宮城谷昌光版『三国志』の第六巻までの再読を終わり第七巻の発売を楽しみに待っているところです。
いまは畠中恵氏の『しゃばけ』シリーズの再々々々読と、田丸公美子氏の『シモネッタのドラゴン姥桜』の再々読、そして爆笑問題太田光氏の『トリックスターから、空へ』を読んでいます。
読書がごく日常の“好きな事”の一つになっている人にとって、複数の本を並行して読み進めていくってことは特別なことじゃないですよね。楽しむための読書に加えて仕事に必要な参考書や資料も読みますよね。
私の場合はレッスンの行き帰りに電車の中で読む本、自宅で椅子に座って読む本、お風呂に浸かりながら読む本、で大抵は3冊。
仕事がない日にウィンドゥショッピングに出かけた折にちょっとお茶しましょうと思いついたとき、
「じゃ、お茶しながらちょっと読もう」
と、新しく文庫を1冊買ったりもする。
読書ということをほとんどしない、またはあまりしない、という人には
「そんな2冊も3冊も並行して読んで、ごっちゃにならないの」
と訊かれるけど、正直なところごっちゃにはならない。
3冊、とはいってもそれぞれジャンルの違うものを読んでいるからね。
昔、司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』と『播磨灘物語』と『燃えよ剣』とを並行して読んだことがあるけど、ごちゃ混ぜにはならなかった。
『燃えよ剣』と『竜馬がゆく』は時代背景は同じだがそれぞれの主人公が属している社会と行動の方向性が違う。そしてこの2作と『播磨灘物語』とでは舞台となる時代そのものが違う。
そういう歴然とした違いがあるからね、混ざらないんだと思います。
「んじゃぁ、司馬遼太郎と池波正太郎と宮城谷昌光を並行して読んだら…?」
とも訊かれたことがあるけど、それでも大丈夫。
なぜならば三者三様で文体も違えば筆致も違う。単純な言い方をしてしまえば“癖”が違うから混ざらないな
なんにせよ、本はたくさん読んだ方がいいと思う。
一人の実在の人物を主人公にして複数の作家が歴史小説なり時代小説なりを書いたものを読むとするでしょう。
すると、A氏の作品ではいまいち判然としなかった事柄が、B氏あるいはC氏の作品を読むことで
「あぁ、なるほど、そういうことか…。そういうことだったのか」
と腑に落ちたりする。
ときには
「けっ、コイツきらいだね…」
と思っていた人物が、別の作家の作品を読むことで
「ありゃ、コイツったらなかなかにいいところもあるヤツなのかも…」
と見方が変わったりするでしょう。
そして、みんながいうことだけど、自分では経験出来ない、行くことが出来ない、見ることが出来ない、触れることが出来ない、出会うことが出来ない、手に入れることが出来ない、etc.etc.そんな膨大な事象を本を読むことによって仮想体験出来る。
1冊の本をどんなに繰り返し読んでもそのすべてを克明に暗記しその状態を死ぬまで保持し続けることは出来ない。
たくさんの本を読めば読むほどそこで読んだ内容をすべて表意識の上に留めておくことは出来ない。
でも、と絶大な期待を込めて私は思うのである。
きちんと楽しんで読んだ本の内容は脳みそのどこかに何かの形で消滅することなく生涯保存されていて、生きている間にその中の“ある情報”を必要とするような状況になったときに、ピョっと浮き上がってくるんじゃないかな、と。
普段は自分がそんな知識をもっていることも、その知識を得るために何らかの本をかつて読んだということもすっかり忘れているんだけど、実は脳みその中では私の知らないところでちゃんと情報として貯めてあるんじゃないかな、と。
だからたくさん本を読もうと思っている。
いろんな本を読んでいろんなことを知って、大事な脳みそにたくさん栄養を上げたいと思う。
そして1冊の本を話題にして誰かと盛り上がれたら、それはまた実に楽しく嬉しいことよね。
いまは畠中恵氏の『しゃばけ』シリーズの再々々々読と、田丸公美子氏の『シモネッタのドラゴン姥桜』の再々読、そして爆笑問題太田光氏の『トリックスターから、空へ』を読んでいます。
読書がごく日常の“好きな事”の一つになっている人にとって、複数の本を並行して読み進めていくってことは特別なことじゃないですよね。楽しむための読書に加えて仕事に必要な参考書や資料も読みますよね。
私の場合はレッスンの行き帰りに電車の中で読む本、自宅で椅子に座って読む本、お風呂に浸かりながら読む本、で大抵は3冊。
仕事がない日にウィンドゥショッピングに出かけた折にちょっとお茶しましょうと思いついたとき、
「じゃ、お茶しながらちょっと読もう」
と、新しく文庫を1冊買ったりもする。
読書ということをほとんどしない、またはあまりしない、という人には
「そんな2冊も3冊も並行して読んで、ごっちゃにならないの」
と訊かれるけど、正直なところごっちゃにはならない。
3冊、とはいってもそれぞれジャンルの違うものを読んでいるからね。
昔、司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』と『播磨灘物語』と『燃えよ剣』とを並行して読んだことがあるけど、ごちゃ混ぜにはならなかった。
『燃えよ剣』と『竜馬がゆく』は時代背景は同じだがそれぞれの主人公が属している社会と行動の方向性が違う。そしてこの2作と『播磨灘物語』とでは舞台となる時代そのものが違う。
そういう歴然とした違いがあるからね、混ざらないんだと思います。
「んじゃぁ、司馬遼太郎と池波正太郎と宮城谷昌光を並行して読んだら…?」
とも訊かれたことがあるけど、それでも大丈夫。
なぜならば三者三様で文体も違えば筆致も違う。単純な言い方をしてしまえば“癖”が違うから混ざらないな
なんにせよ、本はたくさん読んだ方がいいと思う。
一人の実在の人物を主人公にして複数の作家が歴史小説なり時代小説なりを書いたものを読むとするでしょう。
すると、A氏の作品ではいまいち判然としなかった事柄が、B氏あるいはC氏の作品を読むことで
「あぁ、なるほど、そういうことか…。そういうことだったのか」
と腑に落ちたりする。
ときには
「けっ、コイツきらいだね…」
と思っていた人物が、別の作家の作品を読むことで
「ありゃ、コイツったらなかなかにいいところもあるヤツなのかも…」
と見方が変わったりするでしょう。
そして、みんながいうことだけど、自分では経験出来ない、行くことが出来ない、見ることが出来ない、触れることが出来ない、出会うことが出来ない、手に入れることが出来ない、etc.etc.そんな膨大な事象を本を読むことによって仮想体験出来る。
1冊の本をどんなに繰り返し読んでもそのすべてを克明に暗記しその状態を死ぬまで保持し続けることは出来ない。
たくさんの本を読めば読むほどそこで読んだ内容をすべて表意識の上に留めておくことは出来ない。
でも、と絶大な期待を込めて私は思うのである。
きちんと楽しんで読んだ本の内容は脳みそのどこかに何かの形で消滅することなく生涯保存されていて、生きている間にその中の“ある情報”を必要とするような状況になったときに、ピョっと浮き上がってくるんじゃないかな、と。
普段は自分がそんな知識をもっていることも、その知識を得るために何らかの本をかつて読んだということもすっかり忘れているんだけど、実は脳みその中では私の知らないところでちゃんと情報として貯めてあるんじゃないかな、と。
だからたくさん本を読もうと思っている。
いろんな本を読んでいろんなことを知って、大事な脳みそにたくさん栄養を上げたいと思う。
そして1冊の本を話題にして誰かと盛り上がれたら、それはまた実に楽しく嬉しいことよね。