■ 憂鬱な季節がやって来た ■
青空に沸き立つ入道雲。むせ返る様な熱気とは裏腹に、この時期多くの中学生・高校生の皆さんが憂鬱の虫に取りつかれています。その原因は「夏休みの読書感想文」。
ネットの記事を「コピペ」するのが今風なのでしょうが、夏目漱石の『友情』や太宰修の『走れメロス』の感想を「コピペ」したら、クラスメイトと完全一致してしまう危険性は高い。
そこで、誰も選ばない様な本の感想を「コピペ」した方が安全だ。たとえ、先生の眉間に深いシワが刻まれたとしても・・・。
そこで、今年もやっちゃいます。「夏休みの読書感想文が終わらない君へ」シリーズ第四弾。
今回は『円卓』が映画化されて、今とても旬な作家の西加奈子さんを取り上げてみます。
■ 本屋に居るとトイレに行きたくなる ■
夏休みの読書感想文で悩む君たちは、本屋に溢れ返る本の山を前にして途方に暮れるでしょう。薄くて簡単に読める本が良い。面白い本ならよりベターだ・・・そう思いながら書棚の間を徘徊したり、平積みの本を手に取ってペラペラやってみるが、日頃、本なんて読まない君は文字がぎっちりと詰まったページを見て、速攻で本を棚に戻すだろう。
そのうちに君は尿意を催すかもしれない・・・。ものの本によると本やで尿意や便意を覚える人は意外に多いそうだ。実はこの現象『青木まりこ現象』という立派な名前が付いている。興味がある人はwikipedia 青木まり現象を参照して欲しい。
かくゆう私も、本屋に行くと尿意を覚える。知り合いは便意だと主張している。
■ 「きりこはぶすである」という衝撃的な出だしで始まる『きりこについて』 ■
尿意、あるいは便意に耐えて、西加奈子の『きりこについて』を探して欲しい。人気作家だから直ぐに見つかるはずだ。そして、1ページ目の冒頭を読んで欲しい。
「きりこはぶすである。」という衝撃的な文章で始まっている。かつて夏目漱石が「吾輩は猫である」と書き出した時も、当時としては衝撃的であっただろうが、現代においても「きりこはぶすである。」という書き出しは充分インパクトが強い。
そこで、尿意、あるいは便意に耐えてこの本を持ってレジに並んで欲しい。なぜならば、この本は君が夏休みに読んで損の無い本だからだ。
■ 「ぶす」を知る事は自分を知る事か? ■
きりこについて語るのは猫のラムセスⅡ世でです。ラムセスⅡ世はきりこに拾われてた黒猫ですが、賢い猫でです。いや、猫という存在が、そもそも人よりも賢いのである。その、賢者のラムセスⅡ世はきりこを崇拝しています。
きりこは「ぶす」です。それなのに幼い頃よりフリフリの洋服を好んで着ている。何故ならば、きりこは自分を「ぶす」だと思った事が無いからです。父も母もきりこをとても大切に育てています。愛情に恵まれたきりこは、自分が「ぶす」だとは夢にも思っていなかったのです。
そんなきりこも、様々な出来事や、周囲の空気から、段々と自分がぶすである事を知ります。きりこは十数年かけて自分がぶすである事を知り、さらに数年かけてそれを理解します。「自分はぶすである」という表層的な認識と、「自分はぶすである」という存在の本質の整合を取るのに彼女は数年を要し、その間、高校にも通わずに家に引きこもります。
彼女が「自分はぶすである」という存在的本質を理解し、そしてそれを受け入れた時から、彼女の人生の歯車が力強く回り始めます。
■ ありのままの自分を理解する事 ■
「ぶす」という自分の存在の本質を理解したきりこは、周囲の人達に影響を与え始めます。
人は表層で判断されます。セックスが好きな近所の年上のお姉さんの「ちせちゃん」は周囲には淫乱の烙印を貼られます。彼女は自分の本質が「セックスが好き」である事を知っていますが、それを理解してはいません。彼女は自分の本質を世間の目を通して見ているからです。そんな近所の年上のお姉さんの為にきりこはAVのプロダクションを立ち上げます。
「セックスが好き」ならば、気持ち良いセックスをとことん追求すれば良いときりこは思ったからです。但し、セックスは強要されるものでは無い事を主張します。ちせちゅんのAV作品は大ヒットを連発します。
こうしてきりこの会社は彼女の周囲の、世間に理解されない人達に、自分を解放する場所を与えて行き、そして成功を収めて行きます。
■ 自分を理解する事と、それを受け入れる事は違う ■
荒唐無稽で不思議な作品ですが、この作品のテーマは非常に興味深いものがあります。
誰でも自分を知ろうと努力します。自分の性格を知り、長所を伸ばし、短所を克服しようと試みます。これは良い事とされています。
