■ この作品を見たら、他のアニメはツマラナイ ■
何度もこの作品を紹介しようと思いながら、思い留まっていました。
何度か書きかけては、途中で止めてしまいました。
何故か・・・。
それは、この作品を評論する力が今の私には足りないからです。
ただ、一つだけはっきりしている事は、この作品には私がアニメに求める全てが詰まっている事。
そして『天元突破グレンラガン』を見てしまった後には、昨今のアニメが全て「つまらない」と感じてしまう事。
■ 心の種 ■
50歳も近いオヤジが何故アニメを観るのか?
何故TVドラマや実写映画では無く、これ程までにアニメに拘るのか?
それは多分、アニメでしか表現出来ない世界があり、そして私の中にある何かが、それに大きく反応するからなのだと思います。幼少の頃からTVアニメを観て育った私達の脳内には、アニメに強く反応する回路が出来上がっているとも言えます。
私は実写映画も好きです。
大学生の頃は、生活費も切り詰めて、ミニシアター系の映画を見まくりました。その頃は、アニメも卒業して、未だにアニメにハマっている同年代の友人を、「カワイそうな人」だと思っていました。
ところが、息子が出来て、一緒に日曜朝の戦隊物を見たり、TV東京のアニメ番組を観ているうちに、自分の中に眠っていた「アニメ愛」がだんだんに目を覚ましました。
最初の頃は、息子や娘と同じ「子供の視点」でアニメを観ていました。子供達が「面白い」と言えば「そうだね。面白いよね」と答え、一緒に来週の放送を楽しみにする程度でした。『デジモン』や『おじゃ魔女どれみ』シリーズを子供と一緒に観る普通のお父さんでした。
そんな普通のお父さんのオタク心に最初に火を付けたのは、実はアニメでは無く「特撮」でした。丁度、『ウルトラマンティガー』と『仮面ライダー・クーガ』が始まって、私達が子供の頃熱中した作品が、平成という時代に、全く新しい視点で「創造」される瞬間に立ち会ってしまいました。それまで、特撮番組の脚本や演出なんて、気にした事など無かったのですが、小中千昭や川崎豪太といった名前は、私の脳裏に強く焼きつきました。これらの作品を見て育った同時代のクリエータ達への強い共感だったのかも知れません。
所詮、子供番組のウルトラマンや仮面ライダーでも、真剣に作れば、こんな作品になるんだという驚きでもあり、あるいは同世代の作ったウルトラマンを見て、かつて金城哲夫が初代ウルトラマンに込めた思いの深さを、再認識したとも言えます。大人になって、初めてウルトラマンが何だったのかを知る事となったのです。そこには、「子供番組を作る」という、世間一般に思う所の「ぬるさ」など一切無く、全身全霊を込めて「新しい何か」を作る熱意と、その作品を通じて平和の大切さを子供達に伝えようという真摯な心が込められていました。
金城哲夫は、正義のウルトラマンが、怪獣といえども生き物を殺生する事の矛盾に真剣に悩み、それならば、悪い宇宙人が相手なら良いだろうと、ウルトラセヴンを作りますが、やはり「宇宙塵は悪なのか」という問題に突き当たります。彼なりに悩みながらウルトラシリーズを作っていたと言い伝えられています。
例え子供向けの作品とは言え、真剣に作られたものは心に届きます。これは、『海のトリトン』を始めとする富野監督の初期作品も同様でしょう。そして、そららの作品を見て育った私達の心の内に、何らかの種を植え付けるのです。
■ アニメ不遇の時代 ■
「特撮」に限らず、アニメの作家達も自分達の全身全霊を掛けて作品を作ります。その結果として、『宇宙戦艦ヤマト』や『ガンダム』や『ジブリの諸作』のヒットによって、アニメは大人も楽しめる文化の地位を獲得します。
そのアニメも粗製乱造されるうちに質が極端に低下した時期がありました。製作者が戦争を経験した世代から、アニメを観て育った世代に代わる過程で、アニメは現実の世界から乖離して「オタク」と呼ばれる一部のマニアの楽しむものになってしまいました。
多分、初代の『マクロス』以降にその傾向が顕著になりますが、それは同時に私達がアニメから離れた時期と重なります。80年代後半から90年代初頭に掛けて、ジブリ作品意外は、社会とのリンクを失います。(このアニメ冬の時代にも、劇場用作品には意欲作が作られています。ガイナックスの『王立宇宙軍 オネアミスの翼』や、『AKIRA』など・・)
