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『ばらかもん』と『信長協奏曲』・・・アニメとは何か

2014-08-25 05:53:00 | アニメ
 



■ あまりに素晴らしい『ばらかもん』 ■

書道アニメ(マンガ)の『ばらかもん』があまりに素晴らしい。

書道家を父に持つ半田清舟(はんだ せいしゅう)は期待の若手書道家。ところが、大御所の書家に「型にはまった実につまらん字だ・・・」と酷評され、彼を殴ってしまった事から東京に居られなくなります。彼は五島列島の離島に一軒屋を借り、そこで自分と書に向き合う事になりますが・・・・その家は島の子供達の秘密基地だったのです。

小学校1年生の琴石 なる は座敷童子の様にその空き家に半ば住み着いているし、女子中学生二人は壁にポスターを貼るし・・・静かに書道と向き合うはずの生活は、子供達に蹂躙されます。

都会暮らしでカブトムシも触れない青舟(子供達は先生と呼びます)は、子供達のペースにすっかり巻き込まれながらも、知らず知らずの内に島の生活と島の人達に溶け込んで行きます。

基本に忠実ですが面白味に欠ける彼の書に、少しずつ変化が現れます。そして、内向的で独善的な彼の性格も、次第に変わって行くのです。

あらすじを書くと「ありきたり」な話なのですが、先生と子供や島の住民との触れ合いが瑞々しく描かれ、私達視聴者は「先生」の感動を画面を通して実感する事が出来ます。

■ オーソドックスだけどアニメらしい演出 ■





この作品の最大の見所は7才の少女の「なる」の純真で奔放な言動です。特に「なる」の動きのに一つ一つにスタッフのこの作品に掛ける意気込みと愛情を感じます。

アニメの特徴は絵が動く事ですが、アニメの動きには実写の様な制約はありません。宮崎駿の『カリオストロの城』アニメ的動きを考える時の最適な作品の一つです。壁を駆け登ったり、飛んだり跳ねたりはアニメの得意とする所。

しかし、ばらかもんに見られるアニメ的動きはそれ程現実から逸脱はしていません。「なる」の動きは『トトロ』の「めい」の動き同様、現実の子供の動きを少しデフォルメする事で成り立っています。バタバタと走る時の足の跳ね方や、飛びあがる時の、ほんの些細な動きに、実際の人間の動きに無いデフォルメを加える事で、アニメ的な動きは雄弁に「なる」の心の動きを反映するのです。

特にオープニングの映像は、アニメ的動きのパッケージの様です。終盤のなるが手をバッっと広げるカットは、何度見ても鳥肌がゾワっと立ちます。



『ばらかもん』の演出はアニメとしては比較的オーソドックスなものですが、シリアスとギャグの一瞬の変化など、アニメである事の利点を最大に活用している点において、スタッフはアニメの特性を良く理解しています。

田舎の景気の中で子供のキャラクターが動くという点では『のんのんびより』も共通の作品ですが、『のんのんびより』は、より記号的なキャラクターをリアルに動かすという演出を試みており、『ばらかもん』とは異なるクトルを示しています。どちいらが良いと言う訳ではありませんが、『ばらかもん』はオーソドックスな演出でも十分魅力的な作品が生まれる事を証明している点で注目に値します。

そしてキャラクターデザインと作画総監督を担当する「まじろ」さん(若手の女性)の今後に注目したいと思います。OPの神作画も彼女の手によるものです。素晴らしい才能です。

OPとEDは中村亮介さんという方ですね。この方も巧い。



■ 「アニメをなめるな!!」と言いたくなる『信長協奏曲』 ■



「アニメ的な演出」が余りにも素晴らしい『ばらかもん』に対して、「アニメの何たるか」が全く理解出来ていないのが『信長協奏曲』です。

ストーリーやプロット、アイデアは素晴らしく、原作の漫画が優れた作品である事が分かります。

ところが、これをアニメ化する時点で問題が発生しています。監督は冨士川祐介という方らしいのですが、ドキュイメンタリーやドラマなど実写畑の人を起用しています。アニメは『西洋骨董洋菓子店 ~アンティーク~』の一話で演出と絵コンテの経験をされただけの様です。

富士川監督が『西洋骨董洋菓子店~』ので絵コンテを切ったら250カットになったそうです。通常は30分アニメで200カット程度ですので、これでは完全に予算オーバーになります。実写ではカメラのアングルを変えれは容易に出来るカットの変更ですが、アニメでは背景も変わりますし、動画も新たなアングルで書き起こす必要があります。

さらに富士川監督の描いた絵コンテのアングルで絵を動かせるのはジブリくらいだとスタッフに指摘されます。そこで富士川監督の取った手法は「ロトスコープ」。実写を先取りして、それをアニメに書き起こす手法です。ディズニーの白雪姫で有名なロトスコープですが、最近では『悪の華』のアニメ化で、我々アニメファンを驚愕させた手法です。

ところが、『信長協奏曲』のロトスコープは絵がヌルヌル動くだけで気持ち悪いだけです。1話冒頭に教師が振り返って黒板に板書するシーンだけは、「オー、これってロトスコープじゃん!」ってワクワクしましたが、その後のロトスコープシーンには全く魅力がありません。

■ 私がTVドラマが嫌いな訳 ■

私はTVドラマをほとんど見ません。何故なら演出が雑だからです。適当な風景の前に俳優を立たせ、適当にズームしたり、クレーンでカメラを動かしたり、モンタージュしたりして映像を繋げば、何となく1時間のドラマが撮れてしまいます。ただ、映像が垂れ流されるという量産感が私にはたまらなくイヤなのです。

