■ 「自然主義」の台頭と「SF文学の発生」 ■
SFというジャンルは「科学のお伽噺」です。
SFの登場は産業革命以降の「自然主義」の影響を強く受けています。それまで「世界は神が作りしもの」であったのが、「博物学」の隆盛や、ダーウィンの「進化論」によって、「神の意思」が自然科学から徐々に取り除かれて行きました。
この流れに呼応する様に、文学の分野でもジュール・ヴェルヌ( 1828年2月8日 - 1905年3月24日フランス)が、新しい創作活動を始めます。
1884年パリの法学学校に進んだヴェルヌは、アレクサンドル・デュマらパリの芸術家建ちを親交を深めます。一方で、自然科学の論文に興味を示す一面もあり、当時の彼のお気に入りの作家の一人は、エドガー・アラン・ポーだった様です。ヴェルヌはポーの作品から、小説に科学的事実を取り入れて、小説にリアリティーを付加する手法を学びます。
1863年に書いた冒険小説『気球に乗って五週間』によって人気作家の地位を確立したヴェルヌは、その後『地底旅行』や『月世界慮教』、そして『海底二万里』など、まさにSFの原点とも言える「空想科学小説」の名作の数々を生み出して行きます。
■ 現代SFの基礎を築いた H.G.ウェルズ ■
ジュール・ヴェルヌの作り出した「空想科学小説」は、「現実の世界」を舞台にした作品が多く、「科学の発展によって今まで人類が到達出来なかった世界を探検する」という内要がメインでした。「科学」は地底や海底など、「未知の地に人類を誘う手段」として肯定的に捉えられています。
一方、ヴェルヌの『月世界旅行』から30年後に『タイムマシン』を発表したのが、イギリスのG.H.ヴェルズ(1866年9月21日 - 1946年8月13)。この作品でヴェルズは、タイムマシンが到達した未来における、崩壊した暗い世界を描いています。ヴェルズの作品には、ジュール・ヴェルヌの作品にあるような科学礼賛的な無邪気さとは別の、科学が人類に齎す不安が色濃く表れています。
現代のSFはヴェルヌ的科学礼賛と、ヴェルズ的な科学への不安のバランスの上に成立していっても過言ではありません。
■ スペースオペラの時代 ■
ヴェルズ以降、盲目的な科学信仰を捨てたかに見えたSF小説ですが、アメリカで再び無邪気さを取戻します。
1920年代から1930年代にアメリカで流行したのは「スペースオペラ」でした。
アメリカにおいてSF小説は中世の騎士や王族の物語と融合し、スペースオペラというジャンルを生み出します。スペースオペラは大衆の人気を得て、SFを一気にポピュラーな存在としました。
騎士達の駆る空飛ぶ馬は宇宙船に、兵士達はロボットの軍団に、妖精達は愛くるしい獣型宇宙人になったのです。
スペースオペラの集大成が、ジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』です。(小説ではありあませんが)
■ ハードSFの誕生 ■
1940年代になると、アーサー・C・クラークやアイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインラインなどのSF小説の巨匠達が出現します。
彼らは、最新の科学や物理学を作品に導入し、未来を幻視し始めます。彼らの作品は「ハードSF」と呼ばれ、「科学のお伽噺」に過ぎなかったこのジャンルを、「未来学的」な分野に発展させたとも言えます。
一方で読者には科学的知識や理解力が要求され、SFというジャンルの読者を限定する事にも繋がりました。
■ ニューウェーブの隆盛 ■
1960年代になるとイギリスを中心にSF小説に「ニューウェーヴ」が起こります。
ハードSFの作家達は、「科学」は「唯物的」で「揺るぎないもの」と捉えていました。
一方で現実の科学は古典力学から量子力学の世界へと突入します。それまで「確実な存在」と捉えられていた物質すらも、量子の世界においては「確率的存在」でしか無い事を人類は知る事になるのです。
「観測者が結果を決める」という因果律の逆転まで発生する量子力学の出現は、SF小説の有り様も根底から揺さぶります。「唯物論的因果律に支配されていると思われた世界が、実は唯我論的ものであった」という転換は、多くのSF作家達の想像力を刺激します。
この様な科学の大転換は、「西洋的唯物思想」から「東洋的唯我思想」の転嫁をSF小説にもたらしました。「世界は自己の外側では無く、己の内面に存在する」という大転換です。
ニューウェーヴSFの代表作家はフィリップ・K・ディックでしょう。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(ブレードランナーの原作)、『追憶売ります』(短編)(トータルリコールの原作)など映画化作品も多く、その影響力が伺われます。