一方で、多くの人達がこの試みに挫折します。自分はそう簡単には変える事が出来ないからです。その結果、「オレってこんな人間なんだよな」と中途半端に自分を理解し、可能性の限界を自分で引いてしまいます。
ところが、きりこの「ぶす」は、ちょっとやそっとの自己欺瞞で解決できるレベルではありません。彼女は元々、リーダーシップの取れる性格でしたが、自分が「ぶす」である事によって彼女のオーラは喪失します。普通なら「気づき」で終わってしまい、ひきこもり続けるか、あるいは地味で暗い性格になって行きます。
きりこの凄い所は、「自分がぶすである」という表層の認識を、「ぶすが自分の本質である」という存在の根源まで突き詰めた事です。「ぶす」がきりこの本質であるならば、「ぶす」は外界からの表層的評価を失い、「ぶす」こそがきりごのアイデンティティーになって行きます。要は「きりこ=ぶす」という根源的合一によって、「ぶす」の客観性が消滅するのです。
「自分のありのままを受け入れる」という生易しい言葉では無く、真理に到達するレベルで「ぶす」と合一したきりこは無敵の存在です。そして、彼女の影響は周囲の人にまで及びます。
■ ニーチェの「超人」は、「ジョナサン」になり、そして「きりこ」になった ■
ニーチェの実存主義が生み出した「超人」は、アメリカのカウンタカルチャーにおいてリチャード・バックの『かもめのジョナサン』に姿を変えます。ひたすらスピードを追い求めたジョナサンは、食べる為に飛ぶのでは無く、早く飛ぶ事こそが自分の本質だと信じて疑いません。「かもめは飛ぶもの」という表層と自己の合一を試みているのです。リチャード・バックはニーチェの「超人」を「超カモメ」に置き換えて見せたのです。(大変安っぽくなっていますが・・・)
一方、西加奈子は「超ぶす」というきりこを描く事で、ニーチェの「超人」を一介の女子のレベルまで引きずり下ろします。もはや、「超人」は空からも隔てられ、夜の公園を猫と徘徊するレベルまで凋落します。
マンガやアニメの中でルフィーや悟空の様な「超人」が活躍する日本文化ですが、とうとう「ぶす」が最強の属性になった作品まで現れたという意味において、ニーチェ的な「超人」のインフレーションは日本文化においては留まる所を知りません。そして、その最たる物が涼宮ハルヒの存在えす。彼女こそが世界であり、宇宙なのですから。
■ 強靭な思考の産物である「超人」がアメリカや日本でインフレーションする訳 ■
ヨーロッパ哲学の本流は形至上学ですが、アリストテレスやデカルトは神の存在の証明として哲学を利用しました。世の中には神の真理が存在し、それに則って作られた現実の世界の体系を理解する事は、神の世界の体系を理解するものだと考えたのです。
科学が「フィロソフィー=哲学」と呼ばれるのは、神の存在を証明するという目的がギリシャにおいては共通していたからです。
一方で科学の急激な進歩は近代において神の存在を揺らがせる事になります。自然は神の作りし物では無く、宇宙の真理に則って形作られている事が判明して来たからです。そこで、哲学は神に変わるものを模索し始めます。
西洋において人間の存在は「神の写身」として安定していましたが、神の存在が揺らげば、人間の存在すらも揺らいでしまいます。
そこで登場したのがニーチェを始めとする「実存主義」です。存在の主体を神から人間い移す事で、人間の存在理由を補強しようとしたのです。その過程で「神は死んだ」とされ、神に変わるものとして「超人」が提示されます。
ニーチェは人間としての自分の弱さを克服しうる、強さ、高貴さを持った人間を、「超人」と呼びました。
形至上学的な神に対抗する存在であった「超人」ですが、近代化の進行と共に神の存在意義が薄れれば、超人の存在意義も薄れてしまいます。「超人など仮定しなくとも、人は普通に人でいいんじゃね?」的な変換が起こるのです。
特に自由の国アメリカでは、宗教的縛りが弱いだけに「超人」の存在意義も希薄です。一方、極度に近代化が進んだアメリカでは、新たな哲学が希求される様になります。60年代のサブカルチャは、それを東洋思想に求めました。
キリスト教的神とそれに対抗する超人が否定される一方で、「自然と一体になってこの世を司る何か」の存在が求められる様になったのです。キリスト教的な神は、あまりにも人間的である為に退けられ、東洋の自然と渾然一体となった神や仏が、新しい時代の神として受け入れられてゆきます。
リチャード・バックの『かもめのジョナサン』は、この様な時代の空気を背景にして発表されています。ニーチェの影響と東洋仏教思想の影響を強く受けた事で、「超人」を「超カモメ」とする事で、「人間=神」という呪縛を解いて「自然=神」という構造を作ろうと試みている様です。(多分)
