマの皇帝たちが、基本的にはシンプルな税制を維持しながらも個々ではケース・バイ・ケースで臨んだために、それらをすべて把握するに充分な資料が遺っていないからである。」中巻p.206
・「あるときに宮沢喜一氏と同席したので、この経済の専門家に、年来の疑問をぶつけてみたのである。ローマ帝国に比べれば現代の先進国はいずれも税率が高いのですが、なぜでしょうか、と。宮沢氏の答えは、社会福祉費のせいでしょうね、というものだった。  では、古代のローマには、社会福祉のための歳出はなかったのであろうか。」中巻p.211
・「ローマ帝国時代の首都ローマを復元した地図の中で、病院と並んで存在しないもう一つの大規模な公共施設は、学校なのである。」中巻p.220
・「このカエサル方式は、ローマ帝国が存在した間機能しつづける。医療と教育を民活にゆだねることで一貫したこの方針が、ローマの社会福祉費が国家財政を圧迫するまでには至らなかった要因ではないかと思う。要するにローマ帝国は、国家がやらねばならないこと以外の全ては民間に委託するという方針で一貫したがゆえに、現代でいう「小さな政府」を実現化できたのではないか。」中巻p.222
・「医療に関してのローマ人の考え方は、彼らの死生観に起因していたのではないかと思う。(中略)ローマ人は、自らの生命をいかなる手段に訴えても延長しようとする考えには無縁であったのだ。社会的にも知的にも高いローマ人になればなるほど、頭脳的にも精神的にも肉体的にも、消耗しつくした後でもなお生きのびるのを嫌ったのである。だからこそ、生命ある間を存分に生きる重要さを説いた、ストア哲学の教えが浸透したのではないかと思う。」中巻p.224
・「ローマ人は、寝台式の台の上にマットレス状のものを敷き、その上に片ひじでささえる形で横になった姿勢で食事をしないと、食事の名には値しないと考えていた。テーブルを前に椅子に坐って食べるのは、子供か奴隷の食事の仕方で、食堂に一室をさける程度の家に住む人の食事の仕方ではないと思っていた。ただし、こうもくつろぐ食事の愉しみ方は、ローマ時代でも夕食に限られていた。」下巻p.44
・「元老院による「記録抹殺系(ダムナーティオ・メモリアエ)」とは、元老院による報復措置ではなかったか。報復とはしばしば、理性ではなく感情の所産であることを忘れるわけにはいかないのである。」下巻p.60
・「歴史家ギボンは、ローマがなぜ滅亡したのかと問うよりも、ローマがなぜあれほども長く存続できたのかを問うべきである、と言った。多民族、他宗教、多文化という、国家としてはまとまりにくい帝国であったにかかわらず、なぜあれほども長命を保てたのか、ということのほうを問題にすべきだ、という意味である。だが、それに対する答えならば簡単だ。ローマ人が他民族を支配するのではなく、他民族までローマ人にしてしまったからである。大英帝国の衰退は各植民地の独立に寄るが、ローマ帝国では、各属州の独立ないし離反は、最後の最後まで起こっていない。」下巻p.69
・「ローマ人の考える「フォールム化」とは、四辺のうちの一辺には神殿を建て、残りの三辺のすべてを列柱回廊で囲むということである。列柱回廊の奥は店か事務所かに使われるのが通例のこの建築様式は、ローマ人が好んだ空間の利用法でもあった。」下巻p.75
・「考えてみれば、ローマ帝国全体が、共同体が考えて行うことと個人が考え行うことの双方で運営されていたように思う。国家としては未発達であるのかもしれないが、これで意外とよく機能していたのだから面白い。」下巻p.106
・「こうしてローマは、国境の外にもいくつかの友好部族をもつ政略をつづけていた。「分離し、支配せよ」の政略(ストラテジア)であった。  それゆえ、国境の外に住む部族の存在が脅威だったのではない。それらの部族が団結することが、脅威であったのだ。」下巻p.138
・「作家だからと言って勝手気ままに書くわけではなく、対象に選んだからにはそれについての調査と研究が必要になる。ゆえに、調査研究の必要度ならば学者も作家も差はないのだが、それに取り組む姿勢となると、学者と作家とではちがうように思う。そのちがいを一言で片づければ、学者には史料を信ずる傾向が強いが、作家は、史料があっても、それらを頭からは信じない、としてよいかと思う。」下巻p.142
・「学者ではない私自身の人間性への観方だが、ローマ史を書きつづけるに際して私が、自分の判断の基準にしたことが一つある。  それは、最高統治者である皇帝が成したことが共同体(レス・プブリカ)、つまり国家にとって良いことであったか否かを判定するにあたって、タキトゥスをはじめとする歴史家の評価よりも、その皇帝の後に続いた皇帝たちが、彼が行った政策ないし事業を継承したか、それとも継承しなかったか、のほうを判断の基準にすえたのである。  この「計器」を用いれば、ローマ史上最高の統治者は、何と言ってもやはりカエサルとアウグストゥスである。ローマ帝国とは結局、この二人が創ったのだ。ローマ人もこの二人だけを「神君」と呼びつづけたのだから、同感であったのにちがいない。」下巻p.143

《関連記事》
【本】ローマ人の物語 17・18・19・20 悪名高き皇帝たち(2009.10.20)
【本】ローマ人の物語 14・15・16 パクス・ロマーナ(2008.10.13)
【本】ローマ人の物語 11・12・13 ユリウス・カエサル ルビコン以後(2008.1.9)
【本】ローマ人の物語 8・9・10 ユリウス・カエサル ルビコン以前(2007.6.20)
【本】ローマ人の物語 6・7 勝者の混迷(2007.3.10)
【本】ローマ人の物語 3・4・5 ハンニバル戦記(2006.11.25)
【本】ローマ人の物語 1・2 ローマは一日にして成らず(2006.5.26)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】「脳力」をのばす! 快適睡眠術

2011年02月16日 19時01分58秒 | 読書記録
「脳力」をのばす! 快適睡眠術, 吉田たかよし, PHP新書 401, 2006年
・同著者の名は初めて目にする名でしたが、表紙の略歴をみて、マンガに出てきそうなその経歴に唖然。不思議な人物もいたものです。
・医師としての立場から、快適な睡眠をとるためのノウハウを分かり易く解説した書。寝つきはいいが、朝スッキリ起きることがなかなかできず、どうにかならないものかと手にとってみました。本書の内容に従って、『睡眠日記』もつけてみましたが途中で断念。自分の睡眠のリズムを把握して、眠りの浅い時にスッキリ目覚める……などと小賢しいことを考えてもやはり睡魔には勝てず、結局たどりついた結論は『とにかく早く寝ること!!』 これに尽きます。
・「まず驚いたのは、政治家は早朝から深夜までスケジュールがぎっしり詰まっていることです。当然、睡眠時間は極端に短くなってしまいます。ところが、注意深く観察すると、バリバリ仕事をこなす政治家は、医学的にも実に理に適った睡眠のとり方をしていることに気づきました。」p.4
・「慢性的な睡眠不足が招く最も恐ろしい健康被害は何かと尋ねられたら、私は迷わず「発癌のリスクが高まることだ」と答えます。ところが、どうも世間では、睡眠と癌とは無関係だと思っている方が多いようです。」p.39
・「質の高い睡眠をとるために最も大切なことは、一日24時間のリズムをしっかりと回復させることです。人間の長い歴史のなかで、一日のリズムが最も崩れているのは、間違いなく現代人だからです。」p.50
・「人間の体内時計は24時間に一致していないということだけは覚えておいてください。のちほど詳しく説明しますが、この体内時計と地球の自転周期の不一致こそが、程度の大小はあるものの、ほとんどの現代人に何らかの睡眠障害をもたらしているのです。逆にいえば、この不一致を埋めることが、現代人にとって睡眠戦略の重要な柱となります。」p.54
・「このように体内リズムの調節に役立っている刺激は、「同調因子」と呼ばれています。人体にとって最大の同調因子は光の刺激なのですが、この他に、食事のタイミングや他人とのふれあいによる脳への刺激も同調因子として働いています。」p.57
・「誤解を恐れずにいえば、現代人は全員が睡眠覚醒リズム障害の予備軍です。だからこそ、仕事や勉強で確かな結果を出すには、この症状についてよく理解し、脳のなかの前頭連合野や大脳辺縁系を望ましい状態に維持する技術を身につけていただきたいのです。  睡眠覚醒リズム障害には、大きく分けて三つのタイプがあります。「睡眠相後退症候群」「不規則型」、それに「非24時間型」です。」p.59
・「話は少し大仰になってきましたが、やっていただくことは簡単なことです。まず、起床したら、必ずカーテンを開け、窓から光を取り入れてください。(中略)私がお勧めするのは、通勤や通学の途中でより多くの光が目に入るように工夫することです。」p.65
・「もし、ウイークデーの睡眠不足を週末に埋め合わせしたいなら、いつもより早く眠るようにするのが理想的です。」p.89
・「実は、入眠儀式には脳を睡眠に導く効果があることが知られています。毎晩、眠る直前に決まった行為を行なっていると、脳の大脳辺縁系の一部である帯状回前部などが刺激を受けるようになります。すると、脳はその行為を行なっただけで、眠りにつきやすい状態になってくれるのです。(中略)入眠儀式を行なわず、大切な日の前の夜だけ眠れないことが、現実にはよくあるのです。必ず眠らなければならないときほど、普段の生活習慣を崩さないようにしてください。」p.103
・「このように効果の持続時間は長いので、逆にいえば、就寝時刻の5時間から7時間ほど前になったら、カフェインの入った飲料は摂るべきではありません。つまり、午後11時に就寝するのであれば、少なくとも夕方の6時以降、できれば4時以降は、カフェインは摂るべきではないわけです。」p.110
・「私が特に注意していただきたいと感じているのは、栄養ドリンク材や総合ビタミン剤です。通常、ほとんどの栄養ドリンク剤や総合ビタミン剤の錠剤には、50ミリグラムほどのカフェインが含まれています。コーヒー一杯に含まれるカフェインは、100ミリグラム程度ですので、コーヒー半分ぐらいのカフェインが含まれているわけです。」p.113
・「また、特に日本人のなかで不眠の原因になることが多いのが、室内の照明です。どうも日本人は、夜、部屋のなかをやたらと明るくするのが好きな民族のようです。私たちは、蛍光灯で直接、部屋の隅々まで照らし出しておくのが当り前だと思っています。」p.117
