rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

ゴヤ、容赦なく抉り出す筆

2012-01-27 00:14:12 | アート

日傘
 

鰯の埋葬

国立西洋美術館で開催している”ゴヤ展 光と影”に行ってきた。
油彩画と版画にデッサン、特に版画が充実して展示されていた。
ロココ調のロマンティックな「日傘」。
一見、明るく華やかなように見えるが、どこか嘘っぽい。
若い女性は、下からの反射光で不気味さを添え、後にいる若い男の目は、大きく黒っぽくつぶれ仮面のようだ。
日傘を差し向けるしぐさも、空々しい。
この展覧会には出品されていないもので、同じように明るめの色使い、「鰯の埋葬」は、不気味さが躊躇なくあらわれ出て、明るい色調がそれをいっそう引き立たせている。


魔女の夜宴

これは、ゴヤが聴力を失ってから「聾者の家」の壁画として描かれたなかの一枚。
ナポレオンのスペイン侵略とその独立戦争の動乱期に、そしてスペインの宮廷画家をしている中で、人の愚かさをつぶさに見たゴヤが、膿を吐き出すかのように描いたのだ。


戦争の惨禍 なんと勇敢な!


ロス・カプリチョス 理性の眠りは怪物を生む

しかし、ゴヤの真価は、一連の版画にあると、このたび強く確信した。
若き頃より、幾度となく、ゴヤの版画を何度も観てきた。
今回、久しぶりに対面したゴヤの版画に、心底参ってしまったのだ。
世相と人間の性を辛らつに抉った作品だが、その構図の、白と黒のバランスと、モチーフの扱いと、全てにおいてかっこいいと思った。
あたかも、描く内容が愚かで醜くいほどに、画面は美しく研ぎ澄まされていく、自浄作用のように。

表面の綺麗さは、中の汚物を隠し誤魔化すカバーに過ぎないと、人の本性を看破するゴヤ。
スペイン内乱は、筆舌に尽くせないほど悲惨極まりなかったのだろう。
いや、戦争の悲惨さは、いつの世も何処も変わらない。
今も、この地球上で、繰り返されている。

そのゴヤが、絶筆「ボルドーのミルク売りの娘」において、全く毒を感じさせなくなったのは、なぜだろう。
人を断罪することに疲れたのであろうか?
それとも、己が贖罪の意味を込めて描いたのであろうか?
彼の画業において、人生において、救いの光が届いたのだとしたら。
そう思わせる絵に、なっているように感じるのであった。


ボルドーのミルク売りの娘

オーロラを見たい!

2012-01-24 23:36:33 | 空・雲・星・太陽たち
23日に発生した大規模な太陽フレアM8級と、秒速2000kmにもなる高速コロナの質量放出が地球にむかってされたこと、通常の1000倍にもなる太陽放射線が観測されたこと。
これら3つの要素が、日本でもオーロラが見られるかも知れないとされている。
今夜遅くに、オーロラ出現が期待できるらしい。
もっとも、北海道の陸別町あたりという。
ここは、陸別町より700キロは南に位置する。
それでも、なぜだか期待してしまうのだ。
だから、なんとなくそわそわして、寒さをこらえて窓を開け、空をじっと見てしまう。
中くらいの人も、まだ粘って起きている。
「日本でオーロラ発生の可能性」というそれだけで、期待感で幸せな気分になれる。
1億5000万km彼方の太陽と地球の共演、オーロラ。
天空に揺らめく光の帯を、この目で見てみたい。
さて、また空を眺めに行ってみるとしよう。

無音の雪景色、アンドリュー・ワイエス:冬の水車小屋

2012-01-23 23:25:41 | アート

冬の水車小屋

今日の夜になって、雨から雪に変わった。
今、外はしんと静まりかえっている。
強い寒気が南下して、かなりの積雪が予想されているのだ。

冬の北海道に行くと、あまりの夜の静けさに驚く。
雪が、音をみな吸収してしまうのだろう。
日が昇り、窓を開けて見ると、眩いほどの銀世界。
見渡す限りどこもここも一面の雪だと、観念してしまうのか、つい外へ出て新雪を踏みしめたくなる。
さらさらの雪は、ポハッと舞い上がりながら、足跡を刻む。
自分の住むところで降る雪は、苦々しく思うのに。

ワイエスの描いた雪景色は、まさに無音の世界。
そこに住まう人の気配まで、吸い取って、生活の痕跡を消してしまう。
人という生き物が、地球に存在しなかったかのように。
生も死もない、永遠が居座る世界。

むかし、福島県立美術館に、ワイエスの”ヘルガ展”を見に行った。
この美術館は、ワイエスの作品を収蔵している。
”冬の水車小屋”は、そのうちの一枚。
水彩で、巧みに描かれた絵。
画面から、彼の息遣いを探ることはできない。
人が描いたのではなくて、白い紙面の中から浮き上がり、淡々と存在しているようだ。