「薬物依存や、精神異常といった個人的な幻覚が、実は世界を変容させてしまう」といった内容の作品が多く、「世界が不確かな物である事」が繰り返し語られます。
ニューウェーヴのSFの特徴は「科学の後退」です。ディックの『高い城の男』などは、日本軍が太平洋戦争に勝利した「もう一つの歴史」を題材にした作品ですが、科学的ギミックはほとんど登場しません。同じく、このジャンルの代表作家のイギリスのJ.G.バラードに至っては、『結晶世界』や『乾燥世界』など、世界が終末的に変容しても、その科学的説明は殆どされません。
これらの作家の特徴は、SFをサイエンス・フィクションとしてではなく、スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)として捉えている点です。極端な環境に人間を置くことで、人間の本質を露わにしようと試みるこれらの作家にとっては、SF的世界観や
科学的ギミックはあまり重要では無いのです。
■ サイバーパンクの隆盛と電脳空間の神 ■
遺伝子操作や生命科学、情報科学の格段の進化も、SFの発展に大きく寄与しています。今まで「空想小説」であったSFが、かなりのリアリティーを持つ様になったのです。
80年代のウィリアム・ギブソンが『ミューロマンサー』で開拓した「電脳空間」を舞台にしたSFは「サイバーパンク」と呼ばれ、現実の文化にも大きな影響を与えました。
押井守の『攻殻機動隊』シリーズは、サイバーパンクの世界観を見事に表現していますが、面白い事に、サイバーパンクの作品は極めて科学的でありながら、「電脳空間に生まれる神」を渇望しています。ここら辺は、ニューウェーブSFの影響を受けているとも言えます。
■ SFにおける科学の復権と、さらに不確かになる世界 ■
現代の物理学は並行宇宙の存在や、多元宇宙の存在を示唆しています。
私達の生きているこの世界は、実は数限りなく存在する似たような宇宙の一つに過ぎないという考え方です。
ここに至っては、「世界の不確かさ」は極限まで高まっています。
世界は唯一無二の存在から、選択可能なものへと変容したのです。
一方、ニューウェーブの作家達が「気分」として取り入れた「不確かさ」は、科学によって「実証」されたものになります。最近のSF作家達は、最新の科学や物理学の成果を貪欲に摂り込んで、SF的な空想世界の幅を拡張しています。
■ SF小説の影響を強く受ける日本のマンが ■
日本のマンガもSF小説の進化の後を追い続けています。
『鉄腕アトム』は科学礼讃と、科学不信が同居しています。
『仮面ライダー』などは、科学の不幸な面を強調しています。
『マジンガーZ』は科学の暴力的側面をクローズアップしているとも言えます。
これらの黎明期のSFマンガの後に流行したのが、『宇宙戦艦ヤマト』に代表されるスペースオペラです。さらには『超人ロック』という宇宙を舞台にした一大叙事詩まで誕生します。
1080年代後半に入ると、ガンダムのヒットを切っ掛けとして、「リアルなSF」が人気を集めます。これは日本人のロボット好きと不可分なのですが、この事によって、日本のSFマンガは「リアル」という檻に囚われたとも言えます。
「リアルの檻」を打ち砕いたのは、『エヴァンゲリオン』でしょう。エヴァの評価すべき点は、最新の科学をごった煮的に詰め込んだ事です。物質の不確かさ故にシンジがコクピットから消失する・・・こんな表現一つ取っても、エヴァがSF後進国である日本の若者に与えてショックは決して小さくありません。
エヴァンゲリオンこそ、日本のニューウェーヴSFマンガ(アニメ)の金字塔でしょう。
(実は日本人のSF作家はニューウェーヴの流れを先取りしていたりしましたが)
エヴァ以降の「世界系」と呼ばれる作品群は、ニューウェーヴSFのポップな変容と解釈する事が出来ます。
ディックの苦悩する主人公達は、悪夢の内に世界を変容させますが、ハルヒは悩みを突き抜けた先の投げやりな遊びで、世界を変容させます。
この様に、マンガやアニメはSF小説の影響を強く受けながらも、日本独自の発展を遂げたジャンルとも言えます。
■ 古典的なSFの『鉄腕バーディー』 ■
さて、ようやく本日の本題に到着しました。
本日紹介する『鉄腕バーディー』は、『機動警察パトレイバー』や『究極超人あーる』でお馴染みのゆうきまさみのライフワークとも言える作品です。
1984年から少年サンデー増刊号で連載が始まりますが、1987年に未完で終わります。これを「オリジナル」と呼びます。
1984年当時は『スターウォーズ』などのスペースオペラが大ヒットしていた時代で、『鉄腕バーディー』もこの影響を強く受けています。