・「眠りのために最も理想的なのは、就寝の2時間前から3時間前にかけてに入浴を済ませておくことです。この時間帯がお風呂のゴールデンタイムと考えてください。(中略)わたしがお勧めするのは、帰宅したら真っ先に入浴することです。夕食はその後に回すのです。これなら、無理なくお風呂のゴールデンタイムを毎日、実践できます。」p.123
・「ウィークデーにはぬるめのお湯に浸かり、週末には熱めのお湯に浸かるという最強の入浴術を、是非、ライフスタイルに組み入れてください。」p.127
・「一人ひとりにとって理想的な睡眠時間を平均すると、7時間30分程度になるのは事実です。しかし、だからといって、あなたが7時間30分の睡眠をとればそれでよいというわけではありません。必要な睡眠時間は、一人ひとりによって異なるため、あなたにとって最適な睡眠時間は、それより長いかもしれないし短いかもしれないのです。」p.131
・「自分にピッタリの睡眠時間を見つけ出すには、睡眠日記をつけるのが一番です。簡単な睡眠日記を二週間ほどつけるだけで、自分が必要としている睡眠時間が、おおよそわかります。」p.142
・「どうも日本人の間では、睡眠薬は何だか怖いものだという印象を持ち、毛嫌いする人が少なくありません。その反面、米国人に多いのですが、睡眠薬を長期間にわたりダラダラと常用し、止める努力、あるいは減らす努力をまったくしない人もいます。」p.161
・「最も困るのは、アルコールを飲むと夜中に目が覚めてしまうことです。実は、アルコールは入眠を促すだけで、睡眠の後半では逆に眠りを浅くしてしまう作用が知られています。」p.172
・「人間は何かを経験すると、体験をその瞬間に脳に記憶しているように感じています。しかし、それは間違いであることが、米国のギルミノーらの研究で明らかになってきました。脳の海馬に入った情報は、5分程度の時間をかけて、長期的な記憶として脳内に定着させているのです。実際、入眠直前の5分間の体験は、一切、記憶に残りません。情報を記憶に定着させる前に眠ってしまうため、情報が完全に脳内から消え去ってしまうからです。」p.183
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】趣味人の日曜日

2011年02月02日 19時05分33秒 | 読書記録
趣味人の日曜日, 笹川巌, 講談社現代新書 844, 1987年
・「ヒマはあってもお金がない、しかも社会生活にあきたらないオトコたちへ、大人の時間の使い方、教えます。」と銘打った、サラリーマンの日常生活のささやかな楽しみを指南する書。読んでいると、暇を持て余した気だるい空気と、オッサン臭がプンプンと漂います。"バブル期" という悠長な時代の本ということで、その空気を反映しているのかもしれません。「新たな趣味のヒントでも得られれば」と手にとった本でしたが、既に趣味生活をエンジョイしまくっているせいか、特に目ぼしい記述は見あたりませんでした。
・「こうみてくると、日本の近代文芸のいちばん良質な部分は勤め人の余芸によって支えられた――という気がする。」p.56
・「してみると戦前の日本人は、いまのように世界に冠たる働き蜂人種ではなかったようだ。日本人がやたら働きものになったのはやはり前大戦(日中―太平洋戦争)の影響で、一億総動員という臨戦体勢で休みが減り、労働時間が長くなったことが原因ではなかろうか。(中略)戦後四十余年、そろそろ臨戦体勢をといて戦前の古き良き伝統にもどり、のんびりサラリーマンのライフスタイルを復活させるべきだろう。」p.61
・「暇と金に恵まれないサラリーマンにとっては、読書・座談・映画・テレビ・音楽・美術などの観賞レジャーや、散歩・書店&図書館めぐり・小旅行などの身辺レジャーを通じて "会社外人生" の充実をはかるのが得策だし、現実的だろう。」p.63
・「その点、最近の文庫本ブームは団地派知的生活者にとってじつにありがたい。文庫と新書の組み合わせで、相当にハイブロウな知的生活を送ることができる。」p.77
・「この本もサラリーマンにふさわしい独創的生活のガイドブックをめざすと称しているが、しょせんは読書論ていどのものが中心となってしまうだろう。  それは、一にも二にもサラリーマンが "時間貧乏" な種族であるためだ。(中略)しょせんサラリーマンの余暇はこまぎれ余暇でしかないのだ。  こまぎれ余暇の活用となると、どうしても室内レジャーが多くなる。(中略)こうした日常性、日常的価値の再発見、再評価がこまぎれ余暇をエンジョイする秘訣である。」p.94
・「しょせんサラリーマンの余技だから「おけら芸」になるのは仕方ないことで、それでもやらないよりやった方がいい。一芸に秀でたらそれは余技ではなく専門になってしまい、別の次元の話になる。なにより「遊び」がなくなり、ディレッタント的な楽しみが消える。本を読む、文章を書く、いずれも仕事ではなく趣味なので、楽しむことが最大の目的だ。」p.102
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか

2011年01月27日 19時10分08秒 | 読書記録
メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか, 明川哲也, 文春文庫 あ-48-1, 2008年
・自殺志願者である、しがない調理師と言葉をしゃべる不思議なネズミたちとの大冒険。読み始めはその世界観を把握できず大いに惑いますが、直に慣れました。謎めいた暗号のようなタイトルも物語を読み進むと、これ以外のタイトルは無いように思えてきます。前半は話の目新しさも手伝ってなかなか盛り上がりますが、後半は話が加速してやや尻つぼみの感あり。
・"明川哲也" と聞いてピンとこなくとも "ドリアン助川" と聞けば、「どこかで聞いたような……」という人も多いのではないでしょうか(私もその一人)。物語中、著者の持つ人生訓めいた言葉が随所にちりばめられており、興味深い言葉も多々含まれています。そんなメッセージ色濃厚な作品。
・「おそらく私は岩場に打ちつけられたクラゲのような、ひどく始末に負えない破砕物である。」p.8
・「マルセロ知ってる。タカハシさんは憂鬱の砂嵐と戦うために、メキシコに行くしかない。メキシコで四つの宝を手に入れて、砂嵐の呪いを燃やす。マルセロ知ってる。その四つの宝でタカハシさんの娘や多くの人が助かる」p.89
・「「まずは言葉遣いに気をつけることじゃ。幾つになろうが、どういう地位につこうが、言葉遣いを形だけで終わらせず、魂を入れよ。言葉はすべてのはじまりじゃ。形だけの言葉は砂ひと粒の重みもないが、そこに魂が入れば言葉は畑になり、多くの穀物を育てる。ワシはそう思う。言葉とはそういうものじゃ。言葉はあてにならん。しかし言葉ほど大事なものはないぞ、もしかして」」p.99
・「お前さんは一度死んだも同然なのじゃから、いちいちの感情でものを言うのではない。感情でものを言って何かが解決したという試みは、元祖哺乳類二億一千万年の歴史を振り返ってみても一度もないわ。」p.105
・「しかも日本の自殺者は毎年三万人を超え続けていますから、この十年で三十万人が消えてしまったと考えていいでしょう。これは旧共産圏と並んで、いきなりのトップクラスです。特に女性と若者の自殺率に関しては世界でも一位か二位というところでしょう。」p.138
・「こうやってWHOの資料を見ると、旧ソビエト連邦やチェコなど、短調で重い交響楽を好んで聴く国の自殺率は高い。」p.141
・「1980年、メキシコの自殺率は十万人あたり1.7となっています。これは文句なく世界最低、いや、世界で最高にハッピーということになります。(中略)しかし、まあ、メキシコが世界最高のハッピーであることには変りないわ。最も鬱から遠い国なんじゃからのう。だいたいメキシコ人にハゲはおらんしのう。おらんというわけではないが、他国に比べ、極めてハゲが少ない。こんな国は他にはないぞ、もしかして。」p.143
・「日本の酒はよいな、もしかして。あっはー、ワシはマグロのヅケで飲むのが好きじゃ。ビタミンEと鉄分が多いからのう。脳みそを活性化させるドコサヘキサエン酸も魚にはたっぷり含まれておる。そういう意味では、刺身や寿司は日本人の偉大な発明じゃよ。」p.161
・「しかしメキシコ人は、いや、もっと正確に言うならば先住民インディヘナとスペイン人のメスティソ(混血民族)は本当にハゲが少ないのだ。世界一低い自殺率と何らかの関係があるのだろうか。つまりメキシコ人はハゲないし、自らは死なないのである。これはいったいどういうことなのだろう。国民の所得はおしなべて低く、アメリカからはあれだけひどい待遇を受けながら、それでもいつも笑っている。ストレスを吹き飛ばしている。ハゲも吹き飛ばしている。その秘密は何なのか。だからこそ私たちはメキシコに伝わる四つの宝を探しにきたわけだが……」p.185
・「チーズとチョコレートを薄くスライスし、それぞれをチキンではさみこむ。そう。私が作ろうとしているものは日本人にはお馴染みのチーズチキンカツと、おそらくはまったく馴染みがないであろうチョコカツなのだ。チョコとカツである。甘いチョコと香ばしいカツ。言葉の響きだけでは、これほど相性の悪い取り合わせはないような気もする。しかし食べてびっくり、好きな人はやめられなくなるほどツボに入ってくる味わいなのだ。明るい陽気な舌先になる。私が知っている限りこのチョコカツを売り物にしているのは高田馬場のとんかつ屋だけである。」p.188
・「……料理は足していくんじゃねえ。足してきゃ、味が緩む。引き算なんだよ。まず最初に最高の味と見栄えを頭に叩き入れる。それが見えてなきゃいけねえ。そこから先は引き算さ。見えてるものを再現するために何をすべきか、何をしたらいけないのかを考えていく。料理ってのはなあ、音楽や絵や映画と一緒さ。やる前にすでに見えてないと大したものはできねえ。見えてないやつには無理なんだ……」p.196
・「収拾のつかない明暗。芸術家の基本はそれらとの対峙にある。私個人のレベルで言えば、画家や音楽家に対するまっとうな尊敬はそこから生まれている。自分の耳を削ぎ落としたゴッホの例を出すまでもなく、そこに足を浸していない芸術家など芸術家たり得ないという感覚が私にはある。表現者が心の闇に蓋をして何を生み出せるというのだろう。闇を覗くひどく不安定な自分さえも作品に変えられるからこそ彼らは芸術家なのであり、それを絶対に気付かせない努力をしているからこそ、私たち調理師は職人と呼ばれるのだ。」p.222
・「なに、苦悩がそれぞれの主観に由来するのであれば、吉や不吉、恐い恐くないも主観の問題じゃろう。すべては自分の周囲をどう捉えるか、或いは自分自身をどう捉えるかという認知の問題じゃて、もしかして。おっと、これは精神医学用語じゃがのう。一にも認知、二にも認知、三、四がなくて、五に認知じゃ。」p.235