さても、外は相変わらず雪が降っている。
森閑とする夜も、なかなかいいものだ。
自分の息遣いと、キーボードを叩く音だけがする。
でも、都会では、こんな雪の夜も音が消えることなどないのだろうな。

いったいどれくらい、読み聞かせをしただろう

2012-01-22 22:43:19 | 本たち
子供たちが幼かった頃、図書館から絵本を借りてきては、毎日のように読み聞かせをしたものだ。
ミッフィーの作者、ディック・ブルーナの文のないものから、わかやまけん作こぐまちゃんシリーズ。
宮西達也作おまえうまそうだなシリーズ、アン・グッドマン作ゲオルグ・ハレンスレーベン絵リサ&ガスパールにペネロペシリーズなど、様々なシリーズもの。
それ以外にも、恐竜系や食べ物系の絵本を、たくさん読み聞かせた。

今日の昼は、頂き物の生ラーメンだった。
そこで、ふと赤川明作”ラーメンのかわ”という本を覚えているかと、中くらいの人に尋ねみた。
はっきりとした内容は覚えていないけれど、子供心にも衝撃的で、うらやましく思った印象があると返ってきた。
それから、ドム・マンセル作”恐竜が町にやってきた!”を、繰り返しせがんで読んでもらったことがあるとも。

読み聞かせをせがまれて、いつまでしていただろう。
小さい人が小学2年生の頃まで、していたかもしれない。
そのときに、中くらいの人も寄ってきて、一緒に聞き入っていることもあった。
なぜか、リクエストさえする始末。

いまではもう、読み聞かせなどせがまれることはない。
かえって、風邪で寝込んでいるときに、小さい人が、本を読んでくれるようになってしまった。
中くらいの人は、自分で読みたい本を探してきたり、友達と貸し借りしては、何冊も重ね、貪るように読んでいる。
幼い頃に蒔いた読書の種が、ようやく芽吹いたのだ。
しみじみと嬉しく思う。

読書は、生涯通してできる楽しみの一つ。
誰に構わず、好きなときに好きなものを読み、楽しんだり、疑似体験をしたり、知識を得たり、自分を肥やすことができる。
しかし、時間をただ紛らわすには、いまの時代、あまり適しているとはいえない。
自らの意思で活字を追わないと、何も始まらないのだから。
能動性をもたないと、読書はできないのだ。
だから、本を読む行為は、押し付けても何にもならない。
幼い時から本の世界に親しみ、周りも本を人生の一部としているような環境が、読書を継続させる秘訣なのだと思う。
いや、蒔いた種の発芽率が上がるのに、一役買うくらいかもしれないが。

ともあれ、中くらいの人の読書の芽は出た。
それが大きく育つことを願い、本を片手に見守っていくとしよう。



今日は大寒、みぞれ混じりの冷たい雨が乾いた大地を凍えさせる

2012-01-22 00:17:22 | 随想たち
今日は、大寒。
昨日からの、冷たい雨と猛烈に吹きつける北風が、今日の前触れとなった。
1ヶ月以上も雨がなく、乾ききった大地にみぞれ混じりの雨が突き刺さっていく。
土も里山も街も人も、芯から凍えきってしまった。
庭に出て、杉や椿などの木の根元を見てみると、乾ききった土が覗いている。
たしかに、雨の勢いはたいしたことがなく、大地を浸しきるには及ばないようだ。
今日の夕方あたりから、雨脚が強くなり、これで土の中まで浸透するだろう。
ラニャーニャ現象が赤道付近で発生しているときは、寒気の南下が促され、寒さが厳しくなるという。
暑い夏、寒い冬、集中豪雨に長雨、少雨。
気候が激しく変動すると、人にとって都合の悪いことがいろいろと起こる。
人の産業活動が活発化して、二酸化炭素を大量に排出し、かたや森林伐採を容赦なく行い、温室効果ガスが地上を蓋い、温暖化を促進するとしている。
しかし、地球の長いサイクルのうちには、温暖期と寒冷期が繰り返されている。
もしかすると、温暖化と騒いでいる現在、多少の関与は否定できないにしても、地球の一時期にすぎないのかもしれない。
だからといって、化石燃料などをむやみに消費していいわけではない。
地球上の一生物であるからには、他の種に対して存在を脅かしたりしないように、生存活動をしなくてはいけないだろう。
つまり言いたいことは、ある小さな局面を捉えて、ある特定の利益を生むための大儀と手段にしてはいけないことだ。
〇〇ビジネスにしてはいけないのだ。
政治家、科学者、市民が、人為的に起こしていることを短期的に偏った見識に基づいて、ヒステリックに過剰反応しないことが求められる。
〇〇ビジネス的な、本来の趣旨や状況にそぐわないことが、身の回りで起きてはいないだろうか?
何か釈然としない、引っかかるものに、心当たりはないだろうか?
今日は大寒、みぞれ混じりの冷たい雨が乾いた大地を凍えさせる。
コタツにあたりながら、そんなことを考えてみた一日だった。