そんな時代にも細々と良作は作られ、又、次の時代を担うクリエータ達が育っていました。1995年は『エヴァンゲリオン』と『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』が発表され、アニメの新しい時代が始まったと言っても良いかと思います。
■ 新時代のアニメが失ったもの ■
日本のアニメは「エヴァ以前」の時代と「エヴァ以後」の時代に大別されると思います。これは、絵柄とか、演出の緻密さと言った技術的なものでは無く、「熱い混沌の時代」と「醒めた知性の時代」と言える様なものかも知れません。簡単に言ってしまえば「オバカの時代」と「お利口の時代」。
ところが私は「エヴァ以降」の作品の完成度には感心しますが、何か物足りなさを禁じ得ません。それは、「アニメである事の必然性」に対する疑問とも言えます。
例えば、押井守作品は現在のCG技術を使えば実写映画でも表現可能です。実際の押井監督は実写映画を撮っていますし、同様に庵野監督も村上龍の『ラヴ&ポップ』を実写映画化しており、アニメと異なる表現を試みたりしています。
アニメと実写映像の最大の違いは、「デフォルメ」です。
これは単に絵柄としての話しでは無く、表現様式全体に関係します。
例えば、人が死ぬシーンを実写でやれば、かなりシリアスなシーンとなります。
ところが、アニメ(漫画も含む)では様々な表現方法があって、手塚治作品では、かなりコミカルに人が死んでゆきます。(丸焼きになたり・・・)
この様にアニメは実写に比べて表現の選択肢が非常に広い。空高くから人が落ちて地面に人型の穴が相手も、その直後のシーンでは、むっくり立ち上がったりします。
私は、こういった現実に縛られない表現こそが、アニメの最大の魅力だと思っています。それは一種の突き抜けた「オバカ」なのでは無いのかと。
そして、「エヴァ以降」のアニメが失ったのは、この「オバカ」では無いかと思うのです。
■ マジンガーZと現代を繋ぐ『天元突破グレンラガン』 ■
この「オバカの不在」に対する最良の回答は、何と『エヴァンゲリオン』を制作したガイナックスから出現しました。2007年に放映された『天元突破グレンラガン』です。
日曜朝8:30のTY東京での放映という、ムチャクチャ子供向けの時間に放映されたので、子供向けのロボットアニメだと誤解されましたが、文化庁のメディア芸術祭の優秀賞を獲得しています。
「贈賞理由」がこの作品の「意味」を雄弁に語っています。
二次審査過程の得票数では入選圏外だったが、強く推す声があり、意見が二分した。「すべてが、かつて表現されたことの焼き直し、引用ではないか」「かつてこの種の作品は、何度も作られたじゃないか」。本作は、その2つの理由で一旦は否定された。確かに、本作は数々の過去作品の記憶を相当な密度でガジェット化している。だが、本作の本当のおもしろさはそこにあるわけではない。ガジェット化されたものは、あくまで“舞台装置”にすぎず、表現の核をなしているものは“製作者たちが信じているアニメーションの表現クオリティ”だ。その“技術”は懐古ではなく、現役であり、未来だと製作者たちは言っている。強く推された理由は、その声の力強さだろう。
そう、『天元突破グレンラガン』こそが、お利口になってしまった現代のアニメに『マジンガーZ』の時代の混沌とした情熱を取り戻させる、2000年代最大の意欲作であり、過去と未来を繋げる、私達オールドファンの待ち望んだ作品なのです。
■ アニメ的デフォルメと、壮大なSF的設定 ■
遠い未来、人間は地底に隠れる様に暮らしています。文明は衰退し少ない食料で細々と生命を繋いでいます。地上に出る事は禁忌とされていますが、いつの時代にも「跳ね返り」は居ます。ジーハ村のカミナは問題児。友人の「穴掘りシモン」を炊きつけては、どうにかして地上に出ようとする日々。子分のシモンはおとなしい性格でパットした所は一つもありません。まさにモグラの様な性格。ところがカミナはシモンに絶大の信頼を置いています。一つの事をコツコツと続けるシモンは、将来大物になると言うのです。