・「「幼きフォレノは生きるために笑うことを覚えた。親や大人の顔色を窺い、誰にでも人当たりよく、親切にしていればたいていのできごとはやり過ごせるということも学びよった。皮膚一枚下にはハリケーンを抱え込んだままじゃったからのう、外側だけでも穏やかに保たんとフォレノは生きていくことができんかったのじゃろう。しかし、バランスは崩れる。内心の荒廃はどんどん進んでいきおった。なぜなら人間はみな、自分という存在に対する解釈を他者への定規としても持ち出そうとするからじゃよ」p.238
・「「いや、なに。思考を持つというのも一種の病かもしれんと思うてのう。もしもこのフォレノが丘に咲くコスモスであったら、その方がよほど幸せだったかもしれんな」」p.240
・「「さよう。脳はブドウ糖で動くコンピュータみたいなもんじゃからのう。ブドウ糖が不足しておると、いつも眠っておるような状態になる。現実と夢の区別もつかんようになるんじゃ。それを阻止するのがアドレナリンなんじゃよ」」p.274
・「ネズミたちに導かれ、助けてもらいながら、私はこれまでの人生の中で考えたこともなかった方向に進み出そうとしているのかもしれない。厨房の料理人ではない。もっとでっかく、ずっと大きく、地球の料理人になろうとしているのだ。市場から仕入れてくるものだけを対象とする料理人ではない。目指すべきは有史以前の時の流れまでを調理する時空の料理人なのである。」p.292
・「動脈硬化や癌や、あるいは生きとし生けるものならばすべて避けることのできない老いでさえ、実は酸素のせいなのかもしれません。酸素があるから呼吸できる。しかし酸素があるから私たちには死があるわけです。」p.346
・「色というものは単に美しいからそこにあるんじゃない。色の正体は……実は血や肉が酸化していくことを防ぐ物質なんだよ。活性酸素を叩きのめすのは色なんだ。色のあるものを食べないと、釘が錆びていくように人間の身体もぼろぼろになってしまう。身体がぼろぼろに朽ちていけば、心のバランスを保つことも難しくなる。錆びた釘で打った本箱がいつか壊れてしまうように、酸化していく中で人は時に鬱を抱えることもある。持って生まれた才覚、鍛え上げた感覚ですら鈍らせてしまうことになる。」p.347
・「トマトの赤の正体。それはリコピンという物質です。この物質は皆さんの身体の酸化を防ぐ強力なもので、マイナス因子を身体から排除する働きがあります。その結果、精神安定にも非常に役立つ。」p.348
・「「お前さんたちが神とともにあったからじゃよ。神の前では誰もが敬虔になる。つまりお前さんたちは、神の力を借りて殺戮さえ行ったということじゃよ。信ずるがあまりのう」  「ボラボラ、お言葉ですが……殺戮を認めている宗教など滅多にありませんよ」  「むろん、殺しを認める宗教は少ないじゃろう。しかしのう、その宗教を守るためという大義名分が付いた時はどうなのじゃ。十字軍の歴史を紐解くまでもあるまいて。米国の大統領は戦争が起きる度に教会で祈りを捧げるわい。スペイン人がアステカの人々を根絶やしにしよった時、その最たる理由は彼らが反カソリックであるということじゃった。神を己のための守護神だと勘違いしている間、エテ公は殺戮を続けるじゃろう。即ち、お前さんたち人間は、まだまだ神に対する理解が足りんということじゃ。聖書を読む知恵を授かったお前さんたちが、聖書をばりばりと噛み砕いてしまう山羊よりも殺戮好きだとは、ホホホッ、皮肉な話じゃのう」」p.375
・「私はまず、通常の赤いサルサロハを作るために楕円形の調理用トマトと玉ねぎの皮を剥き、それを細かく切り刻んで刃先で叩いた。ついでコリアンダーも細かく細かく。とにかくサルサを作るときは細かくが基本なのだ。そこにガーリックを少々。これも細かく。そしてもちろん細かく切り刻んだトウガラシ。サルサロハならセラーノ、緑のサルサベルデならハラペーニョがいいだろう。これらすべてをボウルの中に入れ、やはりメキシコ料理には付き物のライムを絞ってその汁をたっぷりと振りかける。ここからが私流、いや、サルサの作り方を教えてくれたカルロス流である。汁を搾り取った後のライムの実は捨てず、緑色の外皮を刃先で糸のように削ったものを混ぜていくのである。日本料理で言えば、里芋と飯鮹の炊き合わせに山椒の葉や柚子の皮を乗せる粋に等しい。たったこれだけのことで庶民中の庶民料理とも言えるサルサが、一段優雅になって輝きだすのである。さらにここからがカルロスの真骨頂。少量ではあるが、砂糖を入れるのだ。サルサは作った直後よりも冷蔵庫で二~三時間冷してからが食べごろ。具のそれぞれが互いに影響を及ぼし合い、そして落ち着くためには少々の時間が必要だからである。」p.386
・「「さよう。生きるということは別離の連続じゃて。それがわかっておるなら、せめて言葉を交わせる時には言葉を、それが無理でも微笑みぐらいは交わすべきじゃのう。ワシらはいずれ、あっという間に消えてしまうのじゃから」」p.423
・「たとえば日本では、鴨川と桂川に挟まれた京都です。あれら二つの川は地表の、つまり目に見えている川ですが、実は京都の街の下は巨大な貯水湖になっています。だから京都ではふんだんに水を使える酒の文化が発達し、陽照りの時でも多くの人間を生かすことができたのです。」p.464
・「私がもしもモミの木だとしたら。  私は何を望むだろう。  数百年もの間、同じ斜面に立ち続け、同じ景色を見て、良い天候の日ばかりではなく、雨風の荒れ狂う日や陽照り、あるいは地下水まで枯渇してしまうような地獄を味わいながらも、そこに居続けなければいけないのだとしたら。  私はある日、ふと動きたくなるのではないだろうか。」p.470
・「「料理人は複数の店を持つものではありません。どんなにレシピを徹底させていても、調味料のグラム数まで決めこんでいても、他人任せになってしまうと味は揺らいでいくものです。多くの天才がそれで道を誤りました」」p.509
・「「たしかに科学では涙は液体じゃろう。じゃが、ワシは聞きたい。泣いても泣いても涙が途切れん夜があるわい。ありゃ、どこから出てきよったんじゃい? どこじゃ?」」p.527
・「スペインによってメキシコから略奪されよったトウガラシはのう、アフリカに運ばれ、インドに運ばれ、そこで大衆に愛されよったんじゃよ。インドがトウガラシの発祥地だと思っておる連中はカレー粉を基本に考えるからじゃ。しかしあくまでもペッパーと名の付くものは南米はボリビアから北のアンデス山中、そしてこのメキシコまでが生誕の地なんじゃて。」p.529
・「つまり循環こそが命の本質なんじゃ。原子核のまわりを陽子がぐるぐると循環して物の最小単位である原子ができるように、遠いカナダからやってきおったモナーク蝶がアンガンゲオのモミの木を巡って循環し、そこに巨大な群れというひとつの命を誕生させよったように、そして死後のワシらが粉々の原子に戻り、そこでまた新たな命の素となる循環を見せるように。ところが心はどうじゃい。心とて生命の本質。本来は甘い辛い、辛い甘いの循環をせなんだら腐ってしまうはずじゃのに、近代は恐怖や悲しみから逃れるために却って心を硬直化させてしまう者が跡を絶たん。心の循環が滞っておるのじゃよ。」p.530
・「寂しいという字が書けない頃から、孤独は周囲から離れてしまった個に対して与えられるのではなく、実は生きているものすべてにまとわり付くある種の絶望なのだと知っていた。まわりに誰もいないこともその言葉で表すのであろうが、その本質は生まれた時からすでに背負っている普遍なのだと看破していた。」p.546
・「どうしたって、何があったって、死ぬことなどなかったのです。死の恐怖に取り憑かれることだって、それは確かな生の姿なんですよ。私は自ら首を吊って初めてそのことを知りました。取り返しのつかないことなど世の中には滅多にありません。石つぶてを浴びても後ろ指を差されても、またゼロからやり直せばいいことだったんですよ。」p.552
・「「判断できん時は抵抗してはいかん。呼吸だけできておればええのじゃ。流されても気にせんでええ」  「ボラボラ、どうしてそれを」  「マルセロ知ってる。それは極意。この世に在るための」」p.561
・「「つまりはっきりと言ってしまえば、動物性蛋白質に頼り過ぎる食生活を送っている国は自殺率が高い傾向にあり、鬱病に悩む人が多い。豆類の植物性蛋白に頼る国は貧しい国が多いけれど、このメキシコのように自殺率は低い、ということですね」」p.573
・「「ちょっと待って下さいよ。大豆を食べてハゲたなんて話、これまで耳にしたことがありません」(中略)「ハゲの理由は特定できんじゃろう。おそらくはあらゆる原因が複雑に絡み合ってその現象を作り出しておるのじゃからのう。しかしこのことだけははっきりと言えるわい。インゲン豆を主食とする人々はハゲんのう。」p.577
・「第一の宝のトマトは、エテ公の生活に必要な色との関係を象徴する果実じゃったろう。第二の宝トウガラシは循環の象徴じゃった。そしてのう、第三の宝インゲン豆は、静観、じゃよ。」p.579
●以下『追記』より
・「自殺という終り方が本当に否定されるべきことなのかどうか、ボクはこの物語を書いた後もまだそれを断定できないでいる。」p.619
・「即ち逆の言い方をするなら、ボクは常に自殺の可能性を考えた人間であった。このことを漏らすとみんな意外そうな顔をするが、どんなに明るく振る舞っていても、衝動的に死を考えない日は物心ついてから一日もなかった。ボクは時に、生きるのがとてもしんどくなる。」p.619
・「プロというのは飽きる事がない人間のことだよ。と、ある高名な作曲家に言われたことがある。」p.620
・「食材一本やりで、何とかメキシコの秘密を解くことができないだろうか。」p.623
・「ボクは特別な者にならなくてもいい。高尚な存在や拍手喝采の対象にならなくてもいい。生きることがしんどい性分なら、最後の最後まで生きることだけをやり続けよう。それだけやり遂げられれば、この人生を良しとしよう。それ以上は望むまい。そして本当に最後を迎えた時、自らの物語を振り返ることができれば、ボクはこの世に生まれ出た意味があったのだ。」p.626
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】ワインの本

2010年12月06日 19時02分34秒 | 読書記録
ワインの本, 辻静雄, 新潮文庫 つ-5-2(2927), 1982年
