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経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

アニメが放棄してしまった何か・・・『無限のリヴァイアス』

2014-01-19 06:02:00 | アニメ
 



■ アニメの進化の限界と、解体と再構築 ■

アニメは「おとぎ話」なので、ロボットが空を飛びまわろうが、白兵戦で戦おうが、視覚的に面白ければ一向に構いません。そういったアニメならではの面白さを追求しようという作品の最右翼が『天空突破グレンラガン』であり『キルラキル』です。

一方でアニメと現実の関係をテクニカルに模索している作品もあります。『サムライフラメンコ』はその意味において興味深く、アニメ的荒唐無稽と現実を対位する事で、「アニメ的世界感とは何か」という問題を浮き彫りにしようと試みています。

これらの作品は、「ポストモダン」(ちょっと古いです)的手法でアニメというジャンルを再構築しようと試みています。

1) 物語の設定を単純化する
2) キャラクターの性格付けを単純化する
3) 物語の構造を再構築する
4) 細部に現代的なアレンジを加える

ポストモダンで用いられる「解体と再構築」という手法は、ある表現ジャンルが進化の袋小路に突き当たった時に、それをブレークスルーする為に用いられます。一度、表現様式を徹底して解体して単純化し、それらのピースを再構築する時に従来の構築方法とは異なる手法を用いる事で、新たな表現様式を生み出そうとする試みです。

この「解体と再構築」という手法は80年代から90年代に掛けて、建築や音楽、文学や美術の分野で盛んに用いられました。ロックにおけるポストモダンは、パンクとニューウェーヴという形で登場しました。

一方で、表現ジャンルとしては未だ発展途上にあったアニメは、一足遅でこの様なポストモダン的試みが成される様になりました。

ただ、アニメは貪欲なジャンルなので、文学やマンガなどのポストモダン的な動きも同時代的の取り込んでいました。大友克洋の「童夢」などの作品は、当時のポストモダンの雰囲気をマンガに取り込んだ例ですが、それはすぐにアニメの世界の拡散します。

ただ、この当時のアニメのはポストモダンは、「ポストモダンを外挿」したのであって、アニメというジャンルを「解体再構築」した訳では無いので、アニメ自身のポストモダンが始まるのは『新世紀エヴァンゲリオン』の登場からでは無いかと私は考えています。(押井守の『ビューティフルドリーマー』が先と言われる方も多いでしょうが・・・)

■ アニメの進化の一つの到達点であった『無限のリヴァイアス』 ■

逆説的に言えば、ポストモダン的表現が登場した頃のアニメは、表現様式としては一つの到達点に達していたとも言えます。

本日紹介する1999年にTV放映さえた『無限のリヴァイアス』はその代表的作品とも言えます。

ガンダムを始め、様々なロボットアニメの傑作を生み出して来たサンライズの作品ですが、監督は『コードギアス』の谷口悟朗、シリーズ構成と脚本は、『ヨルムンガンド』の黒田洋介が担当していました。今思うと贅沢なコンビです。

2137年に太陽から放出された巨大フレア「ゲドゥルト・フェノメーン」によって太陽系は覆い尽くされてしまいます。強い放射線を放つゲドルトの影響で地球は南半球の人口13億を失います。バンアレン帯を人工的に強化する事で、人類はかろうじて生き延びます。
一方でゲドルトから得られる膨大なエネルギーの恩恵により、人類は太陽系の各惑星にその勢力を伸ばして行きます。

ゲドゥルト内は巨大な圧力と強い放射線の影響により通常の宇宙船は航行出来ません。それによって太陽系は半ば分断された状態です。

相葉昴治(こうじ)と相葉祐希(ゆうき)の兄弟は、航宙士(宇宙飛行士)を目指して航宙士養成所リーベ・デルタに入学します。この二人は過去の事件を切っ掛けに仲違いしています。昴治は祐希から離れる為に航宙士養成所に入学を決めますが、何故か祐希も入学してきます。そんな二人を放っておけない幼馴染の蓬仙あおいもフライトアテンダント科を志望します。

リーベデルタは定期的にゲドルトの海の浅部に潜航してエネルギーをチャージします。その間は通信設備も使えないので、多くの学生が帰省します。しかし、3人を始めとして、400人余りの学生は、リーベデルタに残っていました。

ところが、この時、リーベデルタに工作員が潜入しています。彼らはリべデルタの潜航深度を変更して、ゲドルトの圧力でリーベデルタが押し潰される様に工作します。これに気づいたのは、操船科二期生のツヴァイのメンバーでした。彼らは教官達に事態を知らせます。

既にリーベデルタの先端部から溶解が始まっており、教官達は落下速度を少しでも低下させる為に周辺設備の切り離しを選択します。しかし、それは強い放射線に身をさらす事になり、さらにはパージ装置の爆風で命を失う事を意味します。しかし、大人の使命を全うする為に教官達は命と引き換えに切り離しを敢行します。