そして、終にカミナとシモンはドリルで地中を掘り進み地上に到達します。とこが、地上に出た途端二人はガンメン(顔面)というロボットに襲われます。ギリギリの所をヨーコに救われた二人は、地上をガンメンが支配し、地上に出た人は生き残れない事を知ります。
ところが、諦めの悪いカミナとシモンは、とうとう小型のガンメンを手に入れます。シモンがかつて地下で掘り当ててお守りにしていた小さなドリルが、何故だかこのガンメンのコントロールユニットのキーになっていたのです。
カミナとシモン、そしてヨーコはこの小型のガンメンで敵を倒しながら、人々が地上で生活出来る未来を目指します。そんな彼らに同調する人々は、紅蓮団を組織して、強大がガンメン達を次々に倒しますが、戦いの中で・・・・。
そして、敵のボスを倒した事で、地球の運命が大きく動き始めます。人々は急速に文明を取り戻し、発展させますが、それこそが、生命としての人間の存在を脅かす原因となるのです。
物語は、この後、どんどん盛大にエスカレートして、最後は全宇宙規模での戦いに発展しますがこの戦いの演出は、アニメでしか不可能でしょう。(・・・ストーリーが面白いので、ネタバレしません。)
■ とにかく熱いぜ ■
この作品、とにかく前半はカミナがカッコイイ。
どうカッコイイかと言えば、突き抜けたバカ!!
カミナ語録をネットから拝借します。
「俺を誰だと思っていやがる!!!」
「無茶で無謀と笑われようと、意地が支えの喧嘩道!
壁があるなら殴って壊す、道がなければこの手で創る!心のマグマが炎と燃える!
超絶合体グレンラガン!
俺を!俺達を!誰だと思っていやがる!」
「人はなんで前に目があるか知ってるか?遠くの景色を見る為にゃぁ、前に進むしかないからだ。後ろに目があると生まれた故郷が離れていくのしか見えねぇ。それじゃぁ人は前には進めねぇ。目が前にありゃぁ、歩いていけば遠くの景色が近づいてくる、だから人は前に進める。」
「お前のドリルは、天と地と明日を貫くドリルじゃねえか。
こんな所で、何モタモタしてやがる。俺達は勝ったんだ!
そのデカブツは、お前の物なんだ!
何も不安なコトはねえ!!」
バカです。大バカです。
・・・でも、文字で読むだけでも熱くタギルるものがあります。
『ROBOTICS;NOTES』のあき穂ちゃんが「たぎってきたぁ!!」と叫んでもウザイだけですが、カミナの言葉は何故か心を「たぎらせる」ものがあります。
物語の前半はひたすら熱く、カミナとシモンがガンメンを駆逐して行きます。
その後・・・・・アアアー書けない。書いたら面白くなくなっちゃう!!
とにかく、この作品は「ドリル」が一つのテーマになっています。ドリル「チャレンジのメタファー」で男の魂の象徴です。虚構の話しでありながら、ドリルは現実の私達の心をも貫き、熱くさせます。
娘も、このグレンラガンを観た後は、どの作品もツマラナイと言います。
そして1回しか見てい無いのに、各話のシーンやセリフが脳裏に焼きついて離れない稀有な作品です。
これこそ、王道アニメであり、「エヴァ後」のコジンマリ纏まってしまったアニメへの、強烈なカウンターパンチなのです。
岩崎琢のサントラを買ったら、血が沸き立ってきて、書き始めましたが、実際に作品を見なければ、グレンラガンの凄さは全く理解出来ないでしょう。こういう作品を前にしては、言葉は力を失います。
敢えて言うならば、この作品を前にすれば『エヴァンゲリオン』などクソだと。
アニメの王道とは、この作品の為にある言葉です。
エヴァは所詮、ドブ板の上をトボトボと歩く様な作品なのです。
「グレンラガン」が評価された時、日本の経済も復活するでしょう。
最後に一つ付け加えるならば、グレンラガンは男達の熱い情熱の話しであると同時に、女達の深い愛情の話しでもあります。最終話は涙無くしては見れない。
そして、サントラも涙無くしては聞けない。
岩崎琢、いい仕事してます。
魂が震えます!
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