・ワインについての基礎的知識を詰め込んだ入門書。各地のワインの紹介としてフランス、ドイツ、イタリア、イベリア半島(スペイン、ポルトガル)を取り上げていますが、特にフランスの章は、全316ページのうち180ページを費やすという熱の入れようです。その一方で、初出は1974年と古い本のせいか、アメリカや南半球、ましてや日本に至っては一言も言及がありません。内容については地名などの固有名詞が多く、一度さらっと通読する程度ではさっぱり頭に入らず、ワインの実物を目の前にその出生地について調べるなど、地道な読み方をしなければその知識は身につかないでしょう。そのような意味で即効的な実用性は低い本です。
・「ワインはあなたの女ともだちです――目で見て匂いをかぎ、味を確かめて経験をつむことが、ワインを知る最上の方法です。本書は、ワインの歴史・エピソード・よいワインはどのようなぶどうから熟成するのか・フランス、ドイツ、イタリア、スペインのワインの特色と種類・ラベルの見方とワイン用語・ワインと料理のおいしい組み合せなどを伝授し、あなたを「ワイン通」にする入門書。」カバー
・「本書は、ワインの入門書を目指し、フランスを中心に、栽培地、有名銘柄、その特質などを書き並べた。ワインを「知る」には、まずその名前を憶えこむことだと思っているからである。」p.7
・「ワインの醗酵というのは、ぶどうの実を絞った液の中に含まれている糖分が、ワイン酵母の手助けで、アルコールと炭酸ガスに変身することなのです。醗酵が続きますと、醗酵の完了する段階で炭酸ガスは自然に発散してしまい、あとにはぶどう液とアルコールが残るというわけです。」p.16
・「今ではワインの組成分の98%くらいまでは、その比率を含めて解明されていると言われますが、いくらこうした成分を化学的に合成してみても、味はもちろん、香りもワインと似ても似つかぬものしか生まれてこないといわれています。」p.31
・「いずれの場合にも、壜は決して立てないことです。ワインが自然に栓に湿り気を与える程度に寝かせておきます。」p.52
・「白ワインは冷やして、赤ワインは「室温」で飲むというのが原則だと言われていますが、あくまで伝統を守ろうという伝統派ともいうべき人たちと、おいしければいいではないかという現代派とでもいうべき人たちの間で、何かと意見がくい違っているのが、この「ワインの温度」です。」p.52
・「ワインの味をみるには三つの感覚を働かせることが必要です。「見る、香りを吸う、味わう」のです。」p.66
・「食べて酸っぱいぶどうの実は、そのままに捨ておかれた時期があり、そのぶどうの実から自然に流れ出た汁がくぼみにたまり、くさっていくのを知ったときがあったはずです。偶然の機会から、あるいは好奇心にかられて、この「くさった汁」を飲んだ人がいたのでしょう。それをすぐにおいしいと感じたかどうかは別にして、酔うことを覚えたでしょうし、少しずつ人為的に醗酵させる仕事がおこなわれ始めました。」p.72
・「ある日のこと、このマルムーティエの修道院で飼っていたロバが厩を蹴破って、修道院のまわりにあったぶどう畑にとび出して、ぶどうの葉をムシャムシャ食べてしまいました。修道僧たちが、これに気づいたときには後の祭というわけです。ぶどうの樹はさんざんな姿になっていました。修道僧たちの嘆きは大変なものだったのですが、さてその翌年になりますと、ロバが葉を食べてしまったぶどうの樹には、例年になく、見事な実がたくさんついているのを発見したのです。――それからあと、フランス中にぶどうの枝の刈り込みの技術が広まったと言います。」p.96
・「フランス人は、ワインとアルコール飲料を分けて考えることが多いようです。彼らにとって「酒飲み」というのは、アルコール飲料 alcool(英語ではspirit)の常用者ということで、ワインは「普通の飲みもの」ということになります。」p.105
・「また余談ですが、アルコールというのは、もともとアラビア語で、アラビアの御婦人連が睫毛を美しくみせるために使っていた化粧用の粉のこと(これをクール kuhl とよび、頭についているアル al は冠詞の the にあたります)でした。そして、その粉を溶かすのにアルコールを用いていたわけです。」p.106
・「寒い冬の夜長に、ストーブにあたりながら、食事のあと、チューリップ型であれ、風船型のものであれ、グラスに四分の一ほど入れたオー=ドゥ=ヴィを掌のぬくもりで温めて、一口すするときのその香りと味は、「酒飲み」でないと楽しめないこの世の悦楽のひとつではないでしょうか。」p.122
・「このボルドー地帯で、フランス・ワインの十分の一(年間産出量は普通サイズの壜で四十億本とも五十億本ともいわれています)を生み出しているのです。」p.124
・「ボルドーでいうシャトーとは「ワインを醸造するのに適した作業場をもっている、ある程度、規模の大きなぶどう園である」と考えておけばよいのではないでしょうか(場合によっては、建物のないシャトーというのもあります)。」p.125
・「この町は、ひとつの名所をもっています。世界中の食通がこぞって、ナンバー・ワンというレストラン・ドゥ・ラ・ピラミッドです。140キロの巨漢、故フェルナン・ポワンが、ふたつの大戦の間に、自分の料理を食べにくる人だけに料理をつくるという、名人気質をおし通すために、わざとひなびた場所につくったレストランなのです。」p.196
・「ブルゴーニュ地方でも、もちろん、赤、白両方のワインが産出されています。ワインの質は、ボルドーのものはきめが細かく女性的なものであるのに対し、力強く男性的なワインといわれ、ボルドーのワインをエル elle (彼女)とか「女王」とか呼び、これに対しこの地方のものは留意 lui (彼)といわれたり、「王」にたとえられたりします。」p.199
・「南北50キロ、東西12~14キロの幅をもつぶどう栽培区域であるボージョレの名前は、かつてのこの地の領主が住んでいたボージュー Beaujeu の名に因んだものですが、現在の中心地はヴィルフランシュ=シュル=ソーヌ Villefranche-sur-Saone です。」p.202 過去たまたま訪れた場所、がこのように意外な場所で話に出てくると、ちょっとうれしくなってしまいます。
・「シャンパンのつくり方は、摘み入れから醗酵までの操作がほぼ白ワインと同じだと考えてもいいのですが、シャンパンと呼ばれるためには、摘み入れのときから細心の注意が払われなければなりません。  優雅な泡立ちを持ち、お祝いの席には欠かせないとされているこの白ワインの名前は、シャンパーニュ地方の定められた土地、定められたぶどうの品種、定められた醸造方法でつくられたものにだけ用いることができるのです。  フランスの他の地方でも、シャンパンをつくるのと全く同じ方法(シャンパン方式と呼ばれる)で発泡性ワインがつくられていますが、こうしたワインは、ヴァン・ムスー vins mousseux としか呼べないのです。」p.232
・「フランス同様、ドイツでも古くからぶどうの栽培は行われてきましたが、まず出発点はローマ人の手によるもので、中世にはおきまりの教会、修道院が活躍します。  しかし、気候風土から考えて、ドイツは本来ぶどう栽培にはあまりにも不向きな寒冷の地で、ぶどう栽培の北限にあります。その土地でぶどうを育てていくとなると、いきおい栽培区域は限られてきますし、できるだけ短期間で生長し、実が完熟するぶどうの品種を選定しなければなりません。  南に面していて、できるだけ太陽の熱を長時間うける適当な斜面、寒風をさえぎるものがあること、そして土壌の質――これらの条件にあった土地がライン河とその支流一帯なのです。」p.254
・「さて、ドイツのワインは法律上三つに分類されていて、それがラベルに表示されています。ドイツ・ワインのラベルを読むときには、ぶどう栽培地域やぶどう品種名などを確認することももちろん大切ですが、このワインの分類表示は大きな手がかりになります。」p.265
・「地中海に突き出した太陽の国イタリアは、ワインの国でもあります。温暖な気候にめぐまれて、北から南まで、ぶどうが栽培されていない土地はないくらいなのです。ワイン産出量も年によってはフランスを追い越して世界一になることもあります。世界のワインの五分の一を生産し、輸出も世界第一位といいますから、すさまじい量です。ただし、質より量でいこうという感じがしないではありません。イタリアには、フランスのボルドーやブルゴーニュあるいはドイツのラインガウのような「偉大なワイン」というのは数多くはありません。」p.268
・「エスト!エスト!!エスト!!! Est! Est!! Est!!! という、感嘆符をつけた奇妙な名前のワインもこの地方のものです。この名前は、十二世紀のこと、あるドイツ人の司教の身の上に起こった出来事に由来しています。この司教は大のワイン好きで、ローマへ向かう途次、おつきの者を先に走らせて、それぞれの場所で、こっそりと休憩地点や宿屋のワインを調べさせたのです。おつきの者は、ワインが特においしかった場合は、それぞれの宿の壁にラテン語で「エスト Est」の文字を書いておくように命じられていた。これは「ある」という意味なのです。モンテフィアスコーネについたとき、このおつきの者は、ひとつだけ「エスト」を書くのではあきたらず、「エスト!エスト!!エスト!!!」(大ありのコンコンチキ?)と書いてしまったのです。後を追ってこの地に来た司教が、このワインをあびるほどに飲んでしまい、ついには昇天してしまった、と伝わっています。」p.271 時々お世話になっている室蘭のバーの名にはこんな由来があったとは、はじめて知りました。
・「この他、チーズとワインとの組み合わせということになれば、フランス人は目の色を変えて論争となり、我々日本人には迷宮入りになることまちがいないので、これにはふれずにおきます。」p.291
・「ロワイヤル loyal (誠実な)「生粋」「正当な味」とも言われ、何の欠陥も無く安心できるワインを指して言う。」p.303
●以下、解説(荻昌弘)より
・「なぜ、日本では、今の時点、ワインと食事とが密着しないか。  この理由は、きわめてはっきりしている。ワインに対する私たちの接触が、舌の実践たる味覚の上でも、ぶどうという生物と暮しのかかわりの実感に関しても、ワインの由来やひろがりについての頭脳的な把握、つまり狭い意味の「知識」の点でも、「無知」ではなく、「断片的」、「恣意的」に他ならないからである。むしろ逆にいうと、つきあいが断片的・恣意的であるにもかかわらず、私たちはそれなりに、自分が掌で撫でた部分の象、としてのワインはやたら好ましくおもえる結果、自分は決してこの飲料のトータル・イメージを掴んでいるのではないのだ、というポイントを失念したかたちで、不安定な愛の接触に浮遊しつづけている、ということだ。」p.313
・「勿論、この本を読むだけでは、なにひとつ、ワインの「味」はわがものになるわけでもなく、本とはつねにそういう存在であるのだが、」p.315
