湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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プロコフィエフ:交響曲第5番

2006年06月19日 | プロコフィエフ
○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(VIBRATO:CD-R)1990/2/2live

こういう録音を聞くとああ、チェリが晩年録音を拒んだのもうなずける感じがする。プロ5の解釈において娯楽性を排した孤高の境地を切り開き、ひょっとするとプロ5の旋律や運動性の裏に隠れた真実を抉り出すことのできた史上ただ一人の解釈者だったのではないか、とすら思わせるチェリの芸術を、このような録音再生機器を通しての音で全て理解することは不可能だ。

特に響きの純粋さを追求した晩年のチェリが、プロコの独特の響きや絡み合いを見事に明晰にカラフルに描き出し、更に真実味を篭めて「解釈する」さまを、たとえばこんな放送エアチェックの(しかも継ぎ接ぎの)音質で実感することは、よほど慣れていないことには不可能だ。もっともこれはかなり音がソリッドで、生のチェリを感じさせるには十分のブートぶりではあるのだけれども。最初にこれを聞いたら曲を誤解し拒否反応を起こすかもしれない。普段親しんでいる人は余りの拙速さと響きや動きの細部への執着ぶりにつんのめることだろう。

しかしプロコのマニアックに書き込まれたスコアを「ほんとうに」生かして演奏させようとしたら、この重厚なテンポをとるしか方法はなかったのかもしれない。たとえば私個人的に何が効果的なのかわからない、プロコお得意の二拍三連のフレーズが冒頭より(とりわけこの演奏ではわかりやすく)展開される三楽章*、このあたり普通は余り二拍三連であることを際立たせず、ともするとごまかしたように三連符のスラーのかかった伴奏音形を小さく(旋律と絡み合わせず「並行的に」)抑えて響かせるところを、いささかのごまかしもなく、特にこの録音はやりすぎだが、寧ろ三連の伴奏を大きく明確に響かせ、小節内にびしっと正しく収めさせている。ま、結局それでもこの二拍三連の意味がわからないというか、ますます背筋のこそばゆくなるような収まりの悪い感覚以外に効果的なものを感じない私なのだが、それでもこういった縦の動きを正確に表現させることによって、しかも正確なだけではなく、音量変化やルバートぶりにはたっぷりロマンチシズムも取り入れることによって、ただ旋律や表面上のリズムの平易さに流され、すぐに飽きてしまうたぐいの「コンビニエントな世俗交響曲」という印象を、がしっとした構造の中に新ロマン派作品としての清新な響きや旋律が盛り込まれた、すぐれて偉容を誇る大交響曲という印象に入れ替えてしまうことができる。

プロコの意図がどちらにあったのかわからない、しかし恐らく両方を想定していたが、後者は完全再現不可能と考えていたのではないか。チェリは独特の遅いスピードをリズムが死ぬギリギリの線で導入したことにより、その一面真の姿に接近することができた。プロコの音は本質的にスピードを求めるので、それを拙速で再現できたのは奇跡だし、演奏側にとっても至難であり、緊張感に耐え切れなくなりグダグダ寸前になる場面が出てくるのもしょうがない。この演奏は寧ろグダグダにならないで成功しているほうと言える。

偉大な1楽章がやはり優れて聞きものだが、2楽章のたとえばヴァイオリンやホルンのポルタメント(風)フレーズの応酬や4楽章の重戦車が戦慄を覚えさせるほどにゆっくり突き進むさまのクライマックスなど、ちゃんと居を正してしっかり聞けば、今まで感じたことの無いプロ5の側面が見えてこよう。スコアリーディングには実はけっこうあっているかもしれない。くれぐれも原典主義とかその類の客観演奏ではない、そこの違いも聴きましょう。時間が無いときにはお勧めしません。○。


*冷静になって考えてみると二拍三連じゃなくて単に崩壊しかかってるだけのような気もしてきました。スコアでてきたら確認します。旋律が三連で動き出すところが伴奏二拍(その中がさらに三つに分かれる)だと思うんですが。
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