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経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

良く分からないけれど「何だか凄い」事だけが分かる・・・『京騒戯画』

2013-11-10 05:08:00 | アニメ
 



■ 「倍返しだ!」とは対極の世界 ■

最近の風潮は「分かり易い事」だと常々感じています。

かつてミニシアター系の映画の流行った頃には、「分かり難い事」が価値を持っていました。ゴダールはもとより、デレク・ジャーマンやタルコスフキーなどヨーロッパ系の難解な作品でも映画館は賑わっていました。漫画でも「ガロ」に掲載される様な作家が評価されていました。それが何時の頃からか、分かり易い物しかヒットしない時代になってしまいました。

バブル崩壊以降、日々、圧迫感に苛まれる私達は、お金を払ってまで「悩む」事はしたくはありません。出来ればスカッとストレスを解消したい。だから、1800円もお金を払ったあげくに、なんだか悶々とした気分にさせられるミニシアター系の映画より、ハリウッドの大作を見た方が有意義に感じます。

私がアニメを見るのも、分かり易くて気持が良いからに他なりません。

ただ、実写ドラマは見るに耐えません。ナイーヴさに欠けるのです。見ていて恥ずかしくなる様な表現者の未熟さに出会うことが少ないのです。それに比べると、アニメは大人に成りきれない人達の表現だけに、たとえ宮崎駿の様な老人の作品でも、そこには何かしらの、「はっとさせられる」瞬間がありす。これを言葉にするのは難しいのですが、「倍返しだ!」みたいな露骨な表現を嫌悪するのがアニメーションやミニシアター系の映画とも言えます。

■ 「何だか分からないけど凄い」と評判の『京騒戯画』■

今期アニメの『京騒戯画』、「何だか分からないけど凄い」とアニメファンに評価されています。

これは近年の「分かり易い事」にしか反応できない風潮に真っ向から対抗しています。このアニメを見ている若い方達自身、普段は「分かり易い」ものを評価しているはずなのに、何故この作品は分かり難くても評価されるのでしょうか?

■ 「何だか分からない」はストーリーテーリングの問題 ■

映像表現で分かり易い作品を評して「ストーリー・テーリングが上手い」と表現される事が多い。これは物語の筋道がスッキリと整理されていて、自然に内容が理解出来る事と言い換える事が出来ます。

ある限られた人達に起きる出来事を、時系列に描けば視聴者は混乱しません。ただ、これではドキュメンタリーの様になってしまって、面白さに欠けます。ですから、小説や映像作品の多くは、時間を入れ替えたり、視点を入れ替えたり、あるいは、重要なシーンをあえて隠す事で、「引っ掛かり」を作ります。これが、物語への興味を搔きたてるのです。

一方で、この様な「撹乱」は上手に処理をしなければ、物語の自然な流れを阻害します。若い作家は何か面白い表現をしようとするあまり、この自然な流れを損なってしまい、自己中心的な表現に陥ります。

『京騒戯画』もこの傾向が強く、時系列を複雑化し、あえて思わせぶりな物言いをする事で、作品としての流れは非常に悪い。視聴者はこれを「分かり難い」あるいは「何だか分からない」と評価します。普通の作品ならば、こんな作風は視聴者に拒絶されるはずです。

ところが、この作品に関しては「何だか分からないけど凄い」という評価になっています。

注目すべきは「凄い」の部分です。「何だか分からない」なのはストーリーテーリングが下手なだけです。

■ 「凄い」のは何か? ■

問題は多くの人の感じる「凄い」の正体です。

この作品は、原色が氾濫する漫画的表現と、現実的表現が入り乱れています。一般的には、漫画的表現から現実的表現に変った時に、表現に深みを持たせて「凄い」という錯覚を抱かせるのですが、この作品に関しては漫画的表現の中にも「凄い」シーンが連発されます。

それが何かと言えば、「感情が明確な形を取る前の曖昧さ」や「途中で投げ出された思考」が、明確に映像から伝わる事だと私は感じています。

様は「、宙ぶらりんで、ま、いいか・・・」みたいな感情を映像が上手に表現しています。ですから視聴者も、曖昧模糊としたフンワリとした状態でこの作品を鑑賞します。

こういう心のガードが緩んだ瞬間に、印象的な映像が次から次に提示されるので、私たちは、それが何かと理解する前に、心にそのシーンがダイレクトに飛び込んで来ます。

それらのシーンは、映画的であったり、漫画的であったり、次々に変化して行くので、私達の心は全く予期しないシーンに構える事が出来ません。

■ 「完成」の対極にある「感性」 ■

先日、評論した『のんのんびより』は「完成」された表現力を感じます。物語の構成も映像も綿密で、水も漏らさぬ完成度を感じます。

一方で『京騒戯画』は「完成」などとは対極の表現です。不確かで不安定で、一瞬にして様々に変化してしまいます。しかし、それらの映像は非常に高い「感性」で繋ぎ合わされており、論理的には予測不可能な効果を生み出しています。

心の深層にダイレクトに働き掛けてくるのです。

『キルラキル』も同じ効果を狙っていますが、『京騒戯画』の表現力の高さは、次元を違えています。

■ セリフと画面の意図的なズレの生み出すもの ■

『京騒戯画』の「感性」をもう少し分析するならば、その方法論は「禅問答的ズレ」とも言えます。天真爛漫に振舞うコトの言動が、意外に奥深いという様な設定はアニメではありがちですが、それだけでは無くて、色々な物が微妙にズレているのです。

会話のシーンの描き訳なども意図的な様です。



普通の会話のやり取りのシーンでは、カメラは話し手を写しています。




ところが、お互いに意思を探り合う様な会話をする時は、カメラは聞き手の表情を写していたり、あるいは引いたアングルで話し手の表情を映しません。上の映像などは、何と屋外の俯瞰構図です。



会話による心の探り合いは、真剣な会話のやり取りよりも、何気ない会話で交わされる場合が多い様です。上のバイクのシーンは、バイクが固定されて背景がドンドン流れて行くという、映像的にもワクワクするシーンの中で交わされますが、一見意味の無い会話が、二人の距離を縮めてゆく様が見事に表現されています。



その直後の映像は、一転して躍動感に溢れるバイクから地面を見た主観視点から、空にパンアップした後に、今度は引いた構図で見上げ気味に土手の上を失踪するバイクを写します。このシーンの連続で、二人の心が一体になって行く様が見事に表現されています。ロード・ムービーに出てきそうなシーンです。



そしてその後の一面のススキ野のシーン。二人の距離は離れていますが、その心は既にガッチリと結び合っています。今まで、異世界からの闖入者でしかなかったコトと明恵の心が結び付き、そしてコトがこの世に現れた意味を明恵が悟ったシーンを、美しい風景によって語らせています。

この間、街の雑踏や自然の音が背景を埋め、さらにはディズニー映画のアラン・メンケンの様な贅沢な音楽が、バラバラになりそうなそれぞれのシーンを強烈に繋ぎとめています。

それぞれのシーンや要素は、微妙にズレているのですが、それがトータルでは「カチリ」と何かに収束して行く様はスリリングです。

これを何となく「感覚的」に作り出している感じがするのです。(ここがスゴイ)





「見て感じるしか無い」としか言いようの無い作品ですが、つくずく日本のアニメ業界は凄いなと思わせずには居られません。



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