経済記事は?陰謀記事は?という皆様には大変申し訳ありませんが、もう一度だけ『聲の形』におつき合い下さい。ドイツ銀行が大変だって!!そんなの、もう皆知ってるから良いですよね。
■ 風景に語らせる新海誠 ■
『君の名は。』映画よいり
何かと比較されるアニメ映画の『君の名は。』と『聲の形』。ネットに
「リア充は『君の名は。』が好きで、オタクは『聲の形』を支持する」なんて書き込みが有りました。これ、言い得て妙です。
『君の名は。』はSF的要素を除けば「青春ラブロマンス」の王道的作品ですし、一方、『聲の形』はラブロマンスと呼ぶにはあまりにも「痛い」作品です。
ただ、内容とは別に『君の名は。』が一般受し易い理由が在ります。それは「風景の描写がキレイ」な事。この点に関しては新海誠は昔から定評があります。
とにかく見慣れた東京の町でもハっとする程美しい。緻密に描かれている事もそうですが、色彩の選び方や、光の捉え方が絶妙です。
新海監督は
「風景に語らせる」監督です。自主製作の短編の『彼女と彼女の猫』で顕著ですが、部屋のドアだとか、コンロで火にかけられたヤカンだとかそういった「部屋の中の風景」がモノローグの背景として人物以上に雄弁です。映画では「モンタージュ」と呼ばれる技法ですが、私小説的な『彼女と彼女の猫』では、「一人称的視点」(多分猫の視点)として雄弁です。
『秒速5センチメートル』辺りから風景は主体を離れ、主人公達を取り囲む「場」に転じて行きます。ナイーブな物語がチンマリと収束してしまいそうになるのを、雄大な景色や美しい景色を描く事で、「世界と繋がった出来事」が進行している様に見せてしまう。
『言の葉の庭』でこの手法はピークに達します。「新宿御苑に降る雨」が物語の進行と見事にマッチして、世界の片隅でひっそりと会う二人を包み込み、陰影を深めます。しとしとと降る雨は、やがて梅雨の終わりを告げる強い雨に変わり、そして夏の到来と共に二人の密会も終わりを告げる。
『君の名は。』では、「雄弁な風景」は物語のコアとして使われています。瀧君が入れ替わりで観ていた景色は「失われた町」の景色だった・・・。「記憶の中の景色」に導かれて瀧
君は糸守町に到達します。観客が物語序盤で、「ああキレイな所だな」と見ていた景色が@「失われていた」という事に、観客も瀧君と同じ喪失感と絶望感を抱きます。
東日本大震災を経験したからこそ描く事が出来、観客も現実として理解出来る描写ですが、「失われた物を(町を)取り戻したい」と願いが観客の心の中にも低通するからこそ、物語後半に向けて観客はグイグイと引き込まれて行きます。
新海誠は、本当に「風景に語らせる」事が上手な作家です。
■ 画面に語らせる山田尚子 ■
映画『聲の形』より
風景の描写なら京都アニメーションも引けは取りません。『涼宮ハルヒの憂鬱』の「サムデイ イン ザ レイン」の「校舎に響くブラバンの練習の音」なんて演出は、今では学校物アニメの定番になっています。
京都アニメーションの作劇の基本は「実写的」或いは「映画的」です。リアルな背景を描く事で、2次元キャラの実在感の弱さを補完する手法と言っても良いでしょう。ただ、それだけでは新海誠やスタジオジブリの「風景の魔法」にはなかなか敵いません。
山田尚子監督が素晴らしいのは映画的技法の中でも「フレームアウト」や「フレームイン」、「パン」や、「偏った構図」という撮影技術をアニメの絵作りに見事に取り入れている点です。
元々は絵を動かさずに画面を動かして時間を稼いでコストカットする目的でアニメはこれらの手法を多用しますが、細田守や山田尚子の演出では、意図的にそれらの手法が使われています。
上で紹介した画面が分かり易いのですが、極端にフレーム中心から外れたカット。画面の余白で主人公の「満たされない気持ち」を表現していたりします。
次のカットは、必死の決意で「好き」と伝えたのに「月」と勘違いされ「宙ぶらりん」になってしまった彼女の想いが、画面の左を余白とする事で良く出ています。
映画『聲の形』より
又、『聲の形』では、女友達の遊びの輪から外れてしまった硝子が一人校庭の遊具に取り残されます。画面は彼女の足元のアップで固定され、遊具を登るにつれて足はフレームアウトし、そして一時の間の後に、画面上から足がフレームインして来ます。これっだけの映像で取り残された彼女の気持ちを雄弁に語ろうとします。
『たまこまーけっと』のTV版でも、たまこ達の頭のてっぺんが画面の下に並ぶ絵で会話が進行する大胆な演出が在りましたが、『聲の形』ではもっと洗練された形で
「フレームのマジック」を見る事が出来ます。
映画『聲の形』より
「引き」や「アップ」や「ローアングル」、そして「前景や背景を使った演出」など、映画のカメラワークをとことん勉強して適所にをれをサラリと入れて来る。ここら辺は優れた監督達は出来て当り前なのかも知れませんが、シームレスにそれらを繋ぎ、又、一番効果的な場面でアップを放り込んで来るセンスは流石としか言い様が在りません。交差点で猫カフェのビラを配る植野が突然現れ、下からいきなり見上げて来るアップのカットには、劇場全体が一瞬ザワメク程の破壊力。