・「辻静雄という人物は、美食の享楽者としても、食取材や職業人教育の執念の点でも、文献の蒐集と読破に関しても、日常生活の感覚的洗練についても、きわめつけの「高品質」だけを目指す、徹底的な完全主義者、ファーストクラス主義者である。」p.315

《チェック本》 ヒュー・ジョンソン『ポケット・ワイン・ブック』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】悪人正機

2010年10月28日 19時06分53秒 | 読書記録
悪人正機, 吉本隆明 糸井重里, 新潮文庫 よ-20-2(7586), 2004年
・吉本隆明と糸井重里の対談集、というよりはインタビュー集。南伸坊の『個人授業』シリーズとよく似た構成です(『生物学個人授業』、『心理療法個人授業』、『解剖学個人授業』、)。糸井氏から「「生きる」ってなんだ?」、「「宗教」ってなんだ?」、「「ネット社会」ってなんだ?」などの素朴な疑問を投げかけ、それに対して吉本氏がその持論をズバリと展開。その回答はあくまでも平易な言葉で語られ、哲学的な難しげな議論とは無縁の内容です。
・議論の内容が一般的で、専門的議論を期待して読んだ自分としては肩の力が抜けすぎていて、やや物足りない内容。そのぶん気楽に吉本氏の思想に触れるには向いているでしょう。
・「ほんとのことを言うのは、いちばん簡単なことなのに、それができなくなっているからことばがどんどん腐って死んでいく。死んだことばで書かれた説教も処方箋も、役には立たないし、生きていくにはじゃまなものだ。  この本は、人生相談のかたちを借りているくせに、あらゆる「うその考え」をまる裸にする社会とか人間とかいうものの「解体新書」みたいなものとしてできあがってしまった。」p.4
・「それで結局、生きる価値はどこにあるんだ? それはちょっとね、本当にわかんないですね。わからないでしょう。何で価値があるかなんて、わかんないですよね。」p.23
・「要するに、手を使わなければ何もできないんですよ。頭だけ使って、手で考えてないようなのはだめなんだってことはわかるんです。」p.25
・「人助けってことに関してなら、それはやっぱり、親鸞の言っていることが完璧じゃねえかと思ってますね。親鸞は、いかに人間が善意を持って目の前の人を助けようとしても、助けおおせるもんじゃない、と言ってるんです。」p.33
・「よく「俺、友だちたくさんいるよ」なんて言うヤツいるけど、そんなの大部分はウソですよ(笑)。結局、ほとんど全部の人が本当は友だちがゼロだと思うんです。  もちろん、人間には性格的に社交家の人とそうじゃない人もいますよ。でも、社交家だからいいとか、そうじゃないと損でポツンとしてるってことはないんですよ。  結局、どっちだって同じ、どうせひとりよ、ということなんです。月並みだけれども人生というのは孤独との闘いなんですから。」p.42
・「まあ、挫折を知らないからダメだって言われても、どうすることもできないわけだからね。挫折なんて、しないならしなくていいですよね。というかできないですからね。」p.45
・「僕ら日本人っていうのは、過剰に気を遣い過ぎる。だから、こう言っちゃ悪いんだ、みたいになっちゃうんですね。人それぞれ違う考えがあるっていう、相容れない者同士のルールってのが、できてないんじゃないかな。」p.60
・「なんで仕事ってするんだろう  結論から言ったら、人間というのは、やっぱり二四時間遊んで暮らせてね、それで好きなことやって好きなとこ行って、というのが理想なんだと、僕は思うんだけど。」p.65
・「その点でいけば、例えば出版だったら、そういう校正の名手になるとか、自分の機能を高めていくってのを、さしあたって問題にしていくのがいいんじゃないでしょうか。  そうすれば、つまんねえ職場だとか、給料が安い、上司がどうだってことがあっても、自分のテーマを考えてやってるあいだは、緩和したり忘れたりできるんですね。」p.70
・「その点で、本当のプロの詩人と言える人は、谷川俊太郎と、吉増剛造と、この前死んだ田村隆一と、この三人しかいねえかな。あとはみんなプロじゃねえよと思っていますね。」p.76
・「僕が会社勤めやなんかで体得したことでは、会社において、上司のことより重要なのは建物なんだってことです。明るくって、気持ちのいい建物が、少し歩けばコーヒーを飲めるとか盛り場に出られるような場所にあるっていう……そっちのほうが重要なんだってことなんです。」p.86
・「これは僕の独自の解釈だったり理解だったりするんですけども、オウムは、戦後の日本の反体制的な動きの集大成だと思うんですね。だからこそ、善いも悪いも、偶然の契機も全部ひっくるめたところで、あの一連の事件を起こすことができたんです。  ですから、一度「集大成」をやってしまったオウムには、何もできませんよ。仮に「もう一回やれ!」って言われたところで、それこそ偶然がいろいろ重ならなきゃ、絶対にできないと思います。」p.118
・「本当に戦争が起こるっていうのは、ここまでになったらあると思ったほうがいいってのは、ただひとつしかないんです。それは要するに、国家と国家が対立してるところで、一方の国がこれ以上追いつめられたら食べていけねえし、国家としてもやっていけねえってところまで行ったら仕方ねえなってことで戦争になる。そう思ったほうがいいでしょうね。」p.133
・「大学は、まあ、国立公園みたいなところなんですよ。  学生の身分があるとアルバイトもしやすいし、あくせくしながら目的に向かって一直線に行くより、国立公園で一休みしながら考える場所ってことでいいんじゃないでしょうか。」p.147
・「だいたいの感じで言えば、知識なんて四世紀くらいのね、日本国家の始まりのあたり、古墳時代くらいまでに出尽くしているんです。(中略)人間が、人類として出てきてから、まあ百万年くらい経っているわけですが、人間らしさってなんなんだというような重要なことについての変化は、もう四世紀くらいから、身体と同じように、ないんだと言っていいと思います。」p.152
・「ある期間だけを見ればうまくいってるようでも、もう次の瞬間には全部がぶっ壊れそうな争いが起るかもしれないし、永続的に円満な家庭なんてものはないんですよ。みんな、しょうがないからウソついて体裁よくしてるんです。」p.157
・「僕は、自分でもあんまり好きじゃねえなってところは、もうほっていていいと思うんですよ。  それで、ちょっとでもいいから「これは長所だ」と思えるところだけ、伸ばしていけばいいんじゃないかと思いますね。」p.171
・「いつも言うことなんですが、結局、靴屋さんでも作家でも同じで、一〇年やれば誰でも一丁前になるのです。だから、一〇年やればいいんですよ。それだけでいい。」p.171
・「素質とか才能とか天才とかっていうことが問題になってくるのは、一丁前になって以降なんですね。けど、一丁前になる前だったら、素質も才能も関係ない。「やるかやらないか」です。そして、どんなに素質があっても、やらなきゃダメってことですね。」p.172
・「素質がないといえば、三島由紀夫がそうですよ。この人にはもう、文学の素質なんかないと思いますね(笑)。ないけど、やっぱり天才的な人だな、天才的な作品だなと思うんですけどね。  そのことを見破っていたのは武田泰淳なんですけど、三島由紀夫が市ヶ谷で自決しちゃった時の追悼の中で「この人は刻苦勉励の果てに死んだ」ってあからさまに書いてるんです。」p.174
・「情報科学系の人たちっていうのはマルチメディア関係のいろいろなことが発達してきたら、要するに人間の精神もそれにあわせて発達するって言ってるんですね。本を読んでいると全部が全部っていうくらい、そういうことを言ってるんです。  そりゃおかしいんじゃねえかって僕は思うわけです。そういうものが発達すると感覚も発達するっていうだけのことで、精神が発達することとは違うよねって。」p.241
・「最後に、まとめて、ひとつだけ言うと、人間のいちばん重要な精神の問題ってのは、情報科学の発達で届くようなことではないということですね。感覚の発達っていうのは、大いにあるんだろうし、それはいいことなんだ、というのが僕の立場です。」p.247
・「僕の場合、情報は新聞でだいたい間に合います。例えば経済問題を例にとれば、僕は新聞の経済記事しか、分析するのに使っていないんです。というか、新聞以外は考える材料にも使ってませんね。」p.251
・「「酸素と水素」を見つければ、「水」ができる。  どういうことかというとですね、要するに、水が「酸素と水素からできている」ように、分析したい問題を「水」として、「酸素と水素」にあたる情報が何なのかをうまく見つけることができれば、どこの国のどんな問題だって、だいたい当たるんじゃないかっていうことなんです。」p.252
・「フランスにソシュールっていう、本当に偉い言語学者がいたんですけど、この人はそれで頭がおかしくなっちゃったんですからね。つまり、こんなに根拠がない、もうどうしようもないっていうことを考え詰めていってね。何もしゃべらないっていうのと、しゃべるっていうのとどこが違うんだとかね。もうそうなって、ちょっとおかしくなっちゃったんですよ。だから、それぐらい、言葉っていうのは根拠がないんですよ。  人間そのものが持っている根拠のなさと同じでね。生まれたことっていうのには根拠がないんですね。生まれたことには根拠がなくて、それで親の方からいえば、産んだことにも根拠がないってなるんですよ(笑)。」p.268
・「文学では、作者の創作上の秘密がよくわからないという、これは天才だ……っていう人は、そんなにいなくてさ。もしいるとすれば、それはやっぱり、宮沢賢治なんですね。彼の創作物の中には、知識で辿っていけないところがあるんですよ。これはもう、本人に説明してもらわんとわからんぜっていうところが、どうしても残るんです。」p.276
・「本当は自分らが考えてたようなもんじゃなくて、全部借金でもいいから、できる限りお金をかき集めて、何か事業しちゃって、金儲けしちゃってさ。借金を返す返さないなんてのは二の次三の次、どうでもいいんだっていうのが、資本主義の非常に大きな特徴なんだって。」p.303
・「自分でも、やっぱり意識的なものは、力にはならないなぁと考えているし、無意識のうちにやれるようになれば、それはもう、ちょっとしめたものなんだと思っているから、」p.311
・「未開社会の人にいくら話を聞いても、宗教家から言葉でいくら解説を受けたとしても、そこに生きていた時の精神内容は依然としてわからない。それをわかるには、そこに生きていた人とおなじことをやるよりしょうがねえ、みたいなね。」p.333
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】冠婚葬祭のひみつ

