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アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

食べるー鯨と豚ー

2012-10-29 11:56:05 | 随想たち
鯨肉を食べた。
義父が、旅行のお土産に鯨肉を買ってきたのだ。
義母が、生姜と長ネギで、鯨肉を醤油で甘辛く調理したもので、子供たちも美味しく頂いた。
子供たちは、鯨肉を食べたのはこれが初めてではない。
給食で、鯨の串揚げが出たことがあるから。

私の小学生のとき、しばしばこの鯨の串揚げが、給食に登場していた。
低学年の頃は、鯨のベーコンを使った野菜炒めのようなものもあった。
スーパーの肉売り場のショーケースに、豚肉や鶏肉などと並んで、鮮やかな赤い色に着色された鯨のベーコンがでんと場所を占めていた。
しかし、中学生のときには、鯨は給食に登場しなくなった。

今朝、小さい人を学校の近くまで送り届けたとき、大きな豚を満載したトラックとすれ違った。
食肉工場に輸送するのだろうか。

日本は、国土を海に囲まれた海洋国。
古来、鯨は日本の大切な食糧であり、資源であった。
鯨は、捨てるところがないくらいに完璧に使い果たし、鯨を供養するための寺なども建立したほどだ。
今では、その文化があったことを知る世代は、いなくなりつつある。

その昔、鯨漁は、人と鯨の真剣勝負。
大きな鯨を獲るのに危険はつき物、銛や矛などでの突き取りから、船で追い込み挟んで網で獲る網取りなどで、命を落とした漁師もいた。
鯨を獲るときの暗黙の決まりに、小鯨は獲らない、親子の鯨も獲らないとあったそうだ。
資源保護の観点ばかりではなく、心情的なものもあったのではないだろうか。
近代、大型船による捕鯨銃での漁が行われ、安全に漁を行うことが出来るようになって、鯨への畏敬の念は薄れたのは、鯨の命の対価が人の命で払われなくなったことによる皮肉であるが。

近年、欧米の知的海洋生物保護運動により、鯨を食する文化圏は攻撃の対象となった。
それより以前、鯨の乱獲により個体数が激減し、保護が叫ばれていた。
だが、食肉としての鯨では、そんなに獲る必要はない。
鯨油としての利用目的での、乱獲が祟ったのだ。
これには、西欧各国とアメリカが多いに係わっている。
油をとるためだけに殺され打ち捨てられた鯨が、捕鯨基地にごろごろと横たわっていたという。

どうなのだろう、食べるために飼育された豚と、油をとるためだけに殺された鯨、どちらの命が軽いのか。
豚に知能や感情はないのか、誰がそう決めたのだ。
たしかに、その生き物の種類によって、脳の大きさは違い、同種間のコミュニケーション力に差はある。
鯨は歌を歌い、長生きをし、深い海に棲む神秘的な生き物というイメージが定着しているが、それは勝手にロマンを増幅して人が思っていること。
食べるということは、他の命を奪って己が命の存続に使うことなのだ。
食べるという行為で、鯨も豚も同列、召し上げた命を使い切ることが礼儀といえよう。
ならば、きちんと食べきれば、人間同士が食い合っても問題ないという意見もあろう。
ある地域によっては、食人文化は存在した。
それは、食資源に乏しいか宗教的意味合いによってが、その主な理由。
どの生物でも、共食いは避けられている事なので、しないにこしたことはないだろう。

昨日、明石の紅葉鯛の番組を見た。
獲ってすぐの鯛は、興奮し身が硬くなっているので、一晩薄暗い生簀に寝かせ置くと、身が柔らかく甘みを増すといっていた。
鯛は、一晩で諦めを知るのだと思わずにいられなかった。
トラックに載せられ運ばれる豚は、どこか不安げに身を寄せ合っていた。

食べるということは、残酷でもある。
奪った命が無駄にならないように、すべて頂き尽くすことが大切だと、肝に銘じよう。
鯨も豚も浮かばれる様に。