教官達の決死の行動で時間的猶予を得たツヴァイは、リーベデルタ内の400人余りの生徒達を、教習艦リベールに避難させます。リベールを起動させて脱出を試みる為です。しかし、限られた時間で船を起動させる事は困難を極め、それに失敗します。絶対絶命の危機に陥った時、突然リベールが起動し、浮上しはじめます。

九死に一生を得た生徒達ですが、教習艦リベールが大型航宙艦のリヴァイアスに取りつく様にしてゲドルトの海を脱出した事を知ります。リーベデルタの中に、何故か大型航宙艦が隠されていたのです、生徒達は無人の巨大航宙艦へ移動して、救助が来るのを待ちます。

ところが、工作員の目的は、この航宙艦リヴァイアスの奪取にあります。リヴァイアスは密かに建造され、リーベデルタ内に隠されていた秘密兵器だったのです。そして、リヴァイアスの奪取をもくろむ組織は何と軌道保安庁である事にツヴァイは気付きます。彼らが助けを求めた相手こそが、敵であったのです。

リヴァイアスは完全に孤立し、度重なる攻撃を退けながら、400人の生徒を乗せ宇宙を漂う事になります。生徒達に広がった不安は、艦内の秩序を崩壊させます。ツヴァイに対する不満が高まる中で、不良グループが操船室を選挙し、艦内の実権を握ります。彼らは恐怖によって艦を支配しますが、結果的には敵を撃退し、艦の秩序の構築に成功します。

しかし、恐怖政治は長くは続かず、ツヴァイが不良達を退けますが、艦の秩序構築の為に厳しいルールを敷かざるを得なくなります。それでも漂流が長引く中で生徒達の規律は崩壊し始めます。昴治の親友の尾瀬イクミは彼を慕う女子が傷付けられた事を切っ掛けに、とうとう武力でリヴァイアスを統率する道を選択します。独裁が始まるのです。

昴治は親友の暴走を止めようとしますが、自分の無力を思い知ります。それでも・・・

■ 宇宙版の『十五少年漂流記』であり『蠅の王』 ■

『無限のリヴァイアス』は宇宙版の『十五少年漂流記』であり『蠅の王』として企画されます。希望の無い閉鎖空間に400余命の子供達が閉じ込められた時、そこで何が起きるのかをシミュレートした作品です。

その本質は『蠅の王』に近く、閉ざされた社会での人間の利己的な行動と、それを統率する為の制度や能力に注意が注がれます。

前出の小説を継承して「漂流譚」の形を取ってはいますが、その内要は革命などで誕生した幼い国家の政治が辿る政権の変遷に酷似しています。

『無限のリヴァイアス』が放映された1999年は、1991年にソ連を中心とする共産主義国家群が崩壊した後の時代です。ソビエトという壮大な社会学的な実験が失敗に終わった事を背景に、国家と統治、権力と個人の有り方が問い直された時代のこの作品は生まれています。

■ アニメが抱えた戦後のルサンチマン ■

戦後、日本の文化人はアメリカへの反発として、共産主義に憧れます。資本主義がもたらす不平等を解消する理想として共産主義に傾倒します。

『無限のリヴァイアス』の監督、谷口悟朗は『ボトムス』で有名な高橋良輔の孫弟子です。高橋良輔は子供向けのアニメの中に強い思想性を持ち込ん人物です。(宮崎駿や富野も同じ匂いがします)

『ボトムス』に先立つ『太陽の牙だグラム』(1981年)は高橋にとって最初のロボットアニメです。『ガンダム』や『イデオン』が成功し、ロボットアニメが単なる子供向けで無くなった時代に、高橋は子供達と一緒にTVを見るであろう父親層を明らかに意識して、リアルな世界感を持つアニメを作り出そうとします。

『太陽の牙だグラム』は地球連邦の植民惑星デロイアの独立運動の過程を、レジスタンスの視点で描いた作品ですが、連邦側を単純に悪として描く事も無く、又、レジスタンスも地味な抵抗を繰り返すといった実にリアルな物語が延々と続きます。

ロシア革命や共産主義にロマンを抱いていた高橋らの世代は、アニメを利用してアメリカの日本支配を告発し続けました。『ガサラキ』では非常にストレートにアメリカの日本支配を描いています。

■ 現代のルサンチマンを象徴するサンライズ作品 ■

その後の作品でも高橋が描き続けたのは、「権力に対する反抗」であり、この思想は孫弟子とも言える谷口悟朗にも受け継がれています。『ガサラキ』で高橋の下で助監督を務めた谷口悟朗は、若い頃は役者や映画監督を志した様ですが、アニメならば20代で監督になれるとこの世界に飛び込んだ異色肌です。