2010年10月21日 19時07分33秒 | 読書記録
冠婚葬祭のひみつ, 斎藤美奈子, 岩波新書(新赤版)1004, 2006年
・読者の中には「なんでまた ぴかりん はこんな本を??」と不審に思われる方がいるかもしれませんが、単にお気に入りの作家の作品を手にとってみたというだけの話です。
・日常間近な存在ながら謎だらけの "冠婚葬祭" について、その歴史や実情について明快に語られていますが、その内容は単なる知識の披瀝にとどまらず、文化論や人類学的な議論にまで及びます。てっきり、江戸時代よりも遥かな昔から連綿と続いているものと思っていた結婚式や葬式の儀式が、明治以降のついこの百年のうちに出来上がったものであることを知り、愕然としてしまいました。その他ポロポロと目からウロコが落ちまくるような内容で、特に "冠婚葬祭" に興味がなくとも、面白い読み物として楽しめると思います。
・日常の影に隠れた "ひみつ" を抉り出し、バッサバサと軽快に切っていく、そんな著者の真骨頂を味わえる良書。
・「冠婚葬祭、それはきわめて不思議な、そしておもしろい文化である。  まれにしかないビッグイベントだからだろう、冠婚葬祭に遭遇すると、人はみな、そわそわと浮き足立つ。日頃は気にもしない「しきたり」「作法」「マナー」「常識」「礼儀」などが急にパワーを発揮するのも冠婚葬祭。日頃は信じてもいない宗教が急に必要になるのも冠婚葬祭。日頃は忘れている「家」の存在を強烈に意識するのも冠婚葬祭だ。」p.i
・「本書の目的は、第一に、そうした冠婚葬祭をめぐる情報の森にとりあえず分け入って、冠婚葬祭の過去と現在を俯瞰すること。第二に、以上をふまえた上で、現代にふさわしい冠婚葬祭への対処の仕方を考えることである。」p.i
・「その前に言葉の意味を整理しておこう。冠婚葬祭とは何なのか。  辞典には「古来の四大礼式。元服(=冠)と婚礼(=婚)と葬儀(=葬)と祖先の祭祀(=祭)のこと」(『広辞苑(第五版)』)などと書かれている。」p.ii
・「すなわち冠は「第二次性徴の社会化」、婚は「性と生殖の社会化」、葬は「死の社会化」、そして祭は「肉体を失った魂の社会化」。儀礼は生理を文化に昇格させる装置だったのではないか。」p.iii
・「ちなみになぜ通夜をするかというと、(これには諸説あるのだが)ほんとに死んだかどうかを確かめるためだったらしい。」p.4
・「神前結婚式と告別式型葬儀の共通点は「簡便である」ということだろう。宗教がどうしたというようなことは、じつはあまり関係ないのである(と私は思う)。」p.9
・「神前結婚式はキリスト教式結婚式の影響、というよりそれへの対抗意識から生まれたのではないか、という説もある。幕末から明治にかけて来日した西洋人の婚礼を見て、目端のきく人がひざを打ったとしても不思議ではない。あっちが全知全能の神さんなら、こっちにはイザナギ・イザナミの神さんがいるじゃないか……とか。」p.11
・「葬式と仏教が結びついたのも江戸時代からで、それ以前は、婚礼と同様、葬式も宗教が介在しない形で行われていたことは知っておいてもいいだろう。  もともとの仏教の教えに葬式という発想はないのだそうだ。釈尊は出家者は葬儀にはかかわるな、葬式などは在家の者に任せておけ、といい残したという。」p.12
・「葬儀のスタイルを一変させた要因は、もうひとつある。火葬の普及だ。こちらはテクノロジーの進化、もっと大げさにいえば産業革命と連動している。」p.17
・「葬式の近代化とともに、喪服の文化も変わった。旧来、日本の喪の色は白だった。それが欧化政策の一環で黒が礼服の色となり、洋装化と連動して和服も黒へと変わっていく。一説によると、明治三〇年代の皇室の葬儀が黒い喪服の最初という。  おおかたこれも、どこかの呉服店かデパートが最初に売り出したのではなかろうか。」p.19
・「「入籍」こそが結婚だと思い込んでいる人は今も多い。が、何をもって結婚とするかは、それぞれの社会でちがっている。一定の形式にそった儀礼をもって結婚とする「儀式婚」。当事者同士の契約による「民事婚」。法律で結婚の要件を定める「法律婚」。」p.21
・「妻の座といえば、明治民法でもう一つ重要なのがこの条項だ。  「配偶者アル者ハ重ネテ婚姻ヲ為スコトヲ得ス」(第七六六条)  日本において、一夫一婦制が確立したのは、この条文によってである。  日本の富裕層、エリート層は、事実上の一夫多妻(一夫一婦多妾)で、家督を継がせる男子を確保するとの名目で、男は「妻」のほかに複数の「妾」をもつのが当たり前だった(「蓄妾制」と呼ばれる)。一夫一婦制はキリスト教の習慣だから、民法がこれを採用しようとしたとこも「麗しい日本の伝統を壊す気か!」という反対論が巻き起こったほどだった。」p.22
・「冠婚葬祭マニュアルは、儀式の型を学ぶためのマナーブックだと私たちは思っている。しかし、セックス、迷信、優生思想に彩られた戦前のマニュアルは、重要な事実を教えてくれる。「しきたり」「常識」「心得」といった口当たりのいい言葉の裏に、看過できない差別思想がじつは隠れているかもしれない、ということである。」p.45
・「『冠婚葬祭入門』はつまり、「戦後の家族」の視点で、従来の冠婚葬祭を整備し直した点に特徴があったのだ。」p.71
・「人の習慣は永遠不滅のようで、変わるときには急激に変わる。バブル経済が崩壊し、元号が昭和から平成に変わったのちの1990年代の中盤、結婚式と葬式は、まるで申し合わせたかのように、そろって大きな地殻変動を起こすのである。」p.80
・「現在の冠婚葬祭マニュアルの問題点、それは形式に流れすぎている、ということだろう。もっといえば業界のスポークスマンに成り下がってしまっている。」p.88
・「伝承の整理のためにあったはずの本が、いつのまにか自分自身が権威と化す。「常識」だ「しきたり」だと威張っている人に「どこで知った?」と聞いてみよう。たいていは聞きかじり、よくてこの種の本だから。」p.91
・「現在の日本では、法律婚をするカップルの四組に一組が「でき婚」だ。ことに女性が十代の場合は81%、20~24歳では58%が「でき婚」である(「第12回出生動向基本調査」2003年)。(中略)女性が十代で結婚した場合の離婚率は58.4%、20~24歳の離婚率は42.5%である(厚生労働省「人口動態統計」2003年)。「でき婚」の二人に一人は離婚する。おそろしい統計である。」p.96
・「私はこの先、結婚の二極化がますます進むように思う。子どもなしの事実婚を選ぶ高学歴・高所得層と、若年の「でき婚(のち離婚)」に流れる低学歴・低所得者層と。」p.97
・「冠婚葬祭は一面では「結婚」や「死」という人生の重大な局面に隣接した事態だが、一面ではビジネスであり、ファッションだ。神前結婚式が発明され、近代的な火葬が普及してからすでに百年。現代の冠婚葬祭は、当時の大変革にも負けないほど、おもしろいことになっている。マニュアルに頼る時代から、自分で自分の行動規範を決める時代へと、このジャンルも確実に変化しているのだ。」p.98
・「チャーチとチャペルのどこがちがうかというと、牧師や神父等の宗教者が常駐している場合が「チャーチ」、建物だけの場合が「チャペル」。」p.103
・「独立型チャペルで挙式をし、ゲストハウスでパーティをというのが現在の最先端であり、新興のウェディングプロデュース会社も古参の結婚式場もゲストハウスの建設に余念がない。」p.105
・「現在の西欧式婚礼の習慣は、1840年、即位三年目だった英国ヴィクトリア女王の婚礼に由来するものが多い。白いベールとウェディングドレス、花嫁のブーケ、三段重ねのウェディングケーキ、ハネムーン。すべてこのときの発明だ。」p.115
・「結婚式で本人以上に「盛り上がって」いる人はいないということは一応知っておきたい「常識」である。大切な彼や彼女のお祝いだと思うからこそ、参列者は万障繰り合わせて「出てあげて」いるのである。  どれほど演出が優れていても、アットホームな雰囲気でも、結婚式は疲れる。どんなに二人を祝福していてもそうなわけ。結婚は「性と生殖の社会化」だから、そもそもが小っ恥かしいものなのだ。そこんとこだけ、どうぞお忘れなく。」p.129
・「ここ数年分の統計を見ても、婚約・挙式・新婚旅行までにかかる費用はざっと370万円。新生活の準備金にざっと150万円、合計して約520万円。首都圏の場合はさらにかさんで600万円以上(表2-1参照)。それが今の結婚の「相場」である。」p.130
・「勘違いしちゃいけないのは、あくまでも二人の新しい戸籍を「つくる」のであって、一方から一方の戸籍(家)に吸収合併されるわけではないってことだ。明治民法下の結婚じゃないんだから「入籍」という言葉を使うのは、そろそろやめろと申し上げたい。なんといってもこの言葉が誤解と混乱の元なのだ」p.132
・「法律婚の最大のメリットは、法的な保証を受けられること、そして「世間並み」であることだろう。」p.132
・「「結婚+養子縁組」のメリットは、夫婦ともに親の財産を相続できることである(逆にいえば結婚しても相手の親の相続権はない)。」p.142
・「――これがいわゆる「世間並みの葬儀」である。  日本消費者連名の2003年のアンケート調査では、総費用の全国平均が328.6万円だった。東京都生活文化局の2003年のアンケート調査では345万円。目安はざっと300万円。「ドッヒェー、そんなに?」というほどの金額である。」p.155
・「現代の葬儀は、どんな形で行うにせよ、葬儀社の手を借りずに行うのは不可能だ。つまり葬儀社選びで葬儀のすべてが決まると思っていい。  その意味でも、自分のため、家族のため、あらかじめ「かかりつけの葬儀社」を探しておくのは、危機管理上、必要なことに思われる。」p.175
・「話し合うべきは、喪主を誰にするかと、葬儀の規模と場所、遺影をどれにするか、そしてだいたいの予算である。」p.192
・「葬儀社との打ち合わせは、あとでトラブルにならないよう複数で行うこと。寺院へのお布施や飲食費も含めた総予算を伝え、詳細な見積もりを取ることが大切だと、葬儀のプロは口をそろえる。セット内容をよく見て、わからないことは質問し、要らないものは要らないと、もっとお花を多くしたいなどの希望があれば、その旨もはっきりと。」p.192
・「あとは、「故人の遺志」を使い倒す。「故人に派手なことはするなといわれていますので」「故人の遺志で院号は要らぬといわれていますので」  「故人の遺志」は伝家の宝刀。これでたいがいのことは押し通せる。」p.193
