「土曜日、お母さんと会うからな」
「え………………………………?」
これが全ての始まりだった。
俺は、どこと言って取り柄も無ければ、欠点もない(と思ってる)、ごく普通な高校生である。
通っている高校も偏差値58の府立真田山高校。クラブは、どこの学校でも大所帯の軽音楽部。特に軽音に関心が高いわけじゃない。中三の時、友だちに誘われて、ちょっとだけアコステをやり、校内の発表会に出た。
バンドというだけで注目だった。どっちかって言うと、そういうのは苦手。ボクは、ただ習ったコードをかき鳴らしていただけ。本番でも五カ所ほど間違ってしまった。とてもアコステをマスターしたとは言えない。でも、観客の生徒はみんなノリノリだった。友だちのボーカルが多少イケテル感じはしたけど、素人のボクが見ていても、ハンパなモノマネに過ぎなかった。
だから高校に入るまで、そういうのとは無関係だった。中学のアレは、義理ってか、押し切られたとか、まあ、そういう範疇のものだ。
高校で軽音楽部に入ったのは、とにかく人数が多く、適当にやっていれば、学校の居場所としては悪くないから。
実質は十人ほどの上級生が独占的にやっていて、ボクたちはエキストラみたいなもんだ。
でも、それでよかった。
やったことと言えば、伝統の「スニーカーエイジ」に出場した先輩の応援にかり出され舞洲アリーナで弾けたぐらい。
そう、一般ピープルと言うかモブして観客席で群れているのが性に合っている。
だから、入部したときに組まされたメンバーも、そういう感じで、ケイオン命ってんじゃなくて、お友だち仲間というベクトルが強い。お友だちというのは、互いに深いところでは関わらない。他愛のない世間話をするぐらい。
スニーカーエイジの授賞式で先輩と目が合って「おめでとうございます」と言った時、先輩は俺の名前が出てこず、曖昧な笑顔をしていた。こういうことにガックリ来る人もいるだろうけど、俺は名もないモブであることにホッとした。
俺は、そういうヌルイ環境が心地よかった。
さて、本題。
ボクの両親は、ボクが小学二年の時に離婚した。
原因はお父さんの転勤だった。
なにか仕事で失敗したらしく、実質は大阪支店への左遷だった。ずっと東京育ちだったお母さんは、大阪に行きたがらなかった。そして、それよりも左遷されて、自信やプライドを失ってしまったお父さんに、お母さんは嫌気がさしてきたようだった。
で、あっさりと離婚が決まり、俺はお父さんに引き取られ大阪に来た。一つ年下の妹はお母さんが引き取り、我が家は、あっさりと大阪と東京に別れてしまった。
それ以来、お母さんにも妹にも会っていない。妹が四年前交通事故で入院した時、お父さんは一度だけ、日帰りで会いに行った。
「大したことはなかった」
その一言だけで、お父さんは二度と東京にいかなかったし、当然俺も東京には行っていない。
それが、今朝、ドアを開けて出勤しようとして、まるで天気予報の確認をするような気軽さでカマされた。
「この土曜日、お母さんと会うからな」
「え………………………………?」
俺は、人から何か頼まれたり命じられたとき、とっさに返事ができない。
一拍おいて「うん」とか「はい」とか、たいてい同意してしまう。小学校の通知票の所見には「穏和で、友だち思い」と書かれていた。要は事なかれ主義の、その場人間。お父さんに似てしまったんだと思う。この時は、「うん」も聞かずに、お父さんはドアを閉めてしまった。だからだろう、初めて乗ったリニア新幹線の感動も薄かった。
そして、その土曜、Yホテルのラウンジ。
目の前に、八年前と変わらないお母さんが座っていた。
そして、その横には、すっかり変わって可愛くなった妹の幸子が向日葵(ひまわり)のようにニコニコと座っていた。