ライトノベルベスト・エタニティー症候群・1
[92歳のハナタレ小僧]
92歳のハナタレ小僧は、共を引き連れ矍鑠(かくしゃく)と歩いてきた。
車寄せに繋がる廊下の角に女生徒が一人佇んでいた。ハナタレ小僧の蟹田平蔵が近づくと、折り目正しく三十度の礼をした。
蟹田は、こういう平和学習で時おりいる子だと思った。蟹田の戦争体験に感激。その余熱のあまり見送りにきてくれた純粋で血の熱い女生徒とだと思ってしまったのだ。
「蟹田兵曹、話がある」
女生徒は、可愛い声でキッパリと言った。わずか17ぐらいの女生徒とは思えない重い威厳のある響きに蟹田は不覚にもたじろいでしまった。
気づくと周囲のものが全て止まっていた。お供のNGOの世話役も、学校長も、新聞記者も、玄関のガラスの向こうを飛ぶ二羽の鳩も、そのはるか向こうの雲の流れも。
「貴様の面目をおもんばかって時間を止めた。着いて来い」
女生徒は、蟹田の気持ちなど斟酌せずに歩き出した。蟹田は二年兵のとき大隊長の従卒に戻ったように後に続いた。
「ここでいいだろう。遠慮せんでいい、貴様も掛けろ」
車寄せとは逆の中庭のベンチに並んで腰かけた。
「い、いったいどうなっているんだ? 君はいったい何者なんだ……?」
「こんなナリをしているが、東鶏冠山北堡塁を奪取した某中隊長だ」
「東鶏冠山北堡塁……そりゃ日露戦争の二百三高地の……?」
「部下をたくさん死なせた。官姓名は勘弁してもらう」
「お嬢ちゃん、あなたね……」
「信じろ。私は明治5年生まれの146歳、この女生徒の姿は仮のものだ。そう思って話を聞け」
蟹田は、落ち着きなく、あたりを見まわした。
「しかし、これは……」
「時間を止めただけでは信用できんか。これを見ろ」
目の前に、胸に弾を受け、今まさに倒れようとする兵士の姿が浮かんだ。
「浜本伍長!」
「そうだ、貴様の読み違いで弾除けになって死んでいった浜本伍長だ」
「この後、自分は村人の虐殺をやったんだ……!」
蟹田はベンチに座ったまま頭を抱えた。時間が止まっているので、太陽は動くこともなく蟹田を咎めるように、同じ角度で禿げ頭を照らしている。
「あのとき中隊は、ほぼ壊滅状態になり、貴様は残存者の最上級者になってしまい緊張の極みにあった。これをよく見ろ」
女生徒が指差した方向に、あの時の村人たちの怯えた姿が浮かんだ。さっきの浜本伍長とは違って、ごく微速で動いていた。銃の発射光が、村人たちの背後のブッシュの中からいくつもした。
「……これは」
「貴様は、記憶からこれを消し去ったんだ。敵は村人たちを楯にして、ブッシュから、貴様らの掃射をやった」
現地の言葉で叫ぶ声がした。
「あれは高野兵長が、村人たちに『伏せろ!』と叫んでいるんだ。そのために三名の村人は助かった。貴様の残存部隊は良く戦った。五名の犠牲者を出しながらも敵を撃破したんだ。貴様は村に入る時に偵察を十分にやっていなかった。浜本伍長は捜索を進言した。しかし蟹田、貴様はそれを聞き入れず村に入った。宣撫が行き届いていると安心してな。村人たちも恭順の意を示すため、一か所に集まっていた」
「……そんなことは、どうでもいいんだ。儂が村人を虐殺したんだ、その事実からは逃げられん。だから戦争はやっちゃいけない。我々戦争体験者は、その恐ろしさと、狂気を伝えなきゃいけないんだ!」
「自分の過失を日本全体に広げるな。貴様が知っている日本は、高々昭和の五年くらいからの十五年ほどだ。あの狂気の時代をもって、明治からの日本全体を貶めることは慎め。今日の貴様の話は、あまりに聞き苦しいんで、こうやって……」
「そのくらいにしてやんなよ。立花さん」
止まっているはずの時間の中から声がした。中庭の対角線方向に人がいた。
「神野君……!?」
気づくと蟹田は、涙したまま止まっていた。
「ボクも君と同じエタニティー症候群。ただし年季が違う。もう二千年は超えたかな……立花さんは同類かなって、今日尻尾を掴んだ。邪魔をしたかもしれない。どうするかは立花さん次第」
そう言って、神野君が指を鳴らすと再び時間が動き出した。蟹田は泣き疲れたハナタレ小僧のようにしおたれて車に乗って行ってしまった。
蟹田を見送って振り返ると神野君の姿はなかった。
※ エタニティー症候群:肉体は滅んでも、ごくまれに脳神経活動だけが残り、様々な姿に実体化して生き続けること。その実体は超常的な力を持つが、歳をとることができないため、おおよそ十年で全ての人間関係を捨て別人として生きていかなければならない。この症候群の歳古びた者を、人は時に「神」と呼ぶ。