ドラマでも『北の国から』などの映画並みの演出を試みた作品も多数ありますが、毎週垂れ流されるドラマの多くは、見ていてイライラするレベルの物がほとんどです。要は、映像に対して「無神経」なのでうs。

■ 映像に対してセンシティブで無ければアニメは成り立たない ■

アニメは絵を動かす事に対して大きな制約を負っています。ですから、ジブリは別にして多くのアニメプロダクションは少ない予算の中で如何に効果的なシーンを作るかという問題にスタッフは真剣に取り組んでいます。

「口パク」などは一つの例ですが、アニメのシーンを良く観察すると、意外にも絵が動いている時間は短いのです。特に体全体が動いているシーンは少ない。ズームやパンなど、画面全体が動いて間をつないだり、静止画のモンタージュを挟んでとにかく絵の動きを節約します。

構図も上から俯瞰したり、下から仰ぎ見るシーンは少ない。ほぼ真横からのカットが続きます。これは動画を書く上で、普通の技能でも書きやすいからです。エヴァなどで見られる特殊なアングリや特殊な画角では原画も動画も相当技量が無ければ書けません。まして、それを動かすとなると大変です。

このように様々な制約のあるアニメだからこそ、スタッフは知恵を絞って様々な演出方法を考えだし、独特な構図やカメラワークを模索します。その積み重ねが、現在の日本のアニメの標準的水準の高さを産み出して来ました。

アニメ制作の素人である冨士川氏はアニメ制作を全く理解していないらしく、ロトスコープならば思い通りに絵を動かせると考えた様です。

ところが、その元になる実写の出来栄えが良くなければ、ロトスコープは安っぽいドラマをさらに安っぽい絵で動かすだけの悲惨な結果に終わります。実際に『信長協奏曲』では「悲惨」の実例を見る事が出来ます。

■ 「動かす事」以外にやる事があるだろう!! ■







『信長協奏曲』に関して許せないのは、ドラマとアニメのタイアップという事で、ドラマの映像をアニメの元ネタにするという安直な発想です。

ロトスコープと言えどもヌルヌルと動く動画には手間が掛かります。そのしわ寄せは色々な所に現れます。先ず、実写の俳優の顔と、マンガのキャラクターの顔は違うので、顔や表情の部分でロトスコープの手法は活用出来ませ。

そこで主要登場人物の顔はマンガ原作をアニメ的にモディファイしたものと成りますが、これが「日本昔はなしか!!」って突っ込みたくなる様なキャラクターデザインです。

マンガの絵柄はアニメではそのまま使えないのでキャラクターデザイン担当が存在し、アニメにしても違和感の無い絵柄に調整します。ところが、『信長協奏曲』では、マンガの絵柄をシンプルにした顔が、ヌルヌル動く体の上に載っているから、その気持ち悪さと言ったら言葉では表現できません。「能面を被った役者が演技している」気持ち悪さと言えば伝わるでしょうか?

ところが、庶民などのモブキャラは実写から書き起こしているので結構表情がリアルで一体感があります。メインキャラクターの不自然さとの差が際立って、もう抱腹絶倒のレベルです。

さらにロトスコープの元になる実写が無いシーンでは作画のクオリティーが極端に低下します。もう見るのが辛いレベル。

■ 実写を意識しながらもアニメとして素晴らしい『クレヨンしんちゃん 戦国大合戦』 ■

実写を意識した演出が悪いのかと言えば、そんな事は全然ありません。同じ戦国物で言うならば、原恵一監督『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国対合戦』は、白黒映画時代の時代劇の絵作りをかなり意識しています。

ところが、原恵一が時代劇の映像に求めた物は、古い映画の映像が持つある種のストイックさです。引いた位置からの長回しの固定映像であったり、動き回らない画面にその特徴が表れています。

その一方で、最後の敵の大将とヒロシの一騎打ちのシーンでは、アニメ的なデフォルメされた動画の魅力が炸裂しています。

BALLAD・・・アニメと実写

一方、原恵一は映画の『カラフル』においては、ロトスコープかと思わせる様な写実的な演出を見せています。『カラフル』においてはアニメである必然性は相当希薄で、実写との違いは監督のイメージを完璧に再現出来る手法がアニメであっただけとも言えます。

非凡とは何か・・・原恵一/カラフル

こういった優れた作家達がゴロゴロ居るアニメの世界にあって、『信長協奏曲』はあまりにもデリカシーに欠ける作品と言えます。

■ 制作スタッフの投げやりな気持ちがストレートに伝わって来る ■


「フジレテビからアニメを知らないディレクターが来たよ。」
「250カットだって、冗談じゃないよ。素人が!!]
「え、ロトスコープやるの、本気ですか?」
「まあ、確かにドラマ部分の実写が進行していますからその部分はコスト掛からないけど・・」


こんな現場の空気が伝わって来る様に感じます。

原作のストーリーやプロットが素晴らしいだけに「アニメなめんな!!」と言いたい。


原作が可哀そうです。
ドラマも酷いんだろうな・・・・。


本日はオーソドックスなアニメの演出でも素晴らしい作品が作れる事を証明する『ばらかもん』と、ロトスコープという特集な技法を使ってもアニメが何たるかを理解していなければ悲惨な結果にしかならない事を証明する『信長協奏曲』を取あげてみました。


どちらの作品も原作物ですが、アニメ化において成功するかしないかは監督がアニメを理解しているかどうか、そしてアニメを愛しているかどうかに掛かっているのかも知れません。