・「死をケガレと考える「清めの塩」に違和感を感じる人も今は多いし、ひたいに三角形の布(天冠)をつける幽霊のコスプレみたいな死装束がイヤという人もいる。良心的な葬儀社はみな、要らないものは断っていいと述べている。不要と思うなら、全て削るべし。」p.194
・「結婚費用に驚愕し、葬儀の費用に言葉を失い、最後は墓の値段を知って卒倒する。冠婚葬祭とは、なんと物入りなものだろう。」p.201
・「こうして見てくると、骨とはなかなか厄介なしろものである。死んだ本人は無縁になることを心配し、遺骨を抱えた人は安置場所を求めて悩む。」p.208
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】アラビアのロレンス [改訂版]

2010年10月05日 19時06分34秒 | 読書記録
アラビアのロレンス [改訂版], 中野好夫, 岩波新書(赤版)73(R19), 1963年
・『アラビアのロレンス』という耳にしたことはあるけれど、その実態については何も知らないフレーズを目にして思わず手にとった書。「第一次世界大戦の最中、トルコの圧制に抗して立ち上がったアラブ人を率い、疾風の如く砂漠を馳駆して闘った冒険児」だそうで、その活躍を描いた映画が非常に有名なようですが、私は見たことがありません。
・読めども読めども先に進まぬ、ぬかるみに足をひきずるような読書感で、読んでいて非常に疲れる苦手な文章です。1963年に公開されたその映画をきっかけに改訂再版したとのことで、どうも既に映画を見ていくらかの予備知識を持った読者を想定しているような節もあり、そんなところにも読みづらさの原因があるのかもしれません。
・「非常に面白いことは、この青少年時代ばかりでなく、生涯を通じて、彼が一切の団体競技類を極度に嫌悪したことである。これはイギリスの、ことにオックスフォード大学生活などではきわめて異常な生活態度だが、フットボール、クリケットなど、いずれも彼自身やらないのはもちろん、見ることもしなかったといわれる。」p.7
・「さらに前述アカバ攻略行の途中、バイルから遊撃隊を率いて鉄道破壊に出たときも、一度彼等はお誂え向きの好餌になるトルコ兵の一隊を見出している。だが彼は、好機とばかりにはやり立つアラブ人を抑えて、第一にまずいくらの死傷を見方に予想しなければならないかを質している。しかもその答が、少数ながら犠牲者の出ることは覚悟しなければならないというのであったとき、彼は「こんな単なる示威のために五、六人を失うことは、よし計算の上では利益であろうとも、愚かであり、いや、それ以上である」(第五十章)として、ほとんど暴力に訴えてまで制止しているのである。この生命に対する彼の観念は、ゲリラ戦指導者としてロレンスの行動を終始一貫する一つの原理であったといってよかろう。」p.100
・「鉄道破壊がロレンスのお家芸であったことは、今日ではあまりにも周知の事実になった。ロレンス自身が手ずから爆破装置を施したものだけでも、叛乱一年余にわたって七十九回に達しており、彼等仲間の指導者たちが行ったものを合せれば、おそらく想像以上の莫大な数字にのぼっていたであろう。」p.103
・「ロレンスを指して架空の嘘つきであるいうものはないが、同時に、彼に一種の見え坊からする誇張癖、神秘化傾向のあったことも、まず疑いがない。」p.126
・「たとえば人間ロレンスの秘密を解く鍵の一つは、まず彼の中にいた完全に相対蹠的な二人のロレンス――いいかえれば、かなりの自己露出癖と、反対に、ときには病的なまでの自己隠蔽性とが、異常に交錯し合って彼の中に存在していたことにあるのではあるまいか。しかもこの交錯の異常さが、とうていわれわれの論理的、常識的分析を許さないものであるかぎり、依然として彼が「神秘の人」、「人間カメレオン」であった事実に変りないであろう。」p.228
・「では、なにがかくも彼等の心を捕えたのであろうか。第一には、もちろん最初にも言った、彼の文明人離れのした肉体力であった。彼の耐久力がよく土民を凌ぐものであったことは、最初にも言ったが、その他、彼等と全く同一の衣食に堪え、しかもあらゆる風土を克服し、食いだめ、眠りだめまでできたということは、驚くべき肉体的異常さであった。ことに戦傷だけでも九度(『智慧の七柱』の中ではうち五、六回しか記載がない)、一生に経験した航空事故七回、骨折に至っては子供のとき以来三十三ヵ所、肋骨だけでも十一回というのだから、これはもはや文化人の想像を絶したものであろう。  だが、もとよりその一面に見逃すことのできない秘密は、アラブ人心理に対する周到な洞察、研究にもあった。」p.250
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】失敗を生かす仕事術

2010年09月30日 19時00分42秒 | 読書記録
失敗を生かす仕事術, 畑村洋太郎, 講談社現代新書 1596, 2002年
・人間が日々繰り返す『失敗』について、主に職場でのケースに焦点をあて、系統立ててまとめた書。日本人においての失敗との闘いとは、突き詰めて考えると「失敗を恐れる国民性との闘い」となる。『失敗を重ねて夢のある未来へ』をスローガンに意識改革を図るべき、という著者の熱意は伝わってくるが、果たして『失敗博物館』の設立は成るのだろうか。
・「多くの学問がそうであるように、このときはこうすべきだという「うまくいく方法」を教える講義を行っていると、眠そうな顔でつまらなそうにそれを聞いている学生がたいがい何人かいるものです。それが失敗の話を始めた途端に、そのような学生たちまで一転して目を生き生きとさせ、熱心に話に聞き入るということがよくありました。(中略)失敗には、なにやら人を引きつける不思議な魅力があるのはたしかです。  その秘密に迫ってみようと、さまざまな失敗を注意深く観察し、体系的にまとめたのが、私が「失敗学」と呼んでいる考え方です。」p.14
・「私は失敗とは、  「人間が関わって行うひとつの行為が、はじめに定めた目的を達成できないこと」  と定義しています。」p.14
・「失敗しないためのいちばんの方法は、何も新しいことにチャレンジしないことです。しかしそうした人は、失敗はしないかもしれませんが、その人には成功も喜びも訪れません。」p.15
・「社会の要求がすでに別のところにあるのに、それを見ようとしないで従来型のことしかやろうとしないおかしさも、いまや日本中の組織に共通している問題です。」p.21
・「いま求められている人材は、時代に合った新しい定式を生み出す能力を持った人です。  そしてその能力は、まず行動して新しいことにチャレンジしていくことからしか身につきません。」p.31
・「本当の意味で未来への不安に打ち勝つためには、やはり自分を脅かしているものの正体をしっかり見極めるところから始めなければなりません。正体がわかれば、対処の方法も生まれてくるはずです。」p.37
・「日頃からいろんなものをきちんと観察し、シナリオが頭の中に入っている人というのは逆演算の能力にも優れ、対象の全体像を理解する能力も磨かれるのです。」p.64
・「これらは一見すると、まったく無意味な行動に思えるかもしれませんが、どんな些細なつまらないことであっても、興味を持って徹底的に観察を行えばそこには新たな発見が必ずあるのです。そして、その発見の数が多い人ほど、対象を理解する能力に長けているという見方もできます。」p.78
・「当時の私は「いい研究を行えば世の中はそれを必ず使ってくれる」と心から信じ、自分が「いい研究」と思っていたものに世の中がまったく関心を示してくれないことを不満にさえ思っていました。自分が本当に世の中が必要としている研究を行っているかどうかを顧みずに、「使わない世の中がおかしい」と考えていたわけですから、いまから考えるとどうかしていました。」p.92
・「労働災害の世界には、災害が発生する確率を経験則から導き出した「ハインリッヒの法則」というものがあります。一件の重大災害の裏には二十九件のかすり傷程度の軽災害があり、さらにその裏にはケガまではいたらなくても三百件の「ひやっとした体験」が存在しているという考え方です。」p.106
・「相手が海千山千の上司ならば、このとき「いざとなったら会社が全部責任を負うから」と甘い言葉をささやいてくるでしょう。そのような場合には「問題が発覚したら、あなたの命令でやったことをいいますよ」「地獄に落ちるときはあなたも一緒ですよ」などといって、責任を共有しなければならないことを相手に自覚させるくらいのことは最低でもやるべきです。それでも相手がまったく怯まないならば、場合によってはひとつ上の上司と話し、同じように「道連れ」であることを強調しておく必要があります。」p.120
・「失敗が起ったときの準備として、日頃から「ばれたら恥かしいことはやらない」という心構えで行動することも大切です。自分にやましさがあると、失敗したことで心を打ちのめされたときにどうしても「自分が悪かったんだから」というあきらめの心が出てきて、それが失敗から再起する気力を奪ってしまうことがあるからです。」p.122
・「誰もが訪れたチャンスを逃さずにつかみたいと考えているはずです。ただ残念ながらチャンスの女神に後ろ髪はありません。目の前にやってきたのが見えた人だけが前髪を捕まえられるのです。タイミングを逃して通り過ぎてから捕まえようとしてもすべて後の祭りです。」p.131
・「ある米国人と話したとき、「日本人が書いた経済書で、欧米で売れているものは一冊もない」と辛辣な言われ方をされたことがあります。ややオーバーな感じがしますが、その人が言わんとしたのは、日本の経済書は小手先のテクニックにばかり目を向けて、トータルとして何を目指しているのかの哲学がないということでした。(中略)日本はたしかにいまあるものを部分改良して、新しい優れた手法や理論を生み出すことは得意でも、これまでにないまったく新しい分野を開拓するのは不得手です。それはいまのように社会のパラダイムが大きく変わった時代に直面したときでも、考え方を根本から見直すことができず、部分改良に終始している姿勢によく現れています。」p.135
・「組織で、唯一全体を見渡すことができる立場にあるのは、結局はトップでしかありません。全体を見ないと組織の失敗対策はできないのですから、「失敗対策はトップダウンでやるべきだ」というのが私の持論です。  日本では、なんでも下からやることをとかく大事にする風潮がありますが、これはやはりケース・バイ・ケースで考えなければならない問題です。」p.155
・「私はかねてから、「QCやTQCでは、失敗は決して防ぐことはできない」と主張してきました。もちろんそれはQCやQTC自体の否定ではありません。」p.169