この様に「神や超人」が一旦人から離れると、「超人」はインフレーションを起します。宇宙から来た超人(スーパーマン)や、異形の神々が次々に現れました。いわゆるアメリカンヒーロー達です。
アメリカは移民国家で思想的にも宗教的にも多様性に満ちています。そんなアメリカ人達は、共通のヒーロを祭り上げる事で、国民の統一性を確認する必要がありるのでしょう。その最たる物が大統領の存在です。彼らこそアメリカにおける「超人=ヒーロー」の役割を担って来ました。
一方、元々西洋思想お影響外にある日本においては形至上主義的「神」も、実存主義的「超人」も元々理解し難いものでした。反面、アメリカンカルチャーを経由した東洋思想はどこか陳腐な感じがして偽物クサイ。
そんな日本にあっても「超人」のニーズが無い訳ではありません。特に日本においては「均質化」の「同調圧力」が強く働く社会なので、子供達は学校や友人関係においてストレスが溜まります。そして、イジメという形で同調圧力は暴力的になります。
子供達が読むマンガに描かれるヒーロー像の多くは、最初は同調圧力に屈していますが、自己鍛錬の結果、自分を解放して行き、周囲にも影響を及ぼす様になります。
アメリカにおいては多様性が統一の象徴としての「超人=ヒーロー」を求めるのに対して、日本は同調圧力からの解放の手段としてヒーローを求めたのかも知れません。日本のマンガやアニメの中でヒーローがインフレーションします。
■ ヒーローのアイデンティティーを「ぶす」に求めた ■
『きりこについて』の面白い所は、ヒーローのアイデンティテーを「ぶす」に求めた事でしょう。本来は「欠点」である「ぶす」も開き直ればヒーローの要因になると強引に押し通した所が面白い。
ただ、世間一般には「ぶす」は欠点意外の何物でも無いので、人間とは価値観を異にする猫の視点を通してきりこの「ぶす」を賛美し、きりこの覚醒を促しt下います。
■ マジックリアリズム ■
私は『きりこについて』を読んで強烈な既読刊を覚えました。
アメリカのマジック・リアリズムの大家の一人、スティーブン・ミルハウザーの1972年のデビュー作、『エドウィン・マルハウス』に良く似ているのです。
11才にして夭折した天才作家の伝記を、彼の崇拝者であった友人が書くという内要ですが、天才と思い込んでいた友人が書いていたのがツマラナイ漫画である事に、観察者は成長と共に気づいて行きます。そして、エドウィンが11才になった時、この友人の少年はエドウィンを射殺します。彼の信じる天才性との乖離が決定的になる前に、エドウィンを夭折した天才にする為に・・・。
何とも歪んだ小説ですが、一貫して観察者の少年の視点で書かれ、彼はエドウィンの行動を称賛し続けます。この観察者の少年をラムセスⅡ世という猫に置き換えると、『きりこについて』は非常に良く似た構造を持っています。
西加奈子の作品は「マジック・リアリズム」と評される事が多く、南米やアメリカのマジックリアリズムの影響を強く感じます。クレヨンで書きなぐった様な線が太くカラフルな印象は彼女の本の表紙の通りで、彼女の最大の個性とも言えます。
日本のマジックリアリズムの作家としては、古くは安倍公房から始まり、最近では小川よう子やは森見登美彦や桜庭一樹の名前が上げられそうですが、読みやすさという点では初期の桜庭一樹作品と西加奈子は若い方にもお勧めです。
一度、こういう作品に慣れてしまうと、海外にはこの分野の優れた作家が沢山居るので、読書の幅が一気に広がります。
■ 『きりこについて』で読書感想文を書いたら先生に怒られる? ■
『きりこについて』はとても素敵な作品ですが、「AV女優」とか「セックス」などという言葉が度々登場するだけに、頭の固い国語の先生には受け入れられない小説かも知れません。
そこで、今回は「ニーチェ」という大上段から、国語の先生をねじ伏せる感想を書いてみました。これを「コピペ」して提出したら・・・・親が学校に呼び出されますね。多分。
■ お詫びに過去の真面目な作品紹介を ■
夏休みの読書感想文の本が決まらない君に・・・有川浩「レインツリーの国」
夏休みの読書感想文が終わらないお子様に・・・カラフル
夏休みの読書感想文が終わらない君たちに No.3 ・・・ 『NHKにようこそ』
自分が演じるキャラクターとは自分自身では無いのか?・・・庵田定夏「ココロコネクト」
小説というバーチャルリアリティー・・恩田陸「夜のピクニック」
ここら辺がお勧めかな。