『聲の形』は「実写的」な演出を心がけているのですが、時々実験的はフレームワークが効果的に使われている点は見逃せんません。最後に空をパンアップする安直な演出も、山田尚子のそれは一味違います。パンアップされた空の色は、映画全体のイメージカラーです。
■ 音への拘り ■
映像だけで無く、今回は音にも相当な拘りを見せています。
硝子が片側の耳の聴力を失うシーンは原作ではちょっと分かり難い。再開した植野が小学校の時と同様のイタズラで硝子の補聴器を取り上げるのですが、片側しか付けていません。植野は「片側だけ?」と言うのですが・・・
映画版ではこの前に、祖母と診察に言った硝子に医師が片側の聴力が既に無い事を告げるシーンが挿入され、その夜、ベッドの中で聴力が失われた側の耳に手を当ててそれを確かめる硝子のシーンが続き、すすり無く彼女をそっと見つめる妹の視線へと変わって行きます。もう、このシーンの挿入だけで吉田玲子の脚本に100点を上げたい。
しかし、さらに音響で聴覚の失われた側のスピーカーの音が絞られているらしい。これ原作者の要望だったらしいのですが、ここまでヤルのかと思わせる程の拘りです。これだけで、この映画に掛けるスタッフの意気込みの凄さが十分に伝わって来ます。
(これ、ガセネタかも知れません。確認する為に3回目を劇場で観てきました。前2回はスクリーンに向かって左側だったので、環境音や音楽が左側から聞こえましたが、今回は右側に座ったら、右側からしか聞こえませんでした。声はスクリーン上に定位していたので、敢えて広がり感を出す為に環境音はセンター定位が薄いのかも知れません。その為にスクリーンセンターから外れた座席では、極端に環境音や音楽が左右に偏った位置から聞こえるのかも知れません。音の広がりに拘り過ぎた結果かも知れませんが、音響的には中央の席がベストポジション・・・なのはステレオ(5.1ch)だから当たり前か。)
音響や音楽で拘っているのは「響き」。聴覚障害者が補聴器で音を聞いた状態をイメージさせる為に、音楽の牛尾憲輔はアップライト・ピアノの中にマイクをセットしています。だから打鍵音やペダルノイズ、さらには「籠った」音の響きといった「聞き取り難い音」が絶えず伴います。さらにホワイトノイズを追加したり、レコードの針音のプチ、プチっという音を混ぜたりして、とにかく意図的にS/N比を下げています。
一方、川のせせらぎの音や、コオロギの鳴き声、遊園地のザワメキなどリアルな自然の音が全編に散りばめられていますが、これは将也の主観聴覚の様で、彼が心を閉じている時には聞こえない。
何れにしてもサウンドトラックを聴きに行くだけでも価値の在る映画です。
■ 「分かり易い」新海誠と、「分かり難い」山田尚子 ■
新海誠の「風景に語らせる」技法はスタジオジブリなども得意とする所で観客にも分かり易い。一方、山田尚子の「画面に語らせる」技法は、細田守が得意としていますが、深層心理に作用する手法だけに、一般の観客には見落とされ易い。
どちらも素晴らしい技量なので、今回、これを同時期に映画館で観られるだけでもファンにちっては至福なのです。
3回に分けて『聲の形』をピックアップしました。『君の名は。』はあまり語る必要も無く大ヒットする作品ですし、私もあまり「語りたい」という欲求を感じない作品です。それに対して『聲の形』はとにかく「語りたくなる映画」。そして、多くの人に見て欲しい映画。
松竹があまりにも宣伝に消極的なのは、やはりテーマがナイーヴだけに「批判」が怖いのでしょうが、もう少し気合いを入れてスクリーンを増やして欲しい。
だって、北海道は札幌に2館だけ。東北も各県1館しか見られないなんて・・・。尤も『君の名は。』の舞台になった飛騨市や高山市にも映画館は無く、富山まで見に行っているみたいで、地元では上映会の要望が高まっているそうです。昔、親戚の子供達を連れて「名探偵コナン」を見に行った高山の映画館、閉館しちゃったんですね・・・。
<追記>
右耳の聴力を失ったシーンは重要な意味を持っている様です。片方の聴力を失った硝子は髪型をポニーテールに変えます。これだと補聴器をしている耳が露わになるので、従来は耳が隠れる髪型をあえて選んでいたと思います。
ポニーテールで耳を出した理由は将也に彼女の右右の聴力が失われた事を気付いて欲しかったからでは無いのか・・・。そしてその後のシーンで、敢えて手話では無く「声」で彼に思いを伝えようとしたのも、僅かに聴力が残っている間に自分の声で想いを伝え、それを自分の耳で彼の返事も含めて聴きたかったのでは無いか。
とにかく、とても「深い」作品で、ほんの些細なシーンでも裏には大きな意味が隠されています。下手な推理物などより余程面白い。