・「ちなみにマニュアル化のことを考えるのに身近にあるよい例は、マクドナルドでしょう。マクドナルドは食材や備品の大量発注、標準化によってコストを切り下げ、さらに仕事においても徹底したマニュアル化によって効率化を図っています。その結果あれだけの低価格を実現し、社会に受け入れられているのです。  ただマクドナルドで働いている人の頭の中をのぞいてみると、おそらくどうやってマニュアルの手順通りにハンバーガーを焼いたりポテトを揚げるかということを考えているだけで、そこにはレストランで働く料理人に見られるような工夫、想像、仮想演習などはないに違いありません。創造力などは必要とされないので、当然マクドナルドでハンバーガーを何万個焼いても料理人にはなれません。」p.175
・「失敗情報の積極的な発信は、失敗に対する危機管理として有効です。」p.184
・「「失敗はあってはならない」「失敗はけしからんことだ」という発想でいるから、結局、失敗したときの準備がまったくできていなかったということだと思います。もし「失敗は必ずある」というところからスタートして、失敗したときの対応についてもきちんと学んで備えていたならば、実際に失敗が起こったとき、動転してまわりの誤解を深めることもなかったでしょう。」p.194
・「ここでのポイントは、まさに「公共の利益」という言葉に尽きます。その点からみれば、人間の心理を考えながら真の失敗原因を明らかにする社会システムを作っていくのは失敗対策を強固にしていく上で欠かせないものです。」p.199
・「そういった意味で私は、失敗の研究、失敗情報の収集や発信、失敗の体験などもできる「失敗博物館」をつくることが必要だと考えています。」p.204
・「今回の狂牛病騒動にしてもそうですが、大きな問題が生じると必ずこれを批判する声があちこちから上がります。「政治が悪い」というのもあれば、攻撃の幅を広げて「マスコミが役割を果たしていないから悪い」とするのも定番です。  不思議なことに、そのような批判ばかりをしている人の日常生活を見ていると、「自分自身は社会をよくする行動など何ひとつ実行していない」という場合も珍しくありません。」p.211
・「老人がよく「一年が早く過ぎていく」と言います。これは言い換えれば「新しいことが何もない」という意味だと考えられます。(中略)結局、体感時間の長さは、人生の充実度に比例するものだと私は考えています。多くの人々が目指している失敗のない人生は、不安と期待が交差したワクワク・ドキドキの感情も少ない、時間だけが早く過ぎていくもののような気がします。(中略)平坦な短い一生を送るか、それともワクワク・ドキドキのある充実感のある長い一生を送るかは、まさに失敗を避けるか、それとも真正面から向き合って生きるか、自分自身の選択ひとつで決まるものなのではないでしょうか。」p.219
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】心は量子で語れるか

2010年09月11日 15時06分11秒 | 読書記録
心は量子で語れるか 21世紀物理の進むべき道をさぐる, ロジャー・ペンローズ (訳)中村和幸, 講談社ブルーバックス B-1251, 1999年
(THE LARGE, THE SMALL AND THE HUMAN MIND, Roger Penrose, 1997)

・「人間の精神的活動を科学的に説明する」 この非常に興味がありながら、いわゆる "似非科学" に類すると見なされがちな問題について、世界一流の有名科学者が真向から挑み、物議を醸した書。第一部では宇宙、量子力学、人間の心について自説を語り、第二部では三人の科学者(アブナー・シモニー(ボストン大学名誉教授)、ナンシー・カートライト(ロンドン大学社会科学部教授)、スティーヴン・ホーキング(ケンブリッジ大学ルーカス記念講座教授))との対話を収録する。
・著者の主張する「心の発生の量子力学的説明」には結局ついていけず、その理解は中途半端のまま。もちろんまだ本書でその結論に至っているわけではなく、その考え方のエッセンスは205ページの書き抜きに凝縮されている。かなりの期待を抱いて手にした本だったが、それに応えるほどの驚きは無かった。
・「果たして現代物理学――特に量子力学――には、人間の意識について語る資格があるだのだろうか? ペンローズ自身は、現在の量子力学は不完全だと考えており、それをより精密なものにすることによって、人の魂の成り立ちを説明できると主張している。もちろんこの主張には数多くの批判が寄せられているが、さまざまな機会をとらえて、ペンローズは自己の立場を擁護している。」p.5
・「本書に収録されたホーキングの考えを読んでもわかるが、彼はペンローズの構想を絵空事くらいにしか見ていない節がうかがえる。」p.6
・「なお原題にあるように、本書では宇宙と量子と人間の心を扱っているが、意識は無数の量子によって生じるというペンローズの意を受けて、邦題では『心は量子で語れるか』とした。」p.7
・「私が物理法則の記述を二つに、すなわち宇宙(the Large)と量子(the Small)の二つの章に分けることにした理由はいくつかあるが、その一つは、大スケールの振る舞いを支配する法則と、小スケールの振る舞いを支配する法則が、非常に異なるように見えることである。この二つの振る舞いがかなり違って見えるという事実と、この 見かけ上の 差異をどう理解しなくてはならないかが、第三章の話の中心になる。なお第三章では、人の心(the Human Mind)が登場する。」p.29
・「つまり数学者たちは、物質的世界の方が、("時間を超越した")数学的世界から出現したと考えたいのである。」p.31
・「私たち人間は、存在のはかなさをしばしば口にする。しかし図一-四に示された人間の寿命を見ればわかるように、決して私たちがはかないということはないのである。そう、私たちはおおよそ宇宙自身と同じくらいに長生きなのだ!(中略)言いかえると、人間の寿命を何倍かして宇宙の寿命にするときの、その乗数は、プランク時間(または最も短い素粒子の寿命)を何倍かして人間の寿命にするときの乗数よりも、はるかにずっと小さい。このように私たち人間は、宇宙においては非常に安定した構造体なのである。  空間的な大きさに関して言えば、私たちは全く中間的な存在であって、広大な宇宙の物理も微少な素粒子の物理も、直接的には経験できない。」p.34
・「おもしろいことに、人が夢中になるような幾何学的問題の分析や結果には特有のエレガントさがある。逆に、この数学的なエレガントさをもたないような分析はいずれ消え失せてしまうだろう。」p.71
・「大ざっぱに言うと、エントロピーは系の無秩序さを表す量である。この概念をさらに正確に表現しようとすると、"位相空間" の概念を導入しなければならない。  位相空間は膨大な数の次元をもつ空間であり、この多次元空間の各点は、問題としている系を作りあげている全粒子の位置と運動量を記述している。」p.78
・「そこでは、現に私たちが住む宇宙と少しは似ている宇宙が誕生してきた初期条件を示す非常に小さな一点を、神様が位相空間の中に見つけようとしている。その一点を見つけるために、神は10^10^123("^" はべき乗)分の一の精度で、位相空間中の一点を突き止めなければならない。宇宙に存在する各素粒子の上に0を一つずつ置いたとしても、なお、10^10^123という数字を完全に書き下すことはできないだろう。これは途方もない数字なのである!」p.88
・「量子力学は、物事が生じる際の基本的性質として大きく関与していると、私は信じている。」p.139
・「物質から精神が生じるという考え方には根本的な問題がある、と私は思う。この問題で哲学者が頭を悩ませるのは当然のことである。  私たちが物理学で論じるのは、物質や質量の大きい物体や素粒子、さらに空間や時間やエネルギーなどである。この物理学と、私たちの感覚、すなわち色を知覚したり幸福を感じたりすることとが、どんな関係にあるのだろうか? 私は、それは一つの神秘だと思っている。」p.153
・「"意識(consciousness)" とは何か? 残念ながら、それを定義する方法を私は知らない。私たちは意識とは何かを知らないのであるから、今は、その定義を試みる時ではないと思う。意識は物質から導きうる概念だと私自身は信じているが、そのことを定義しても、おそらく誤ったことを定義する結果になるだろう。」p.159
・「ゲーデルの定理が示しているように、自然数の性質を私たちが理解できるのは、規則によるわけではない。自然数が "何であるか" を理解することは、プラトン的世界と接触することである。」p.185
・「第二章で私はOR物理学という新しい形式が必要だと主張した。そしてOR物理学が適切であるならば、周囲から十分に隔離されて、量子的に重ね合わされた質量移動が可能となるに違いない。管内部では、何か超伝導体のような、或る種の大規模な量子的干渉が生じているのだろう。この活動が(ハメロフ型の)チューブリン構造と結びつき始めたときにのみ、おそらく顕著な質量移動を伴うはずだ。ここでは "セル・オートマトン" の振る舞い自体が、量子的重ね合わせの影響を受けるかもしれない。」p.205
・「ペンローズの研究計画について、次の三つの根本的な主題に私は賛同している。第一に、精神は科学的に扱えるということ。第二に、量子力学の考え方は、心と体の問題に適用できるということ。第三に、潜在的可能性の実現という量子力学の問題は、量子的形式主義を修正しなければ解決できない、正真正銘の物理上の問題であるということ。」p.222 by アブナー・シモニー
・「基本的にペンローズはプラトン主義者で、唯一の物理的実在を記述する、唯一の観念の世界が存在すると信じている。一方、私は実証主義者で、物理理論は私たちが構築する数学モデルにすぎないと思っているし、また物理理論が実在に対応しているかどうかを尋ねるのは無意味で、それらは単に観測結果を予言するかどうかだと考えている。」p.260 by スティーヴン・ホーキング
・「ペンローズの第三の主張は、意識をもつ心は計算できないことをゲーデルの定理が暗示しているので、どういうわけか客観的収縮が必要になるというものである。言いかえると、意識は生物にとって何か特別な存在であって、コンピュータではシミュレートできないと、彼は信じているのである。意識が客観的収縮によってどのように説明されるのか、ペンローズは明らかにしなかった。むしろ彼の議論は、意識は神秘であって量子重力はもう一つの神秘であるので、両者は関連があるに違いない、というもののように思えるのだ。」p.262 by 同上
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする