日傘
鰯の埋葬
国立西洋美術館で開催している”ゴヤ展 光と影”に行ってきた。
油彩画と版画にデッサン、特に版画が充実して展示されていた。
ロココ調のロマンティックな「日傘」。
一見、明るく華やかなように見えるが、どこか嘘っぽい。
若い女性は、下からの反射光で不気味さを添え、後にいる若い男の目は、大きく黒っぽくつぶれ仮面のようだ。
日傘を差し向けるしぐさも、空々しい。
この展覧会には出品されていないもので、同じように明るめの色使い、「鰯の埋葬」は、不気味さが躊躇なくあらわれ出て、明るい色調がそれをいっそう引き立たせている。
魔女の夜宴
これは、ゴヤが聴力を失ってから「聾者の家」の壁画として描かれたなかの一枚。
ナポレオンのスペイン侵略とその独立戦争の動乱期に、そしてスペインの宮廷画家をしている中で、人の愚かさをつぶさに見たゴヤが、膿を吐き出すかのように描いたのだ。
戦争の惨禍 なんと勇敢な!
ロス・カプリチョス 理性の眠りは怪物を生む
しかし、ゴヤの真価は、一連の版画にあると、このたび強く確信した。
若き頃より、幾度となく、ゴヤの版画を何度も観てきた。
今回、久しぶりに対面したゴヤの版画に、心底参ってしまったのだ。
世相と人間の性を辛らつに抉った作品だが、その構図の、白と黒のバランスと、モチーフの扱いと、全てにおいてかっこいいと思った。
あたかも、描く内容が愚かで醜くいほどに、画面は美しく研ぎ澄まされていく、自浄作用のように。
表面の綺麗さは、中の汚物を隠し誤魔化すカバーに過ぎないと、人の本性を看破するゴヤ。
スペイン内乱は、筆舌に尽くせないほど悲惨極まりなかったのだろう。
いや、戦争の悲惨さは、いつの世も何処も変わらない。
今も、この地球上で、繰り返されている。
そのゴヤが、絶筆「ボルドーのミルク売りの娘」において、全く毒を感じさせなくなったのは、なぜだろう。
人を断罪することに疲れたのであろうか?
それとも、己が贖罪の意味を込めて描いたのであろうか?
彼の画業において、人生において、救いの光が届いたのだとしたら。
そう思わせる絵に、なっているように感じるのであった。
ボルドーのミルク売りの娘