「大アルタ帝国」滅亡後、「宇宙連邦」と「アリュークによる恒星間神聖同盟」そして「非同盟諸国」に宇宙は分かれています。
連邦を構成する7星系は、爬虫類型、昆虫型、犬型、鳥型などの宇宙人の混成国家ですが、地球人に近い姿のアルタ人は迫害されているのです。
・・・と、さわりだけ書くと、ひどく「古臭い」作品です。
『機動警察パトレイバー』などの影響で休載している間に、SFの主流はスペースオペラからサイバーパンクなどに変化し、『鉄腕バーディーの世界感が古くなってしまった事もあり、ゆうきまさみは、この作品を未完のままに放棄しました。
実は、これがこの作品にとってどれ程幸いな事であったか・・・。
■ 一つの体で二人が共通の体験をする面白さ■
2002年にゆうきまさみは、『鉄腕バーディー』のリメイク版をヤングサンデーで連載し始めます。一度は「古臭い」と捨てた作品ですが、時代が経った事で、むしろ、本作品が秘めていた「王道としてのSF」の魅力に気づいたのかも知れません。
連邦の捜査官「バーディー・シフォン」は犯罪者逮捕に過程で、誤って高校生の「千川つとむ」を殺害してしまいます。連邦の捜査官、特に強力な戦闘力を誇る「イクシオーラ」であるバーディーは、「犯罪者を殺害せずに拘束する事」が強く義務付られています。さらに、原生人種である地球人の生命を損なう事は、彼女にとって禁忌とされています。
バーディーは緊急処置として、自分の体に「つとむ」の記憶と生物情報をコピーし、「つとむ」の肉体は保存処置が施されます。本国に移送し、再生を試みる為です。
こうして、バディーの体に高校生の「千川つとむ」が同居する事になります。生体融合の結果、バーディーは姿を「つとむ」に変化させる事が出来ます。「つとむ」の生活の継続を最優先するという上司の判断により、昼間は「ととむ」がバーディーの体を使い、夜はバーディーが犯罪者の追跡を行います。
生い立ちも、価値観も、科学的知識も異なる二人の人物が、同じ体を通して体験を共有します。二人の間には当然「物事の捉え方のギャップ」が存在します。所謂「異文化コミュニケーション物」とも言えますが、圧倒的な科学力を誇る連邦捜査官が、ごくごく一般的な高校生の生活を体験する一方で、極々普通の高校生が宇宙的規模の犯罪捜査を体験するギャップは痛快です。
バーデーは、地球人に非情に酷似した外見をした「アルタ人」という種族です。アルタ人は「凶暴」というレッテルが貼られ、連邦の中でも迫害されています。さらにバーディーは遺伝子操作によって肉体が強化された「イクシオーラ」で「ばけもの」扱いされて育って来ました。学校での辛い思いでしか無いバーディーにとって、「つとむ」の交友関係は新鮮であり、守るべきものとなって行きます。
■ お茶の間SFというマンガの伝統に忠実な作品 ■
この作品の魅力は、バーディーがつとむと体を共有する事で、バーディーの行動がつとむの日常から離れらない事にあります。宇宙規模の大事件の断片が、日常の中で発生するのです。これは、従来のアメリカのスペースオペラではあり得ない事です。「うる星やつら」に代表される「お茶の間SF」の伝統がしっかりと継承されているのです。
■ それぞれの正義 ■
「お茶の間SF」としての楽しさや軽快さ、そして親しみ易さを発揮するこの作品ですが、個々の内要は非情にシリアスで示唆に富んでいます。
その一つが、「正義とは何か」というテーマです。
バーディーが追跡するクリステラ・レビはかつては連邦の科学省長官を務めた事のある人物でアルタ人です。アルタ人としては異例の大抜擢を受けた天才科学者の彼は、その後、テロリストに転向し、反応炉の暴走というテロで大勢の人々を殺害した容疑を掛けられています。
レビと思しき人物を中心に、地球に身をひそめるいくつもの宇宙人の派閥も、それぞれの目的の為に行動します。さらに、自衛隊やCIAも対宇宙人の作戦の為に、これらの派閥と結びつきを深めています。
それぞれの派閥にそれぞれの正義が存在し、正義は少なからぬ犠牲を伴いながらも遂行されて行きます。
バーディーの正義は、犯罪者を殺さずに捕まえて法廷で裁く事。
自衛隊やCIAの正義は、宇宙人の侵略を防ぐ事。
帝国の残党の宇宙人達の正義は、帝国の復興と連邦への復讐。
異端審問官ぼ正義は神への忠誠を示す為に、レビを殺害する事。
そして、最後まで謎なのは、クリステラ・レビと彼の腹心であるゴメスの正義。彼らは、犯罪的な非道を犯す一方で、その行動には何か「崇高な信念」の様なものが存在します。
天真爛漫で素直なバーディーは無自覚の内に、レビやゴメスに感化されてゆきます。彼女は自分の正義をあくまでも貫こうとしますが、その正義は絶えず揺れ動く事になります。正義とは絶対的存在の様に見えて、実は相対的な価値基準であるのです。
そして、バーディーだけでなく、それぞれの陣営のそれぞれの正義も、絶えず揺さぶられ続け、彼らは自分の正義を信じながらも、それに疑念を抱く事を怠らない事が、この作品を魅力的なものにしています。
■ 良いSFは現実の社会や世界を映しだす ■
SFという手法の面白い所は、架空の現実を描く事で、むしろ実際の社会や世界の矛盾や、本当の姿を新聞などよりも雄弁に語る事が出来る点です。
SFは一種の社会シミュレーションに長けているので、極端な社会状況を簡単に作り出す事が出来ます。例えば、この作品の場合は、宇宙人が外交関係を築こうと地球に訪れますが、圧倒的な軍事力を誇る宇宙連邦は、どんなに紳士的に振る舞おうが、地球人にとっては単なる「脅威」でしかありません。これは「黒船外交」の様なもので、宇宙人達も充分にその事に自覚的です。「地球と宇宙連邦が対等である訳が無い」という傲りが、紳士的な態度の裏側に絶えず存在しているのです。
現実の社会においても、国家間の交渉は「対等」を装いますが、そこには厳然たる力関係の差が存在し、平等を装った不平等が弱者には押し付けられます。
■ SFの王道としての壮大な科学的結末 ■
この作品は、ヤングサンデーに連載された『鉄腕バーディー』の単行本20巻と、掲載誌の廃刊に伴う休載を挟んで、ビックコミックに連載された『鉄腕バーディーEVOLUTION』の13巻という、全32巻という堂々たるボリュームです。連載期間は10年にも及びます。
つとむの日常や、様々なエピソード、政治的な駆け引きなどが丁寧に描かれている為に、全体としては少々冗長な印象を受けます。
最後は打ち切りに近い形で結末を迎えるので、EVOLUTIONの13巻は急激に物語が進行するのですが、それでも「事物の核心」に向けて様々な伏線が収束して行く様はスリリングです。
最後に明かされる、地球と宇宙連邦の歴史的繋がりは、全ての読者をビックリさせるでしょう。これこそが、「科学を使ったホラ話し」としてのSFの醍醐味と言えます。
そして、そんな壮大なスケールの話においても、その発端は実は「つとむ」の生活圏内であったというのが、「四畳半SF」の面目躍如といった所でしょうか。
■ 「新しいSF」の時代に、あえて「古典的なSF」の可能性を追求した大傑作 ■
昨今のSF、特に近年の日本のマンガやアニメに見られる「世界系」の作品は、「全ての原因は彼女だった」みたいな結末が多く、SFとしての科学的な説明を最後では放棄しています。この傾向が強まるのはエヴァンゲリオンからでしょうか?
ニューウェーヴの時代、例えばディックの『流れよ我が涙と警官は言った』などでは、度胆を抜かれた「唯我論的結末」も、最近では少々飽きて来ました。
ゆうきまさみの『鉄腕バーディー』は、古典的なSFのスタイルを色濃く残す作品ですが、休載を挟んでリメイクされた事で、むしろ「古典的SFの面白さ」を発掘する事に成功しています。
物語の結末は、個人の内宇宙に委ねるのでは無く、あくまでも「唯物的」に「科学的」に構築する事で、SF小説が本来持っていた魅力が際立ちます。「オオオーーー!!」といった、驚きと満足感を持って、最後のページを閉じるのが、「古典的SF」の醍醐味とも言えます。
■ マンガとしての魅力にも溢れている ■
SF的な魅力を中心に語って来ましたが、この作品、マンガとしての楽しさにも溢れています。
ちょっとキワドイ格好をしたバーディーの活躍を堪能するのも良し。
「探偵物」というジャンルとしても、謎解きが楽しい作品です。
そして、登場する人物達がチャーミングな事も特筆すべきです。
「つとむ」を巡る恋愛模様も、80年代的抑制が効いていて、私体には共感が持てるものです。幼馴染とくっ付くのか、それとも・・・。
何れにしても、『鉄腕アトム』にちなんだ「鉄腕」と冠した作品だけに、「マンガによるSF」の有り方に忠実な作品とも言えます。
私達、オールドオタクには、秋の夜長に楽しむには最適な作品では無いでしょうか。
<追記>
この作品、『鉄腕バーディー DECODE』というアニメ版もありますが、こちらは、ある意味全く別のお話し。クリステラ・レビすら登場しないので、作品世界のショーケースだと割り切っています。
私は本屋に行くたびに、このマンガを手に取るのですが(買ってよオーラがパナイ)、アニメ版の内要しか知らなかったので、買うまでも無いと思っていました。
先日、ブックオフで一冊100円で見つけて思わず大人買いしてしまいましたが、ここ1週間はあまりの面白さにブログも更新が滞りがちでした。
マンガ版はアニメ版など足元にも及ばない程面白いです。