谷口の世代には共産主義へのシンパシーは希薄です。共産主義の閉塞と崩壊をリアルに見て来た1966年生まれの彼は、『無限のリヴァイアス』で、国家や革命といったものの本質を子供達の漂流譚としてコンパクトに描いています。

一方、『コードギアス』では、かなりストレートにアメリカの一国覇権主義をエンタテーメントに昇華しています。

サンライズはこういう思想性の高い作品を生み出す伝統がある様で、ガンダムを始めとする富野の一連の作品から、平成ガンダム、そして最新の『革命期ヴァルヴレイヴ』に至るまで、エンタテーメントの仮面の下に、何やら棘を隠し持った作品を連発しています。

ネット社会に生きる私達の世代は、世界が「東西冷戦」や「アメリカの一極支配」といった見せかけの構造では出来ていない事に薄々勘付いています。

世界の表面的は対立の裏に、もっと大きな構造が見え隠れしている事が気になって仕方がありません。サンライズの最近の作品は、その様なネット世界に充満する空気に積極的にコミットしようとしている様に感じられます。

これも、ある意味、現代のルサンチマンなのかも知れません。

■ 群像劇を諦念に描く事で飽きさせない ■

『コードギアス』でアメリカの単独覇権を強烈に風刺した谷口悟朗ですが、『無限のリバイアス』では、その興味は権力と個人の関係に限定されています。利己的な庶民と、それを統率する権力との関係を丁寧にシミュレートしています。

ただ、理念に凝り固まったガチガチな作品では無く、多数の若い男女の細やかな関係が丁寧に描かれています。誰か大切な人を守る為に、人は暴力をも肯定していく様が切々と描かれて行きます。

彼らは大人不在の中で秩序を保つ為の模索を続けます。

あくまでも正論を振りかざす者。
妥協の内にも解決を優先する者。
合理的決断を何よりも尊重する者。
現実的であらんが為に暴力を否定しない者。

多くの意思が絡まり合いながら、彼らは良かれと思うが故に傷つけ合って行きます。

■ SF的描写の緻密さは注目に値する ■

『無限のリヴァイアス』のもう一つの魅力は科学的描写の緻密さです。『2001年宇宙の旅』と同様に、細かな部分にも科学的考証が成されています。

多分、今のロボットが飛び回るアニメを見慣れた子供達には、「まだるっこい」としか感じられないとは思うのですが、ロボットの腕を上げるだけの動作に膨大な制御プログラムを作るなんてアニメは後にも先にもこの作品だけでしょう。

戦闘の結果は、リアルタイムで組まれて行く制御プログラムによって決まります。このプログラム制作も階層化されていて、ソリッドを呼ばれるプログラムのブロックを組み合わせる事で、制御プログラムが構成されて行きます。


この他にも無重力や重力の対する拘りも徹底しています。これはサンライズの伝統とも言え、ファーストガンダムでも宇宙空間ではホワイトベースの中は無重力でした。(何故かブリッジには重力が働いていた様な・・・)。Zガンダムでは、居住ブロックは非戦闘時は遠心力によって重力を発生させるという徹底の仕方でした。

■ アニメの一つの到達点であり、SFの変節点でもあった ■

『無限のリヴァイアス』が1999年と2000年を跨ぐ次期に放映されていた事はある意味象徴的です。

古典的なハードSFの直系と言える作品は、アニメでも小説でも2000年代に入ると勢いを失って行きます。

それに代わる形で登場するのが、「世界系」と言われる一連の作品です。科学的なリアルよりは、ストーリーの面白さが優先され、科学的な不整合は「誰かが支配する世界」というチートによって許容される様になります。

量子力学や最新の宇宙論が、「存在の不確かさ」を確立して行く過程で、SFも確かな形を失って行きます。

そういった時代の変節点において、『無限のリヴァイアス』は古典的なSFアニメの到達点であったとも言えます。

■ アニメは進化しているのか、それとも退化しているのか? ■

昨年、私はいくつかの2000年前後に放映されたTVアニメを見てみました。
そして、現在のアニメが当時の作品に対して、退化しているのではないかと強く感じています。

確かに日々放映される作品の作画のクオリティーは高く、ストーリーも視聴者を飽きさせません。一方で作品を鑑賞する為のハードルは限りなく低く、中学生でも内様が容易に理解出来ます。

多分、現在『無限のリヴァイアス』を放映しても全く支持は得られないでしょう。「鬱展開」という一言でバッサリです。


そんな時代に谷口悟朗は『コードギアス』を監督し、黒田洋介は『そにアニ』を手掛け、 梅津泰臣が『ガリレイドンナ』や『ウィザード・バリスターズ 弁魔士セシル』を作っている・・・・なんだか才能の無駄遣いの様に感じてしまうのは私だけでしょうか・・・。


尤も『そにアニ』を見て、思わず「脚本上手いな・・・」って思ってしまう自分も居る訳ですが・・・・。



本日はオヤジのアニメファンのノスタルジーをお送りしました・・・。